郷子の父

AM8:00過ぎ、掃除や朝礼が始まる前のほんの少しだけの空き時間。その時間に玄狼は席に座って窓の外をぼんやりと眺めていた。


玄狼が志津果と郷子に例の教育的指導しかえしを加えた日から三日ほどが経っていた。

あれから二人とはほとんど口を利いていない。登下校もわざと時間をずらして行っていた。次の日の放課後、志津果にぼそっと 「変態!」 と言われた。


彼はすかさず



「なんで? なんで俺が変態なんや?」



と反論したが彼女は冷たい視線を投げかけただけで黙って離れていった。

代わりにいつの間にか傍によって来ていた郷子が



「だってそれはそうでしょ。女の子の体を動けなくしておいてスカートを目一杯捲りあげて下着パンツを覗き込んだんだもの。

私やあの子しずかの受けた心の傷からすればまだ生ぬるい位だと思うよ。


ま、将来の一部の前払いだと思って許してあげるから私は構わないけど・・・でも責任はしっかり取ってもらわなきゃ・・・ね、玄狼さん!」



そう囁いて彼女さとこも何処かへ去っていってしまった。



『じゃぁ、俺の頬っぺたと脇腹の傷と痛みの責任は誰がとってくれるんだよ?

それに前払いってどういうことだ・・・俺は何も売った覚えはないぞ?


ははぁ、これは多分、前にテレビのニュースで見た押し売りならぬ押し買いとかいうやつだな。相手の弱みに付け込んでほんとの価値よりずっと低い相場で無理やり買い取るってやつだ。


でも俺が持っているものでそんなに価値があるものって何なんだろう?

まさか・・・俺の ”魂” なんてことはないよな? 

どんなに彼奴さとこが腹黒女だったとしても悪魔と契約したわけじゃないんだから。 


大体、いくら俺が思春期真っ盛りの悩める少年だからと言ってあの腹黒女のパンツにそんな価値があるか! 


・・・まぁ、パンツの更に下だったら話ぐらい聞いてやってもいいけど・・・

いや、それだと逆にそれに見合ったものって・・ちょっと怖いな!』



玄狼は心の中で不埒な妄想をまき散らしながら郷子の背中を見送った。それっきり彼女たちとは言葉を交わしていない。


その時のことを思い出しながらぼんやりと外を眺める彼の視界に不意にふくよかな女子の姿が映りこんできた。女子は木地谷 亜香梨きじや あかりだった。



「玄狼君、ちょっとかまん?」


「ああ、かまんよ。何?」


「あんなぁ、聞くけど志津果や浦島さんとなんぞあったん?」


「えっ、いや・・何もないけど・・・なんで?」


「そんなん見とったらわかるし。集団登校や下校でもバラバラやし話もせえへんし・・・あの二人が口利かんのはまぁわかるけどなんであんたまでそうなっとん?」



亜香梨はそう言うと玄狼の顔を栗鼠りすのようなクリっとした瞳でじっと見た。その愛らしいながらも探るような視線に晒されて内心、後ろめたさを感じながらも彼は白を切った。



「えー、そうかなぁ? そなんことないと思うけどな。別に何ちゃ無いし・・・」


「玄狼君な、嘘つくん下手なんよ。なんでか言うたら嘘つく時な、目が余所よそ、向くけん、丸わかりやわ。」


「へっ? そ、そら木地谷さんの思い過ごしやろ。

俺は普通に話しとるし・・・ま、まぁここ何日かはあんまし、がいには(あんまり、たくさんは)話しとらんけどな。

ほんでもそら偶々たまたまやけん。そ、偶々。」


「亜香梨でなしに木地谷さんて呼び方がもうすでに怪しさ満開なんやけど・・・


ふ-ん、偶々なぁ? 

ところが可笑しげな事にこの頃、あの二人は結構、話しよるんよな。どしてか志津果に聞いたら呉越同舟やとかようわからん事を言いよるし・・


なぁ、正直に言うてつか?(言って頂戴?) ほんま、何があったん?」



ここで 亜香梨に正直にすべてを話せばどうなるだろう? と玄狼は思った。


頬っぺたを酷くちみきられたり(つねられたり)脇腹を強烈に殴られたりした仕返しに〈念能で起こした風で〉スカートを捲って恥ずかしい思いをさせてやった。


お陰で結構な眼福をもらったがそれは結果としてそうなったのであり決して自分の本意ではない。


飽くまで彼女らに一泡吹かせることが目的であったのであり邪な欲望は一切・・いや僅か・・まぁ、それなりにはあったかもしれないが決してそれが本当の目的ではなかった・・・はずだ。


