30 仁義
9月15日(水)
午後九時過ぎ。
陽明は九天大学のプールのロビーで待合椅子に座っていた。
本日はエバジェリーの練習日だったが、他の参加者はすでに帰宅している。
併設されたジムも営業時間が終わっており、コンクリートが剥き出しの高い天井やリノリウムの床は眠りに就いたみたいに静かだ。本来なら陽明も施設から出る必要があるのだが、特別にこの後も使用できるよう慎也が交渉してくれていた。
「……はあ」
スマホの画面を眺めながら、重たい溜息を吐き出す。前に御波が言っていたネットでの反応が気になって調べてしまったのだ。
『豊音ちゃん、誰の
『なんで
『一年間も活動休止してた元ジュニア王者なんて必要ない。豊音ちゃんには「悪魔」を倒す為にも他の有力選手の
散々な言われようだった。
中には肯定的な人もいるし、エバジェリー関連で個人的に知り合った友人からは励ましの言葉を貰っている。それでも世間は陽明を悪者にしたいらしく、SNSは否定的な意見が大半を占めていた。
名前や顔を知らない誰かの悪意でも心は
自分が苦しむのは別に構わない。だけど、豊音や協会に迷惑を掛ける事だけは我慢ならなかった。何度もSNSで反論しようとして、その度に引き裂かれるような痛みを感じながら必死に指の動きを止めている。
「(……試合まで、あと四日か)」
漠然とした圧が閉塞感となって息が詰まり、貧乏揺すりだけが速くなっていった。
「ねぇ君、ちょっと話があるんだけど」
「おわっ!?」
陽明が体を仰反らせる。ギギィッ!! と、椅子と床の擦過音が静寂を甲高く引っ掻いた。
「何だ、珀穂か……驚かすなよ、心臓に悪いな」
「いや、別に驚かしてないんだけど?」
通っている県立高校の夏服を着た珀穂は、スラックスのポケットに両手を入れて眉間に皺を寄せている。年中無休で不機嫌そうにしている少年は無駄な雑談を好む性格ではない為、こうして向こうから話し掛けてくるのは非常に珍しかった。
「大袈裟にビビり過ぎ。僕の姿は見えていたはずだし、足音だって聞こえていたと思うけど」
「ちょっと考え事をしてたんだよ」
「考え事、君が?」
先端が跳ねた短髪の少年は、彫りの浅い顔に嘲笑を浮かべた。
「似合わないね、選択に困ったら確率よりも根拠のない直感に従うような君が考え事なんて。慣れない事はしない方がいいんじゃない? 知恵熱でも出したら大変だよ、馬鹿は風邪を引かないって言うけどさ」
「何だよ、喧嘩を売りに来たのか?」
「先に喧嘩を売ってきたのはそっちでしょ? マンエバの件、慎也さんから話は聞いた。豊音さんと
じっ、と。
黒縁眼鏡のレンズ越しに冷淡な眼差しを突き付けられた。無言の圧力が凄まじい。いつも練習中に絡んでくる三馬鹿小学生だったらこれだけで泣き出しそうだ。
「……もしかして、すごく怒ってらっしゃる?」
「当たり前でしょ? 切腹なら一人で勝手にやってよ、どうして僕が君の
「試合を決めたのは協会で、俺のアイデアじゃないって言ったら?」
「元を正せば君がエバジェリーから逃げ出したのが原因でしょ? だったら、君は僕に一言あるべきなんじゃないの?」
「うわー、容赦ねぇ……」
立つ瀬のなくなった馬鹿は、曖昧な笑みを浮べて目を逸らした。
ただ、珀穂の気持ちも分かる。
試合の結果によっては、陽明は
「悪かったな珀穂、巻き込んじまって」
「言っておくけど、手加減するつもりはないから。君と豊音さんがどうなっても、僕には関係ないし」
「それで構わないよ。珀穂は何も考えずに全力で戦ってくれ」
「分かった、ならいい」
短く息を吐き出した珀穂は、少しだけ表情から険を薄めた。
多分、珀穂は仁義を切っておきたかったのだ。
口を開けば毒舌が飛び出してくる皮肉屋だが、別に極悪非道の礼儀知らずではない。内心では陽明や豊音に対して申し訳なさを感じているのだろう。言葉や表情には絶対に出さないが、長年の付き合いでそれくらいは感じ取れるようになっていた。
「君、どうしてエバジェリーをやめようとしたの?」
真剣な声音だった。
皮肉も嘲笑も混じっていない真っ直ぐな問い掛け。
「……それは、その」
張り詰めた空気に反応して、陽明は表情を引き締める。
「去年の八月、俺が『悪魔』に負けたことは慎也さんから聞いてるだろ? その時、実力差に絶望して、責任とか世間からのプレッシャーから逃げたくなって、気付いたら飛べなくなってて……意外と簡単にエバジェリーを捨てられたから、それで」
「なら、今は?」
「え?」
「今もまだ、『悪魔』との実力差に絶望してる? 僕との力の差を目の当たりにして、全てを投げ出したいと思ってる?」
「それは、違う」
間髪入れずに首を横に振った。
「どうして?」
「今の俺には、豊音から貰った『理由』があるから」
世間から滲み出した悪意や期待。空を飛ぶには邪魔にしかならない感情が、今の陽明には大量に向けられている。注目度に関してなら、二年連続でジュニア王者になった一年前と比較しても遜色ないかもしれない。
だけど、逃げ出したいとは微塵も思わなかった。
ただ、見返したい。
好き勝手に言葉を書き連ねる有象無象を、圧倒的な結果で黙らせたい。
胸の奥で燃え盛るのは、そんな反逆の炎。
「それに珀穂、俺はお前に負けたくないんだ」
「え……」
「なんでだろうな、今まで結果に
「そう」
珀穂は俯くと、顔を隠すように右手で黒縁眼鏡の両端を押し上げる。
「……もう少し、動きに緩急を付けた方がいい」
「は?」
「君は常にアクセルをベタ踏みなんだ。確かに速度は出るけど、慣れてきたらそこまでの脅威にはならないよ。それとも馬鹿な君には、野球の
「いや、そうじゃなくて……助言を、くれるのか?」
意外そうに見上げると、長身の皮肉屋は仏頂面を横に向ける。
「別に、今の君には塩を送ったくらいじゃ負けないって暗に挑発してるだけだよ。叩き潰すなら全力の君じゃないと意味ないし。……それと、プールで慎也さんが呼んでた。準備ができたから入って来いって」
「ああ、分かった」
陽明は椅子から立ち上がると、荷物を持って歩き出す。
「ハル」
振り返ると、すぐ目の前に新品のペットボトルが迫っていた。
「おわっ、おま、急に……っ!!」
放物線を描くスポーツドリンクを慌てて胸で抱え込む。中腰のまま驚いた顔で固まっていると、珀穂は冷徹な瞳に鋭い光を宿した。
「日曜日の試合でこの前みたいな無様を晒したら許さない。僕が倒したいのは、あの日僕が超えられなかった君なんだから」
一方的に言い放つと、そそくさと出口へ歩いていく。イヤホンを装着した後ろ姿からは絶対に話し掛けるなという強いメッセージを感じた。
陽明は思わず口許を緩める。
「男のツンデレに需要はねぇんだよバーカ! でも、ありがとな」
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