1:九人の悪役令嬢(前編)
墓標のような針葉樹の並木が続く仄暗い小道を進みながら、ハーデスティ・ソーヤーは自分の乗っている馬車が霊柩車のように感じた。
「浮かない顔ですね、お嬢様。葬式にでも赴くようだ」
彼女の隣に座る従者が淡々と言った。
艶のない黒髪をひとつに束ねた、若く見えるが血の気がない陰鬱な横顔を眺めてハーデスティは溜息をつく。
「嫌なところだけ察しがいいのは相変わらずね、ギュンター」
「まあ、長い付き合いですから」
彼はそう言って頰に垂れた前髪を払った。
「式典は式典でも晴れがましい場ですよ。辺境伯の妻を選ぶパーティ。この日のために努力してきたのではありませんか」
「知っているわ。でも……あの御方が何を考えているかわからないのよ。嫁入り道具も持参金もいらない。ただひとつ、自分が窮地に陥ったときに信じるものをひとつ持ってこいだなんて」
「それで、持ってきたのが私ですか」
ギュンターは目の下と口元の黒子を歪めて苦笑した。
「他に浮かばなかったのよ。執事がいればどんなことにも応用が効くでしょう」
彼女はそう言って、従者に睨むような視線を向けたが、すぐに俯いた。
「お嬢様、今さら気弱になってどうします。これまでとやるべきことは変わりません。ソーヤー家の御息女として、邪魔な者はみな蹴落としてきたでしょう」
「嫌な言い方ね」
執事は肩をすくめて、馬車の窓にかかるカーテンを押し上げた。
「お嬢様が十二歳の誕生日パーティで白い犬を連れてきた娘がいましたね。茶会か何かでお嬢様に言い負かされたのを快く思っていなかったとか。犬がお嬢様に飛びかかっても止めずに笑っていました」
「そんな娘もいたかしら」
「私はその夜、犬の首を斬って娘の寝室の窓に投げ込みました」
「私が悪女と呼ばれる原因のほとんどはあなたにある気がしてくるわ」
馬車が小さく弾み、動きを止める。
「着いたようですね」
窓の外を見ると、夜のような暗い森の中にそびえる、白い要塞のような館の輪郭が見えた。
闇を千切って空に飛ばしたように見える黒い影が、大量の鴉の群れだとわかり、ハーデスティは小さく身を震わせた。
「どうぞ」
扉が開かれ、差し出された従者の手を取って馬車を降りる。
慣れたはずの指先が死人のように冷たく感じた。
***
鋭い鉄の柵が張り巡らされたこの敷地は、既に辺境伯ダミアン・ロバートソンの屋敷の庭らしかった。
「いくら外敵から国を守る要とはいえ、不穏な場所ね……」
ハーデスティが呟いて一歩踏み出すと、少し先にひと影が見えた。
白金色の豊かな髪をひとつにまとめ、色白だが力強い面差しに風を受ける彼女は、軍人のような佇まいだった。
「あの方は?」
小声で囁いた主人の問いにギュンターが答える。
「シンクレア・アンブローズ、王国近衛兵長の娘です。自身も剣術や馬術に長ける女傑との噂ですよ」
シンクレアは振り向くと、力強い足取りでふたりの方へ歩み寄った。
「そちらも招待を受けたのか?」
「マサーカー地方の領主ソーヤーの娘、ハーデスティです」
シンクレアはスカートの裾をつまんで会釈したハーデスティと、従者のギュンターを見比べ、シンクレアは冷たい微笑を浮かべた。
「辺境伯の妻を探すパーティ男性同伴とは」
「使用人は物として数えるのが妥当ではなくて?」
ギュンターは表情を変えずに目礼した。
シンクレアは胸を張って、ハーデスティを見下ろすように言った。
「私をこういう場に不似合いだと考えているかもしれないが、これもひとつの戦場と捉えている。貴女が好敵手になるかは疑問だが」
「花嫁を選ぶ競技に騎士ごっこと馬の遠乗りがあったらよろしいわね」
ハーデスティが微笑むと、シンクレアは眉を顰めた。
「勝敗は館に入ればわかることだな」