賢太のセクハラそのものに近い言動をドンと受け止めゆったりと丸め込んでいなしてしまう母性愛のごとき包容力を持つ彼女あかりであればその辺りも多分理解してもらえるに違いない。


しかしそうなれば佳純との例の出来事も話さなければならなくなる。

下手をすると倉本明夫とのトラブルについても・・・


それは出来うる限り避けたかった。田舎の地域社会コミュニティーというのは都会のそれに比べて良くも悪くも排他的だ。


もし明夫に救急艇を要するような怪我を負わせたのが玄狼であるとわかれば地元の人々の間で自分や理子ははに対する感情がよくない方向に変わる可能性がある。


そうでなくとも自分たちは外から来た余所者だ。ましてや祓い師などという得体のしれない負の存在に関わる生業をしているのであれば尚更だろう。


一瞬、頭の中をよぎった彼女あかりにありのままを話すという考えをくろうは払い捨てた。



「多分、この間の二人の喧嘩で俺がどっちの肩も持たんとほったらかしやったけんそれが気に入らんのと違うんか。

暫くほっといたらええが。そのうち機嫌も直っりょるやろ。(直るだろう。)」



玄狼がそう言うと亜香梨は黙ったまま小さく息をフゥーと吐いて頷いた。



「そやな。あんまし納得いかんけんど玄狼君がそう言うんやったらそうなんやろ。

・・・いやな、もうすぐしたら例のアレがあるやん?」


「例のアレ? それなんのこっちゃ? 

あ、ひょっとして昨日うさちゃん先生が言うとった算数の小テストの事か? 


アレなぁ、分数の掛け算はまだええけんど割り算はめんどいきんなぁ。アレ何で分母と分子をひっくり返して掛けるんかいな? そこが今一つ分からんとこじゃ。」


「玄狼君、あんたこの頃、賢太のアホさがだいぶ移ってきたん違うん? そなんもん、どしてわざわざうちが気にせんといかんのな?


まぁ実を言うとうちもあれはよう分からんのやけどな。そもそも母と子をひっくり返したりしたら児童虐待やがな・・・イヤ、そうとちごて! 


例のアレ言うたら ”念能力統一測定” の事に決まっとるやん!」



亜香梨に呆れたような眼で見詰められて玄狼は ヘッ というような顔付きになった。



「念能力統一測定? ああ、アレっちゃその事か。 そう言うたらそやな。もうそろそろやったような気がする。ほんでそれがどしたん? 俺らが喧嘩しとったらなんぞまずいことがあるんか?」


「それな、本土の鷹松市の外れにある県念能総合センターまで行かんといかんのや。そこで朝九時から夕方の六時まで丸一日かけて検査するんやて。

ほしたら私達うちらはフェリーの時間の関係で前日から市内に泊まらないかん事になるらしいわ。」


「泊まる!? ほんま? やったぁ! ごっつええやん、それ! 

修学旅行以来のビッグイベントやんか!

何とか鷹松の商店街を少しぐらい見学出来んのかな?」


「それはたぶん出来るん違うんかな。測定があるんは土曜日やから代休取って日、月と連休やろしな。日曜日はゆっくり鷹松の商店街で買い物ぐらいさせてもらえるやろと思うで。


年に何回もある機会やないし先生もそれぐらいのことは考えとるやろ。去年の六年生もそうやったらしいし。


だからこそやん。折角の楽しいイベントに仲間内で不協和音があったら面白おもっしょないやろ。そうでのうても私達うちら人数少ないんやし・・・学級委員としてはっておけんのやわ。


なんもないんやったらかまんけど、もしなんぞあるんやったら頼むきん、今週中に仲直りしといてな。」



亜香梨がそう言い終えたちょうどその時、高田先生うさちゃんが教室に入ってきた。



「ハーイ、皆さん、おはようございます。

そしたら朝のホームルーム始めるきん早よ、席についてな。委員さん、号令お願いします。」



そして学級委員である亜香梨の号令とともに朝のホームルームが始まった。



『仲直りか・・・そらちょっと俺には荷が重いわ・・あの二人に言うてくれ。』



玄狼は胸の中でそう呟くと小さく溜息をついた。




― ― ― ― ― ― ― ― ―




バスの窓から見える景色はどこでも同じだと玄狼は思う。

ここでも東京でも、他の国でも。


ごく当たり前の日常の情景が紙芝居のように流れていくだけだ。手を伸ばせば届くほどの位置にありながら窓ガラス一枚に隔てられて互いに何も与えず何も受け取らずすれ違っていく世界。


