3 変化の術
「……何やら不穏な気配を感じるのう」
ようやく眠りから覚めた魔女エマは、ジェラのこしらえた朝の食事をたいらげながら、そのように発言した。
フィリアもジェラも、同じ卓で同じ食事を口にしている。ようよう『魔女の正餐』を食べ終えて、山菜と香草の汁物料理に舌鼓を打っていたフィリアは、不思議そうにそちらを振り返った。
「不穏な気配って何ですかー? まさか、妖魅が出現したとか?」
「妖魅なんぞが、我の結界を破れるはずはなかろう。我が言うておるのは、おぬしたちのことじゃ」
金色の瞳を半分まぶたに隠しながら、魔女エマはジェラの顔をねめつけた。
「もしやおぬしは、この不埒なる娘に懐柔されたのではあるまいな?」
「まままままさかそんな! そそそそのようなことがありうるわけはございましぇん!」
「動揺しすぎじゃろ。おぬしは甘言に弱いからのう」
ぶすっとした面持ちで、魔女エマは豆の団子を口に放り込んだ。
「まあよいわ。おぬしが懐柔されたところで、我が甘い顔を見せなければ済む話じゃからな」
「えー? わたしは魔女さんにも甘やかされたいですー」
「そのような言葉を聞かされて、甘い気持ちになる人間はおらんわい」
「わわわ私だって、この娘に甘い顔などは見せてはおりません! 私の忠誠と愛欲は、エマ様のみに捧げられております!」
「たぶんじゃが、おぬしは愛欲の意味を取り違えておるぞ。取り違えておらんのなら、あとで教育が必要じゃな」
十分な休息を取ったためか、本日も魔女エマは元気そうな様子であった。
口いっぱいに頬張った川魚の油漬けを呑み下してから、フィリアはにっこりと微笑む。
「でもでも、魔女さんがぐーぐー眠っている間に、従者さんとはいっぱいおしゃべりできました! 今度は魔女さんとおしゃべりさせていただきたいですー!」
「まっぴらごめんじゃ。おぬしなんぞと慣れ合う気は、これっぽっちもないのじゃからな」
「えー? それじゃあどうして、わたしの逗留を許してくれたのですか?」
「それは、ジェラの罪の贖いじゃろうが? そうでなければ、とっくにほっぽり出しておったわい」
「ちぇー! ……まあいいや。ひと月かけて、じっくり篭絡しよーっと」
「たぶんじゃが、そういう言葉は口に出さんほうがよいと思うぞ」
そのとき、コンコンと軽妙な音色が響きわたった。
黒い色をした茶で口を湿してから、魔女エマは「入れ」と言い捨てる。
それに応じて姿を現したのは、暗灰色をした小さな鼠であった。
「わー、今度は鼠さんですねー。こちらも魔女さんの使い魔というやつなのですかー?」
「そうでなければ、入室を乞うこともなかろうよ。このような朝方に、何の騒ぎじゃ?」
鼠は木の実をこすり合わせるような鳴き声で、何かを伝えた。
魔女エマは「ふむ」と眉根を寄せる。
「日の出ている内に騒ぎを起こすとは、なかなかに厄介な妖魅じゃな。まあよい。食事が済んだら始末をつけてくれるので、おぬしはそのまま見張っておれ」
鼠はちょろちょろと床を駆けると、戸棚の陰に身を隠した。
フィリアは小皿を抱えたまま、そちらのほうに首をのばす。
「鼠さんや鴉さんは、どこから入ってきてどこから出ていっているのですか? いつもその瞬間を見逃してしまうのですよねー」
「それは見逃しているのではなく、見たものを認識できておらぬのじゃ。何せおぬしは、石の都の人間であるのじゃからな」
「なるほどー! それじゃあ、あの『魔女の正餐』というものを食べ続けていたら、わたしにもいつかその姿を認識できるようになるのですね!」
「知らんわい。石の都の人間が『魔女の正餐』を口にしたのは、これが初めてのことなのじゃからな」
「えー! あんなに不味いものを食べ続けて何の効果もなかったら、やるせなさすぎますよー! ……あ、また不味いって言っちゃった。従者さん、ごめんなさい」
「お、おやめください! 懐柔されませんから!」
そうして騒いでいる間に、朝の食事は終了した。
魔女エマは「さて」と椅子から飛び降りる。
「このたびの妖魅はそれなりの魔力を有しておるようじゃから、おぬしにもたっぷり働いてもらうぞ、ジェラよ」
「ええ、もちろんです、我が主よ」
「それでもって、その地には石の都の住人もうじゃうじゃと待ち受けておるらしい。面倒ごとを避けるために、こちらも備えが必要じゃろうな」
「そうですか。変化の術式は、ずいぶんひさびさとなりますね」
ジェラの言葉に、フィリアが過敏に反応した。
「変化の術式とは!? 何か別の姿に化けるのですか!?」
「ふん。石の都の住人どもに素顔を知られるのは、具合が悪いのじゃ。そら、こっちに頭を寄越すがいい」
「はい」とジェラが進み出て、魔女エマのもとで膝を折った。
壁の蔓草から杖を受け取った魔女エマは、ジェラの肩に杖の先端を押し当てる。
そうして魔女エマが呪文を唱えると、ジェラの首から上だけが黒い霧に包まれた。
その霧が晴れたとき、そこに現出したのは黒い狼の顔貌であった。
「うわあ、顔だけ狼さんになれるのですねー!」
ジェラは、凛然と立ち上がる。首から下は艶めかしい女性の姿であるのに、首から上だけが狼の顔貌というのは、実に奇怪な姿であった。
「それじゃあ、魔女さんは? 何の動物のお顔になるのですか?」
「たわけ。本質のともなわない変化には、無駄な魔力がかさむこととなる。正体を隠すためだけに、貴重な魔力を使ったりはせんわい」