彼女はそう言って踵を返し、道の向こうへ消えていった。
「お嬢様を案じたのは私の杞憂だったようですね」
ギュンターの声にハーデスティは肩をすくめた。
***
背後で細い車両が砂利をこする、頼りない音がした。
振り返ると、市井で見かけるような古びた辻馬車が停まっている。
「こんなところに……?」
目を細めると、中からひとりの女性が現れた。
暗褐色の髪を緩く巻いて垂らした彼女は、自分と変わらない十八、九のようだが、ひどく大人びて見えると、ハーデスティは思う。
額に落ちた髪を払いのけて小さなトランクを手に持った女性は、ハーデスティを見とめると長い睫毛の奥の瞳を伏せた。
「どこかでお会いしたかしら?」
ハーデスティが笑みを作って近づくと、彼女は一瞬戸惑いを浮かべて言った。
「たぶん、宮廷劇場ではないでしょうか」
表情に反してよく通る声に、ビロード張りの暗幕と、鏡面のように磨き上げられた舞台の記憶が蘇る。
「宮廷劇場の花形女優、テレサ・カスタベットね。貴女もパーティに呼ばれたの? 私、去年の舞台を観に行きましたのよ」
テレサは既に玄人らしい顔を取り戻していた。
「ええ、存じています。光栄でした。あのときはせっかくご家族でいらしてくれたのに、挨拶もできず……会場でまたゆっくりお話させてください」
テレサは一礼して、トランクを持ち上げて去っていった。
「歯切れが悪いですね。やはり不調ですか」
「敵意のない相手に悪意は向けなくてよ」
ハーデスティは従者を睨んだが、応えた様子もなくギュンターは頷いた。
***
先ほどとは打って変わった荒々しい車輪の音が響き渡った。
振り返ったハーデスティの目に、赤の塗装に禍々しい金の龍の彫刻が施された、奇妙な造りの派手な馬車が飛び込んできた。
わずかに開いた扉の奥から騒がしい声が漏れる。
聞きなれない訛りのある響きだが、言い争っていることはわかった。
「酷いわ! あたしだって若くて綺麗な貴族様に会いたい! 」
甲高い少女の声が響いた。
「往生際が悪ぃな、テンテン! もう着いちまっただろうが!」
「あたしの方が絶対奥様に向いてるのに、なんでお姉様なの?」
「知るか、手前がおふくろの股から出てくんのが二年遅かったからだよ!」
貧民街でしか聞かないような野卑な怒号とともに、勢いよく馬車の扉が開き、飛び出してきたのは長身で切長の瞳の少女だった。
気が遠くなるような思いでハーデスティは従者の袖を引いた。
「あの方は一体……」
「ドン・シャンシー。東方の麻薬王の娘ですよ。麻薬王といっても表向きは貿易商ということになっていますが」
「……息子ではなく?」
「娘です」
緑がかった短い黒髪を揺らして、襟の詰まった異国風の服の誇りを払うシャンシーは、ハーデスティの視線に気づくと、首を微かに傾けた。
「聞いてた?」
ハーデスティは曖昧な微笑だけを返した。
「秘密な?」
彼女は人差し指を立てて、そばかすの浮いた顔に少年のような微笑を浮かべた。
シャンシーは急にハーデスティに近づいて、覗き込むように顔を眺めた。
「おぉ、やっぱり家柄のいい女は肌が綺麗だな。ケシの花の粉でもはたいてるみてえな……言ってもわかんねえか」
返事も待たずに、彼女は颯爽と庭を進み、すぐに見えなくなった。
「やはり不調ですか」
「狂犬と会話ができなくても仕方ないでしょう……」
ハーデスティの溜息を掻き消すように、上空で鴉がけたたましく鳴いた。
異様なほどの大群に、彼女は幼い頃一度だけ通りかかった処刑場の外壁とそれに続く空の色を思い出した。
重く垂れ込めた暗雲の下の館には、花嫁候補たちが次々と集まっていた。
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