バスに乗った瞬間から自分を包む時間ときは止まり、バスを降りたところから再び、時間ときが流れ出す。

バスに乗っている時、彼はいつもそんな気がした。


今、彼が乗るバスは県念能総合センターへ向かって走っている。昨日、彼らが泊まった鷹松市街にある小さなビジネスホテルに今朝やってきたマイクロバスだった。


県念能総合センターが出してくれているもので運転手はそこの職員である。乗っているのは担任である高田先生うさちゃんと郷子を除いた六年生全員だった。


彼女さとこは昨日、玄狼たちと同じホテルに泊まらなかった。フェリー船の乗り場まで迎えに来ていた父親に連れられて車で去っていった。

夜は父親の借りているアパートに泊まって今朝はセンターまで直接に来るとのことだった。


父親は三十代後半の背の高い細身の男だった。色白ですらりとした体つきと彫りの深い整った顔立ちをしていた。黒く大きな瞳とくっきりとした目鼻立ちが郷子とよく似ている。


しかし上質な灰色のスーツの上からでもわかる固く引き締まった筋肉のせいで優男にありがちな脆弱な印象は全くなかった。

父親は担任である高田先生に近づくと深く腰を折った丁寧な挨拶をした。産業経済省の官僚という頭の高いエリートのイメージとは違った腰の低い人物のようだった。


先生への挨拶が終わるとそのまま車に乗り込むかに見えた父親がふと車のドアを半開きのままにして動きを止めた。そして助手席に乗り込もうとしていた郷子に何か小声で訊ねた。


周りを見回した郷子の眼が直ぐに玄狼の姿をロックオンする。彼女が玄狼を指差すのと同時に父親が彼のほうに向かって歩き出して来た。

玄狼は大いに焦った。


『やっべえぇぇぇー! うちの娘に不埒な真似をしたのは貴様か! なんてぶん殴る気満々じゃねえのか? 

なんか格闘技でもやってそうな鋭い雰囲気のおっさんだし・・・大体、郷子のやつ、人を指差しちゃいけないって幼稚園で習わなかったのかよ。


ああ、もう今からじゃ ”隠れ蓑” 使っても誤魔化せそうにないな、こりゃ。

くそっ、どうすりゃいいんだ!?』


エリート公務員ともあろうものが衆人環視の中で小学生の子供を殴りつけるはずもないのだがまだ玄狼にはそうした判断ができなかった。


思い余った彼は自身の周りに厚さ二十センチほどの半実体化させた念を張り巡らした。これならもし殴られても痛くないはずだ。

恐らく相手はたっぷり綿の詰まった分厚い座布団を殴ったような感触に戸惑うことだろうが。


だが玄狼のそうした思いは杞憂に過ぎなかった。郷子の父親は彼の傍に来ると腰を屈めて視線を彼と同じ高さに合わせるとニッコリと笑った。思わず引き込まれそうになるような優しい笑顔だった。



「初めまして。郷子の父の浦島秀次郎です。君が水上玄狼君だね。いつも娘から君の話を聞かされているよ。

少々扱いづらいところのある子だが仲良くしてやって欲しい・・おや、これは?」



父親は何かに気付いたかのように言葉を止めると驚いたような眼で玄狼を見詰めた。

そして目を細め、唇の端を軽く曲げてほほ笑んだ。



「驚いた、念を実体化しているのか? その歳でこんな芸当ができるとは!

こりゃ末が頼もしいというより恐ろしいな・・・ひょっとして娘と喧嘩でもしたのかい? 僕が君に何かするとでも?


ハッハッハ、心配しなくても大丈夫だ。大いにぶつかり合って互いに成長してくれればいい。間違ってもそのことで僕が君に暴力をふるったりすることはないから安心してくれたまえ。


人目のあるなしじゃない。もし君に危害を加えたりしたら君のお母さんが許しちゃくれないだろうからね。

どんなに狡猾で貪欲な野干ジャッカルも虎の仔には手を出さないさ。命あっての物種だよ。」



浦島秀次郎は笑いながらそう言った後、真顔になると少し改まった口調で玄狼に訊ねた。



「ところで君のお母さん、水上理子さんはお元気かな? 

そして・・・君のお父さんは何をしておられる方なんだい?」

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