殺人鬼と警察 その一




 その壁の上で、服がはためいていた。彼はゆったりと口を開く。


 ――己の定義を固定する。

 在るがままに在り続ける世界に適応するよう、在るべき形を保ち続けろ。

 綻ばず毀れず歪まない。此の存在は不可侵である。


「定義します」


 とん、と壁を、蹴る。


 ――世の総ては土人形である。

 腸に血を流し肉で包んでも、その在り様は変わらない。

 木偶でくの在り方を書き換え留める。

 存在に制約を。破ることは咎である。

 咎人には罰を。罰とは思考も儘ならぬ痛みである。


 頭上に落ちた影に気付き、閃は反射的に自分の周りの空間の定義を歪めた。しかしそれを無視して、落下してきた人影が彼の背中にぶつかる。

「っ、ぐ、」

 地面に突き倒される。咄嗟に頭は庇ったが、背中に乗る重みに息が詰まる。地についた腕に力を込め、跳ね起きようとしたとき、閃の肩甲骨の辺りに、手が触れた。


 笑う、気配。


「定義します」


 ぎしりと。骨も、腱も、筋肉も、固まる音。

 体が一切の駆動を拒否する。心筋などの生命活動に関わる臓器は機能しているけれど、四肢がぴくりとも動かない。

「やっほー、おにーちゃん」

 閃の背中に乗って、彼は笑う。亜麻色の髪が風に揺れる。聞き覚えのある声に、閃の額に青筋が浮かぶ。覚えたくなんてなかった。

「置いてくなんてひどいなあ。起きたら宿に君いないんだもん。びっくりしたよー」

「……っ、る……せ……!」

 呑気な声に苛立ちが煽られる。かけられた魔術を解こうと藻掻く度に、体に激痛が走って思考が散り、舌がもつれる。相変わらずえげつない魔術を使いやがる。

「……っ、……と、……!」

「んー?なぁに?」

「……、け……っ」

「はっきり言ってくれないと、わっかんないなぁ」

「――っさっ、さ∀Λとどωけクソカ∂゛キ!」

 羽虫が耳元で羽搏くような、耳障りな音がした。ブロックノイズが閃の身体に浮かび、かけられた魔術が破綻する。勢いをつけて起き上がるより早く、背中の重みは跳ねるように逃げた。

 立ち上がって睨みつける。十歳ほどの小柄な少年は、白藍の瞳を細めて、にぱっと笑った。可愛いこぶっているのが丸わかりの可愛げの欠片もない腹の立つ笑みだ。

「顔がこわいよ? 殺人鬼」

「黙れよクソ公僕死んどけ」

 ただの子供ではない。


 国際警察魔術犯罪対策課、通称『バランサー』。第一師団団長、トモエ

 それがこの子供の肩書きで、名前。


「相変わらず乱暴な魔術だなぁもう。自分の定義まで壊しちゃってどうするのさ?」

「うっせぇ」

 歯を剥き出しに威嚇するも、巴はひょいと肩を竦めるだけだ。閃のそれが強がりだとわかっているから。

 全身が焼けただれたように痛い。視界が明滅している。ノイズが体を走っていく。

 巴にかけられた魔術による痛みではない。無理やりそれを解くのに使った、閃自身の魔術の所為だ。


 巴は、行動の阻害とそれの解除しようとする意思に対する妨害を起こすように、閃の存在を構成する定義に書き替えた。また、それらを書き替え直されることを妨げる為に、それらの定義を魔術で固定した。彼の常套手段だ。

 閃は、その全ての定義を、無理やり破綻させた。自己存在を決定づける定義まで巻き込んで。――つまり今、彼の存在は崩壊しかけている。


 巴は呆れた顔で、荒く息をする閃の腕を掴む。振り払おうとするが、力の入らない手は小さな体にしっかりと押さえ込まれる。傷ひとつない精緻な指が、するりと閃の腕を撫でた――そのそばから、痛みが消えていく。

 顔色のマシになった閃を見上げ、巴はふふんと鼻を鳴らす。

「定義の書き換えくらいまともにできるようになったらどうなの?」

「……書き換えは、してる」

「君のは特性に任せて破綻させてるだけじゃん。元に戻せるようにはなろうよ」

 だから君は『魔術師』じゃなくて『魔術使い』なんだよ。とん、と左の胸部を軽く押す。冷めた色をした白藍の瞳が、細められる。うるせえよ、と、閃は鬱陶しそうに巴を引き剥がした。

 じっと指先を見つめるが、定義に乱れはなくなっている。痛みも引いた。こんな短時間で丁寧に直すことは、閃にはできない。時間をかければできるが……だから感謝しなくもなかったが、元はと言えばこいつがいきなり魔術使ってくるからいけないのだと思いなおす。

「……なんでいんだよ」

 唸るように訊いた閃に、巴は礼の言葉とかないの、と揶揄やゆした。答えないままでいると、くすくすと笑われる。

「いやぁちょうど《くじら》に帰ったら、黒髪絡みの事件の出動命令来ててさ。君に置いて行かれた町からも近いし、黒髪がいるのなら君は絶対に殺しに行くと思って……ねぇ、黒髪の殺人鬼」

「……その呼び名は、俺個人じゃねぇ」

 律に言ったように、『黒髪の殺人鬼』と呼ばれる存在は、殺戮を起こす黒髪たちの、総称だ。世間には誰かひとりのことだと思われていても、実質は違う。

「世間的にはそうかもね。……でも、僕はちゃんと君のことを言ってるよ」


 黒髪の殺人鬼。


 黒髪『殺し』の殺人鬼。

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