そのように言いながら、魔女エマは木の杖を振り上げた。
その口が呪文を唱えると、魔女エマの小さな身体が黒い霧に包まれる。
そうして魔女エマの変化が終了するなり、フィリアは驚嘆の声をあげることになった。
「すごーい! 魔女さんが大人になっちゃいましたー!」
「我は、最初から大人じゃ! おぬしの何倍の生を生きておると思っておるのじゃ!」
そのようにわめく魔女エマは、ジェラにも負けないぐらいの背丈になっていた。
炎のように渦を巻く赤髪と、妖しくきらめく金色の瞳に変わりはない。しかし、その面はこれまたジェラにも負けないぐらい妖艶であり、緋色の
「それでは、出発しようかの。おぬしは大人しくしておるのじゃぞ」
「えっ! まさか、わたしを仲間外れにするおつもりなのですか!?」
「おぬしは仲間ではなく、客人じゃ。妖魅退治に同行させるいわれはないわい」
「だって、最初の晩には連れていってくれたじゃないですかー!」
「あれは、妖魅の恐ろしさを思い知らせて、おぬしの馬鹿げた憧憬を打ち砕こうと考えてのことじゃ。まったく効果はなかったようじゃから、もはやおぬしを連れていく理由はない」
魔女エマは傲然と腕を組みながら、フィリアの姿を見下ろした。
「宝剣は封印されたのじゃから、おぬしには悪さをすることもできまい。日が暮れるまでには戻れるじゃろうから、この屋敷で大人しくしておれ」
「そんなの、無理ですよー! こんなに面白そうなものがたくさんある場所で、わたしが大人しくしていられるわけがないじゃないですかー!」
「……どういう神経をしておったら、そのように自分の至らなさを力説できるのかのう」
「だけどそれは、本心であるのです! 決して脅しで言っているのではありません! わたしには、自分の好奇心を抑える自信がまったくないのですー!」
フィリアは胸の前で手を組むと、懇願するように魔女エマの仏頂面を見上げた。
「ましてや魔女さんたちは、わたしを仲間外れにして妖魅退治に行ってしまうでしょう? そのやるせなさも相まって、きっとわたしはめいっぱい暴走してしまうと思うのです! 魔女さんの大事な秘薬の数々が、取り返しのつかないことになってしまうと思うのです!」
「いや、じゃから……」
「そうしたら、魔女さんも従者さんも、怒り心頭になってしまうでしょう? せっかく居候が許されたばかりであるというのに、この平穏な生活を台無しにしたくはないのです! どうか、お願いいたします! 絶対に絶対にお邪魔はしないとお約束しますので、わたしも一緒に連れていってくださいー!」
フィリアの大きな瞳には、涙がたまってしまっていた。
狼の顔をしたジェラは、その黒瞳に悩ましげな光をたたえつつ、主人のほうを振り返る。
「エマ様。この御方は計算でも冗談でもなく、心からの真情でこのように述べたてているように感じられるのですが……それは私の見立て違いであるのでしょうか?」
「いや。おそらくおぬしが感じている通りなのじゃろうよ」
「はい! 天真爛漫でごめんなさい!」
「やかましいわい! 破滅的な結果が待っておるとわかっていながら、おぬしは自分を抑えることもできんのか!?」
「それができるなら、魔女への弟子入りなんて願うわけがありません!」
「おお……なんという説得力じゃ」
魔女エマは力尽きたように、ジェラの胸もとにしなだれかかった。
ジェラは壊れ物でも扱うように、その身体をそっと抱きとめる。
「おー、いまのおふたりのお姿だと、びっくりするぐらい背徳的ですね!」
「や、か、ま、しいわい! おぬしへの殺意が臨界突破しそうじゃな!」
「あ、そういうことでしたら、運命は甘んじて享受いたします」
フィリアはまぶたを閉ざし、魔女エマの前に頭を垂れた。
魔女エマはジェラにしなだれかかったまま、憤然とした面持ちで杖を振り下ろす。その先端部は、フィリアの脳天を直撃した。
「いたーい! 魔女さん、ひどいですー!」
「ひどいのは、おぬしの魂の在りようじゃ!」
「えーん。殺すんだったら痛くしないでってお願いしてたのに……あれ?」
フィリアはぺたぺたと自分の顔をまさぐった。
「毛むくじゃらです! わたしにも変化の術を施してくださったのですか!?」
「……おぬしを殺めて魂を穢すかどうかの二者択一じゃったからの」
「わーいわーい! わたしはどんな動物になったのでしょー? わたしの本質にもとづいた姿なのですよね!?」
フィリアは戸棚に駆け寄ると、そこに詰め込まれた硝子瓶を鏡の代わりにした。
そこに映し出されたのは、きょろんと黒い目を瞬かせた、白い兎の顔貌である。
「へー、兎さんかー。兎さんのお肉が好物だからですかねー?」
フィリアは、魔女エマたちに向きなおった。
頭に生えのびた長い耳を揺らしながら、小さな鼻をひくつかせる。
「どうですかー? わたし、似合ってますかー?」
魔女エマはいやいやをするように、ジェラの胸もとに頬をすりつけた。
「小憎たらしさが、3倍増しじゃ……我、あやつを殺めぬまま、この家に戻ってこられるかのう?」
狼の顔をしたジェラは、その黒瞳にあらん限りの慈愛の念をあふれさせながら、いたわるように主人の肩を抱く。
かくして魔女と従者と客人は、妖魅の待ち受ける辺境の地へと乗り込むことに相成ったのだった。
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