第61話 祖母

先日、兄夫婦の結婚式が催されるにあたって、長崎の伯父宅に住む父方の祖母が私の実家に滞在することになった。

この祖母というのが軽い認知症を起こしており、また右股関節に人工骨頭を入れている為、常に誰かが見張っていなければならない。なので父から電話で報せを受け「顔を見に来い」と言われた時、私は言い知れぬ不安に駆られた。


「あの、マジで泊めるん?」


私の問いに父は『当たり前や』と返した。


『親なんやから、兄貴ばっかに任せとらんで世話しちゃらんと』


やけに自身に満ちた父の声に、私の不安が増大した。




電話を貰った翌日、私はある出版社から依頼されていた記事を納品した後、出版社のある市街からバスで30分程の所にある実家を訪れた。

この日、電話を寄越してきた父は仕事を休んでいたようで、私が家のインターホンを鳴らすと上下スウェットに老眼鏡という出で立ちで出迎えてくれた。


「ばあちゃんはどうよ」


三和土に散らかされた靴を並べながら父に尋ねると、父は自身の頭を指して「来とるわ」と答えた。


「同じことを何回も喋ってな。顔はわかるみたいやけど」


「顔がわかるなら上等よ」


「まあそうか」


そんな会話をしつつ父と共に居間へ入る。居間ではソファに腰かけた母が祖母の話し相手をしながら洗濯物を畳んでいた。祖母は数分おきに同じ話を繰り返し、その都度母が違った返事をしている。

2人の近くには開きっぱなしの楽譜と壁に立て掛けられたギター。父がさっきまでギターをかき鳴らしていたであろうことが窺える。

この光景こそが、私が抱いていた不安の正体だ。父は日頃からあまり家事をしない。やるとすれば母から「お父さんの卵焼きが食べたい」と言われた時に卵焼きを作るか、母が準備するよりも先に風呂に入りたくなったら自分で湯を張るかの2つぐらいでは無かろうか。

これは3年前に脳梗塞を起こした母が、麻痺が残る手足のリハビリを兼ねて全ての家事を請け負っているからというのが理由ではあるのだが、それにしたって手伝おうとする素振りすら見せずギターをかき鳴らす父にはモヤモヤとしたものを感じる。祖母の介護という大仕事が加わっては尚更。

「自分の親だから」というならもう少し何かしてもいいんじゃないか。悶々としながらギターを睨んでいると、私に気づいた母が「おかえり」と言いながらバスタオルを持って立ち上がった。


「悪いけどお母さん洗濯物なおすけん、ここ座ってばあちゃんの相手して」


母に促されてソファに座り、祖母に「久しぶり」と声をかける。祖母とまともに向き合ったのは7~8年ぶりぐらいだったので私のことを忘れているかもしれない、覚えていても眉毛が無くては誰だかわからないかもしれないと思った。しかし祖母はちゃんと私のことを覚えていたようで、驚いたように目を見開き「はーちゃん!」と微笑んだ。


「はーちゃん大きいねぇ。ばあちゃん驚いちゃった」


「そうだなぁ、もう180超えてるからねぇ」


「あらまぁー!」


祖母が手を叩き、その度に線香の匂いが漂ってくる。

線香は私が生まれる前に亡くなった祖父の仏壇にあげられたものだろう。長崎の家には祖父の仏壇があり、昔から家を訪れると必ず祖母が線香を焚いていた。今でも祖母は時々線香を焚こうとしてマッチを取り出すそうだが、その度に伯母か伯父がマッチを取り上げ代わりに線香を焚くらしい。今の祖母に火気を扱わせることはできないからな、と伯父夫婦の苦労に頭が下がる思いでいると、祖母が私の顔を見つめながら再び目を見開いた。


「はーちゃん大きいねぇ!」


「そうだね。180超えたからね」


「あらまぁー!」


軽くキテるな。手を叩いて笑う祖母を見ながらそう思った矢先。


「■■ちゃん」


祖母が呼んだ名前に私も、私の背後に立っていた父も、洗濯物を片付けていた母親も身を強張らせた。

祖母が呼んだのは私が"初郎"になる前の名前だった。母方の集落にある大蛇の塚で禁忌を犯して消されたハズの少年の名前だ("蛇 前後編"参照)。

さすがにもうその名前を呼ばれて何かが起こるなどということは無いだろう。私は表情の険しくなった両親に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせ、祖母には「俺"初郎"よ」と訂正した。しかし祖母は「■■ちゃん」と呼ぶばかり。

そのうち何やら恐ろしいことを言い始めた。


「■■ちゃん、おおーきな蛇さんになっちゃったねぇ。立派やねぇ」


「■■ちゃん、ちいーさな男の子が一緒におるねぇ。食べんことよ」


「■■ちゃん、お友達はだーいじにせなぁよ。良い方向に導いて下さるからねぇ」


思わず「ごめん、用事あった!」と叫んで家を飛び出した。


私はバス停までの道を速足で進みながら、祖母の言葉の意味を考察した。

1番目はわかる。昔、母方の集落に住む老人から「蛇の化身」と呼ばれたことがあるので("蛇 前後編"参照)そのことだろうと思う。3番目もわかる。私の友人達は本当に良い人間ばかりだ。しかし2番目は全然わからない。小さな男の子とはどういうことだろうか。過去に小さな男の子、特に霊的な何かと接触する機会があっただろうか。

私は一瞬でも、中学時代にしでかした家出の最中に出会った男の子を思い出した("家出"参照)。しかし件の男の子は不審な初老の男に連れていかれて安否不明なハズで、仮に故人になっていたとしても初老の男に付きまとうことだろう。というかそうであってくれ。

私は煩悶しながらバスを乗り継ぎ、我が家のある街まで帰りついた。


「初郎君!」


バス停を降りて歩き出したところへ、背後から私を呼ぶ声。振り返ってみると、私の同居人であるA沢という青年が嬉々とした面持ちで私に駆け寄ってきていた。


「おばあちゃん元気だった?」


タックルでもしそうな勢いで迫ってきた秋沢氏を見下ろして、私は思わず吹き出した。祖母の言う"小さな男の子"が秋沢氏である可能性に気づいたのだ。祖母の心眼が何を捉えたのか正確には謎だが、私の肩程しか背丈が無く顔も幼い秋沢氏は祖母にとって中学生かそこいらの少年に見えたことだろう。同時に私の姿が大きな蛇に見えていたのなら、祖母が「食べんことよ」などと意味のわからないことを言っていたのも頷ける。

もしかしたら祖母は認知症と別に、何か特別な第六感のようなものが目覚めたのかもしれない。だからといって祖母の生活に何か影響が出るわけではなさそうだが。信じるかどうかはわからないが、後で電話して説明しておこう。親父のスマホに。

そう決めて私は「なんで人の顔見て笑う!?」と肩を叩いてくる秋沢氏の頭を掴み、1度噛みつくような素振りを見せてからワシャワシャと撫でた。秋沢氏が怪訝そうな顔で後退ったので私は腹を抱えて笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る