第56話 余裕

  私は煙草に火を付けながら、片手を上げて奈津に合図をし、おはよう、と言った。

「楓ちゃんは?」

「まだ寝てる。」

それを聞いて奈津は小声で言った。

「その...志乃さんのこと、ごめん。なかなかレイと2人で話すチャンス無くて、ちゃんと謝れてなかったから、気になってて。」

「ん?あぁ...志乃さんから何か聞いたの?」

「うん、まあ。レイを激怒させたって。」

「私も大人げなかったんだけどさ。まさか目の前で楓を口説かれるとは思って無くて、ちょっとやられたわ。」

「え、レイの目の前で?」

「あ、それは聞いてなかったのか。...でも、奈津が謝ることじゃないじゃん。」

「...引き合わせたのが私だからさ、一応...。何か、楓ちゃんと揉めたりはしなかった?」

私は首を横に振った。あの時話したことをわざわざ奈津に伝える必要はない、そう思ったからだ。

「志乃さん、今回の旅行来たがってたんだけど、断ったのよ。流石に連れて行けないわって思って。空気悪くなるの嫌だしね。」

「奈津。気遣いは嬉しいし、ありがたい。正直、会いたくはないからねぇ。でも、多分、志乃さんがどう楓にアプローチしようと、もう平気かも。」

「え?」

「不安になったりしないと思う。」

「自信満々じゃん。」

「うん。信じてるから。」

私がそう笑うと、奈津はしみじみと言った。

「レイ、変わったよね。」

「そう?」

「うん。何か...優しくなったね。目も、表情も。冷たい感じが消えて、近づきにくい雰囲気も、なくなったよね。それに...何ていうのかな...余裕を感じる。」

私はそれを聞いてまた笑った。その余裕は、楓がいるから生まれた余裕だと自覚していた。不特定多数の留学生に必要とされていた頃は皆に気を配り、気を張っていた。そしていくらそうしても、それは自分を満たしてくれるものではなかった。でも、ただ1人だけに必要とされ、ただ1人だけを見守ることで自分が満たされるなら、自然と余裕は生まれるものだからだ。

「...その分、格好良さは半減したけどね。」

「うるさいな。」

そう言って、私達は顔を見合わせて笑った。

「本当に楓ちゃんのこと大好きなんだね。」

奈津はまるで母親のような目をして言った。


  翌朝の出発までこのホテルでのんびり過ごすことにしていた。何か観光地があるわけでは無いから、ただコテージやレストランで贅沢に時間を過ごすだけだ。ベドウィンのお茶をレストランで飲みながら、私はノートパソコンを開いて、翻訳の仕事をしていた。旅行に来てまで仕事か、と奈津は呆れ気味だったが、長期でカイロを空けるのだから仕方がなかった。どれくらい時間が経ったのか定かではないが、外から楓と奈津の笑い声が聞こえてきて、私は仕事を切り上げた。何杯目かのお茶を飲み干して、立ち上がり外に目をやると、桜子を交えた3人で何やら立ち話をしているらしかった。お互いに太腿や腰を抑えながら話しているところを見ると、登山の後遺症の話に花が咲いているのだろうと予測できた。

  レストランから外に出た私を見つけ、私の名前を呼びながら手を振る楓を、私と見比べるように見ていた奈津が、これは志乃さん入り込めないわ、と苦笑するように耳打ちをしてきたから、でしょ、と返して笑った。夕食までトランプしようよ、と桜子が提案して、私達はテラステーブルに座った。暑い中ではあったが、影に入ると一気に涼しい気温になるのが快適で、テラス席に座っているのが心地良かった。

  夕食には、鳩肉の丸焼きが出た。チキンの丸焼きとそう見た目変わらないが、鳩だと聞くだけで少し違う気がしてしまうから不思議だ。桜子は鳩肉が初めてらしく、恐る恐るといった程ではあったが、楓が初めて鳩を食した時と変わらない反応で笑ってしまった。人間という生き物は、大概同じ反応を見せるものだな、と可笑しかった。楽しい、賑やかな時間だった。

  夕食を終えた頃には、外は真っ暗になっていて、背後にあったはずの岩肌は既に闇に消え、濃紺の空が広がっていた。全てのコテージのエントランスにあるライトがオレンジ色に光っていた。そして、そこまで続くホテルの道がまるで王宮か神殿かに繋がる参道のように両端からキラキラとライトで照らされていて、独特で綺麗な光景だった。朝とは全く異なる表情を見せるその景色が、何となく楓のようだと思った。明るく元気に笑う表情と、時折見せる妖艶な表情が重なって見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る