第70話 無傷

  家に到着し、ただいま、とドアを開けると楓が飛びつくように抱きついてきて、私は面食らった。

「な、何、どうしたの?」

「良かった、無事で...。」

蒼白とも言える顔色と、楓の目に涙が溜まっていて、私は全てを理解した。まさか、楓がもうテロが起きたことを知っているとは思わず、油断していた。

「ハンハリーリ行くって言ってたし、電話しても局が出て繋がらなくて...メッセージも届かなくて、何も出来なくて。レイが巻き込まれたんじゃないかと思って、怖くて、堪らなくて...っ!」

まるで子供の様に泣きじゃくる楓を優しく抱きとめた。

「心配かけてごめんね。」

「怪我は?」

「大丈夫、無傷だよ。」

私は楓を宥めながら、やっと室内に入って後ろ手に玄関ドアを閉め、すぐ横のソファに楓と並んで座った。

「楓、私、生きてるから。」

なかなか泣き止まない楓に笑いながら言うと、楓は涙を流したまま言った。

「死んじゃったらどうしようって、本当に怖かったんだから...。」

「わかったって。でもほら、生きてるよ。ピンピンしてるんだから泣き止んでよ。そんなに簡単に死なないから大丈夫。」

「いつ巻き込まれるかなんてわからないじゃない...。」

「約束したじゃん?私が楓を守るよって、ミニヤで。だから、私は死なないの。わかった?」

楓の背中をポンと叩いて、私はシャワーを浴びようと立ち上がりながら、ふと楓に言った。

「でも...私が死んだら、楓はこんな風に泣いてくれるんだね。」

楓はハッと顔を上げて、真剣な顔で怒った。

「縁起でもない事言わないで。」

「ごめん、ごめん。嬉しかったんだよ。楓が私を心配くれたことがさ。」

私はそう言ってバスルームに向かった。


  バスルームで鏡を見ながら、正直、危なかった、と思い返した。自爆テロがあったその場所に、30分前には撮影の後始末で確実に居たのだ。テロがあと少し早く起きていたら、巻き込まれていたのは必至だった。もし巻き込まれていたら、私はあそこで見た血塗れの人たちと同じ運命を辿ったかも知れなかった。こうやって帰宅し、生きてるよ、と楓に伝えることも叶わなかっただろう。そう思い、あの時の情景を思い出した私は、込み上げてくるものを感じ、そのまま吐いた。胃の中に吐くものは残っていなかったから、ただ、胃液なのか水分なのか、液体だけを吐き続けた。現場にいた時、爆薬と血の混ざった異様な臭いが鼻についたのを覚えている。帰宅して、安堵して、抑え付けていたその時の吐き気に襲われたのだった。

「レイ?大丈夫?」

異変に気付いたらしい楓がドアの外から声をかけてきた。

「大丈夫、何でもないよ。」

と答えて私は洗面台に片手をかけたまま、床に膝をついた。力が抜けていた。


  その夜のニュースで、イスラム過激派によるテロだったことや、自爆した男は警察がマークしていた男だということ、死傷者がかなりいる事等が報道された。ソファでニュースを見ていた私は、口が裂けても、私が現場にすぐ直前まで居たなんて事は、楓には言えないな、と思った。あんなに泣いて、私を心配し想ってくれる人が傍にいることを幸せだと思った。

  横に座ってテロ後の映像を見ていた楓が、本当に無事で良かった、と声を詰まらせたから、私は思い出させるのは良くないな、とテレビを消した。

「楓、ありがとうね。」

急に無音になったリビングに私の声が響いた。楓の濡れた瞳が揺れて、それに応えてくれた。

「楓はすぐ泣くね。」

彼女は返事をしなかった。私の手を彼女の頬に添えると、彼女は瞳を閉じ、それを切欠に溜まっていた涙が頬を伝って私の手に触れた。

「泣き虫。」

そう言って彼女にキスをして抱きしめた。彼女は私の左肩に顔を埋めて、さらに泣き出した。私の耳元で、楓が掠れた声で言った言葉に、私は楓を初めて抱きしめたあの日のように緊張を覚えた。

「抱いて。生きてるって感じさせて。」

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