第15話2014年初秋―緑の風を追って②

 特急がJR長崎駅に到着すると、佐奈子はどの乗客よりも早く下車した。

 当時のホーム内にはエスカレーターもエレベーターもなく、手荷物で気力を消耗する乗客も盆シーズンの帰省ピーク半分にも満たなかった。

 ホームのベンチでアップ・トレーニングしても、誰も気に留めない。ゆとりのある空間でも、佐奈子は切符の手渡しが煩わしく自動改札機に並んだ。

 当時の最先端技術のおかげで、佐奈子はサングラス越しに駅員と顔を合わせずに済んだ。改札機の先も駅構内ではあるが、活気に満ちたショッピング・モールのおかげで別空間に入った気分になった。

 これまで佐奈子は出張の際、駅到着直後に学園への報告または直帰していた。交通手段は長崎市内で最安価の路面電車と決めていた。

 どの駅で乗降しても料金は一定額で、当時は大人一人一回で百円以下と経済的に安心できた。

 唯一の難点にさえ目を瞑れば、一時間の最低賃金ワースト常連の長崎県民にとって最高の交通手段ではある。

 観光客が集客する駅ということもあり、駅から離れた宿泊先へ乗車する物好きで毎便密室化する。それだけだ。

 日常光景を知るゆえに、佐奈子は出張から戻るたびに肩身の狭い思いをしていたが自動車を購入したいとは一度も思ったことがない。

 佐奈子が仮に純粋な人間に生まれたとしても、自動車の維持費は可能な限り給料から払いたくないのは変わらないと確信していたからだ。

 小柄なハナサキ族が見張っている一軒家の主・村雨正晃もその一体だと、佐奈子は思っている。

 正晃は地方公務員として人間界に生き、実子のトビヒ族・瑚子を育てている。

 瑚子は人間の継母・友里子にも愛されて、多くの純血の人間よりも幸福を感じて生きている。

 この年の運動会へも例年通り、夫妻がビデオ・カメラと弁当を持参し、友里子の実母・絹代は佐世保市からわざわざJRにて長崎市へ来た。

 絹代の紙袋には、アメリカ輸入菓子と佐世保銘菓・ぽるとが詰まっていた。その年毎に菓子の中身が変わるのも、瑚子の楽しみの一つだった。

 毎朝のコンタクト装着以外に不満の無い瑚子に対し、正晃は顔面の雲が拭えない日々を過ごしている。

 正晃は長崎市に住む同胞の中でも生真面目な方で、だからこそ人間に囲まれる瑚子が人間でないことを伝える術を模索している。

 正晃の実両親、先妻と義両親は既に亡く、友里子と距離を置いて打ち明ける環境が欠けている。

 戦後、人間界に生きるトビヒ族は核家族化し、さらに世帯ごとの交流が激減している。

 最終候補として覚醒しなければ人間界で生涯を終えることも難しくないが、それは自身のルーツを知っていることが大前提である。

 もう一体のトビヒ族、もしくは人間との子が必ずしも人型で生まれるわけではないからだ。自分自身が生き延びるためにも、本来の姿で生まれる我が子を守らなければならない。

 そのために佐奈子と配下の両族同胞が存在するが、管理能力に限界がある。

 限界に達する前にと、佐奈子は翌日正晃に接近した。


 この日は月曜日だが、運動会の翌日なので小学校は振り替え休日となっていた。正晃は父兄参加競技の副産物を抱えて長崎市役所に向かった。

 夕方はデスク・ワークの勲章を背負い、路面電車で岐路に向かっていた。密集した空間内で人間が器用にうたた寝していたが、正晃は車窓の緑から目を逸らさなかった。

 正晃だけが、坂上の緑に溶け込むもえぎ色の陽光に気付いていた。声をかけながら人間の波をかき分けて、浦上駅前停留所の先、平和公園停留所で降りた。

 人気の少ない道を進む中、一度だけ公衆電話の前で止まった。帰りが遅れることを友里子に伝えるべきか迷ったが、正晃は受話器に爪すら触れずに通り過ぎた。

 日ごろより市役所の経費で連絡しない正晃だが、だからといって携帯電話を買おうとは思わない。何かあれば友里子が市役所に電話をかけるからだ。それに友里子が瑚子についている。

 のトビヒ族と人間の混在としては、人間のみの家庭よりは安らぎのある家庭だ。その後正晃が生涯の中で信用する人間は友里子の後に一人も現れないのも、正晃がそれを虚しいと感じないことも、少し先の未来に迎える最期が証明する。

 だが、実子の瑚子も同じ生を歩むとは限らない。

 友里子に言わせれば子ども特有の体温に過ぎないが、正晃は時折瑚子の温もりから身に余るエネルギーを感じる。

 正晃の血縁者から族長最終候補が現れなくなって久しく、杜へ還るのは埋葬時のみと限られるようになった。

 そんな正晃がトビヒ族としての瑚子を守るために、同胞の適度な監視を受け入れている。

 杜に隠れる陽光に導かれ、正晃は日没に紛れて人間から姿を隠した。

 もえぎ色の陽光も同時に消えて、生い茂る緑は影色に染まった。

 人影が自身の顔に手をかけると、眼鏡らしき物体を外すのが分かった。肩幅や腕の節の細さから、人型は女性だった。

「私を誘ったのはではなかったのか?」

 正晃は通勤かばんを持っていない右手で自身の右目を覆った。コンタクト・レンズの奥には陽光と同じ色彩が隠れている。

 人影は眼鏡をかけるふりをして、二色の色彩でレンズを染めた。

「その色も、私の色彩です。その意味も使命も、貴方ならばご存じですよね? 村雨瑚子さんのお父様、村雨正晃様」

「今代は近くにいたというのか――えんじ色の色彩をも持つトビヒ族が」

「お初にお目にかかります。百武佐奈子と申します」


 佐奈子の背後には、本来の姿の、小柄なハナサキ族とトビヒ族が二体ずつ控えていた。

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