第74話 シャイ・ビ・ラバン

  楓は珍しくハイヒールを履いていて、私との身長差が少し狭まって新鮮だった。

「楓、ハイヒールなんか持ってたんだ?」

「随分前に買ったんだけど、履くのは初よ。エジプトにいたら履く機会がないもの。」

確かに履く機会なんてそうそう無いだろう。街中でハイヒールなんて履いていたら、ろくに歩けないだろうし、周りのエジプト人男性からの視線もうざったいし、痴漢にだって更に合いやすくなるだろう、と思った。そういえば、付き合い始めた頃、街中で痴漢と派手にやり合ったと楓が憤慨して帰ってきたことがあったな、と思い出した。確か、持っていたハードカバーの教科書の角で痴漢してきた男を殴りつけたのだったか、と勇ましいエピソードを思い出して思わず笑ってしまった。思い出し笑いをした私を怪訝な表情で覗き込む楓に、何でもない、と手を振り、また夜景に視線をやった。

  カイロの夜景が好きだ、と思った。いつもその風景の中で暮らし、毎日に追われて、周りの様子を見ることもどんな風景の中に生きているのかも忘れがちになるが、こうやって夜景を眺めると、その明るさや暗さ、人や車の流れ、クラクションの音ですら大切なもののように感じられた。休学に入るまで、度々現実逃避をしたくて訪れていたホテル最上階のバーからも、ナイル川にかかる橋や街に灯る光で彩られる夜景を眺めていたが、目線が低くなり、街をむしろ見上げる形で見る夜景はまた違う感じがした。街の中に入っている、そんな感覚だった。この街で生きている、そう思えるような時間だった。

  船が桟橋に戻ってきた頃、私達はまた船内にいて、川の夜風で少し冷えた身体に暖かい紅茶を流し込んでいるところだった。ガタン、と船が揺れて桟橋に固定されたのを感じた。乗船客が開いた船の出入り口から勢いよく流れ出て行くのを少し待って、私達もテーブルから立ち上がった。船の外に出ると、先程までの川上とは違い、少し排気ガスを感じるようなカイロならではの臭いがして、現実に戻ってきたような感覚になった。

「タイムスリップしてたみたいだった!」

そう楓が言って、華が賛同する様子を見ながら、このまま帰るのも惜しいな、と思った。気分が良かったから、夜をもう少し外で過ごしたかった。クルーズ船の桟橋からならタクシーで5分程度で馴染みの路上カフェに着くな、と2人を誘った。私が大学の友人達と夜な夜な遊んでいた、シーシャのある路上カフェだ。普段とは違う、カジュアルなドレスアップをした2人を連れて行って良いものか、と思ったが、2人が前のめりに乗り気になったので立ち寄ることにした。


  タクシーに乗り込み、到着した路上カフェは、よく来ていた頃となんら変わりなく営業中だった。大学の仲間は来ていなかったが、顔見知りの店員が久しぶりだな、と声をかけてくれた。

「レイは、いつもので良いか?」

そう店員に言われて頷いた。2人に何を注文すべきかと思った時、楓が店員に聞いた。

「いつものって?」

「シャイ・ビ・ラバン、シーシャ・トゥッファーハ。」

店員が答えた。アラビア語で言われ、果たして楓に通じるのか、と思ったが理解したらしく、

「ミルクティーと林檎味のシーシャだって。同じのにする?」

と、華に言うのを聞いて、私は楓のアラビア語も成長したな、とニヤニヤしてしまった。結果、3人とも同じものを注文することになった。

  路上カフェのすぐ横は車通りの少ない広めの道路で、道路の両脇にズラリと車が停まっている。ズラリとは言っても真っ直ぐお行儀良く並んでいるわけではない。前から突っ込んで止まっている車もあれば、二重の縦列駐車をしているところもあり、エジプト人の国民性が現れているようだった。

「レイさんの行きつけの店なんですか、ここ?」

周りを見渡しながら華が尋ねた。

「前はよく来てたんだけど、最近はちょっとご無沙汰だったの。」

「へぇ...エジプトに来た!って感じがする。楓もよく来てたの?」

「ううん、私もここに来るのは初めて。」

華は驚いた表情を見せた。

「私と暮らすまで、レイが大学の友達と通ってたのよ。」

楓がそう説明した時、注文したミルクティーが運ばれてきた。底に茶葉が溜まった、ローカルなミルクティーで、私はこれにたっぷりの砂糖を入れて飲むのが好きだった。

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