第40話 香油
カイロに戻り、片付けを終わらせると、私は自宅のパソコンに全ての写真データを取り込み、編集作業に取り掛かった。楓がにこにこしてダイニングテーブルに座り、何かをテーブルに広げ始めた。クッション材に包まれたそれを開封していくのを私は横目に見て言った。
「何かミニヤで買ったの?」
「うん。香油を買ったの。一番小さいやつだけど。蓮の花とジャスミンとムスクのブレンド...私のとレイの。」
「え、私のもあるの?」
私はパソコンから離れ、楓の横に座ると、取り出された小瓶を手に取り、蓋を開けてみた。キツめの蓮の香りが鼻に届き驚いたが、楓がハンカチに付けて差し出したものを嗅ぐと、甘く優しい香りに変わった。
「匂い、気に入った?」
「うん、良い香り。ありがとう、楓。」
私は小瓶の蓋を閉め、その小瓶を見つめた。
「凄いな、この小瓶のセンス...。」
硝子の小瓶で、蓋には女王ネフェルティティがあしらわれていた。その蓋がプラスチック製だというところがエジプトだな、と笑ってしまった。
「それ、私もちょっと思ったんだけどさ!実際に使う時は、エジプトで有名な香水瓶を買えばいいかなって思って。」
「そうだね。綺麗な香水瓶買いに行こう。」
「うん。これ買ったミニヤのお店がね、ギザにあるお店に卸してるんだって。気に入ったらお店に行ってねって。安くしてもらえるよって、おじさんの名刺とギザのお店のショップカード貰った。」
「お店も行こうよ。家で香油を焚くのは古代エジプトからの習わしだしね。虫除け効果もあるし。」
「古代エジプトと同じ事するなんて素敵!家用の、買いに行きたい!」
「いつから考古学フリークみたいになったのよ、楓は?」
「仕方ないじゃん。そういう恋人持っちゃったんだから。」
機嫌よく彼女はキッチンに消えた。
夜、メールを見ていた楓が、突然叫んだ。
「夏休み、飛行機安いからエジプト遊びに来るって!私の幼なじみ。」
「へぇ、そうなの?良いじゃん?」
「カイロにいる間、泊めて欲しいって。」
「え?ここに?...まあ、部屋あるし。結局クローゼットとしてもあの部屋使ってないし、泊めてあげれば?」
楓は唸るような声を上げた。
「心配しなくても、私はその間どっか行っとくから、一人暮らしってことにすれば良いでしょ。流石に同じ部屋に普段から寝てるってバレるのはねぇ。」
「...まさか、来るなんて思わなかったから、親には内緒ねって、恋人と住んでるのって言ってしまった。」
「ええ?!...じゃあ、別れたことにすれば?」
「嫌。」
「何でよ。」
「嘘でもそれは嫌よ。」
「じゃあ、今仕事でカイロ離れてるから、とか言って誤魔化せば?」
「...。」
「じゃあ泊めなきゃいいんじゃない?」
「...ねぇ、レイ、観念してよ。」
「何を?」
「レイを恋人だって紹介する!」
「...いや...それは...」
暫く考えていた楓が尋ねた。
「それって、もしかして、レイが抱えてる過去と関連してる...?」
私は黙って頷いた。
「今、その過去に関わった人は誰もいないよ。ねぇ、ここは過去じゃないのよ、レイ。奈津さんも桜子ちゃんもムハンマドも認めてくれたじゃない。レイだって変わったでしょ?昔のレイと比べて、今のレイは、誰も真似出来ない所にいるの。憧れの存在なの。今のレイなら、そんな風に見られたり、言われたりしないわ。それでも嫌?」
「私は、周りからの嘲笑や差別で苦しむ、その辛さを知ってるから。昨日まで仲の良かった友人が去っていく悲しさを知ってるから。...楓にそれを味わって欲しくない。」
楓は黙ってしまった。暫く沈黙の時間が流れた後、楓は口を開いた。
「私の親族じゃなくて、友達なの。親族なら、私だって躊躇う。なんて言われるか、もそうだけど、レイと引き離されるような気がするから。だからきっと伝えられない。...でも、友人は違うもの。何を言われても、関係が終わっても、私はレイと一緒に、変わらずにいられる。」
私は黙っていた。
「...私は構わない。認めてくれない人なら、友達じゃなくて良い。...レイは?もう味わいたくない?」
再び、暫く沈黙の時間が流れた後、
「...わかった。いいよ。楓の幼なじみにちゃんと会うよ。恋人として。」
私はそう答えた。
楓の気持ちは痛い程、理解出来ていた。だからこそ、怖いと感じた。今はまだ、2人とも学生だ。だから、その時の感情で生きられる。でもこれが、社会に出て通用する程、世間は甘くはない。同性婚だって、つい最近やっとアメリカの一部で認められたばかりだ。全世界がそうなるのは、不可能に近い。そんな世界で、楓のこの純粋さは命取りになる...そう懸念した。そして、私の過去を話さなければならない時期に来ている、そう思った。
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