第七節5項「救世主」

 広場の噴水に群がる観衆の、さながら即席の円形闘技場に阻まれ、退路の無いティムズは、武器を手に猛り狂う"ドラゴンハンター"達の、雑でがむしゃらな攻撃を、なんとか躱し続けた。


 基本の型や動作、何もかもがなっちゃいない。粗削りな動きは読み易くはあるが、そんな者が振るう刃物でも、まともに喰らえば、かすり傷では済まない。


 何時までも避けているだけでは終わらせられないと判断したティムズは、反撃に転じる手を打った。


「このガキっ!……うがぁっ!」


 "ドチコン"が振るったマチェーテを掻い潜り、その肘に掌底を突き上げる。

 側方に転がり飛び、"ドチコン"が呻き、取り落とした得物を素早く拾い上げ、態勢を立て直すと、残りの二人が同時に斬り掛かってきた。

 "赤棟髪モヒカン"の鉈の振りを身を捩って避け、"白塗り"の短剣の突きも躱すと、その隙だらけの右腕にマチェーテの一撃を振り降ろ――


 ――せない。


 今の一瞬で、彼の右腕を断つのは容易かったが、躊躇ためらってしまった。


 ティムズは後方に何度か跳ね飛んで、身を屈めて構えるが、その息は上がり始めていた。心臓が、生身の人間の身体を直接破壊する事への躊躇と、その痛みへの共感に揺さぶられるように、不規則な律動を打つ。


 ――俺はこいつらとは違う。密猟者とは違う。ラテルホーンとは違う。リャスナとも違う。敵だからって簡単に傷つけたり、殺したりする連中とは違うんだ……!


 通常の刃物を扱う訓練も何度か行ってきたが、この形状の刃物を扱った事はなく、そして、人間を相手に、幻剣ではない、本物の刃を向けるのは初めてだった。


 普段、扱っている幻剣術符は、出力の調整次第で、非殺傷武器として使う事ができるし、重量のある金属製の武器は、機動力を是とする龍礁監視隊員レンジャーにとってはかせ


 不慣れな武器では手加減のしようも無く、何度か刃を打ちあい、何度も捉えた隙に一撃を入れようとするが、その度に躊躇がよぎり、そして、『重い』マチェーテではタイミングを的確に突くことは叶わず、決め手を得られない戦いは長引く。


 興奮した野次馬の闘円リングは更に狭まって、余裕のある距離を取り続けられなくなり、それまで辛うじて維持していた一対一の位置取りは乱れ、複数方向からの攻撃への対処が難しくなっていた。



 観衆は好き勝手に歓声と野次を上げ、戦いに劇的な決着を求めていた。最初はただの喧嘩の見物人だった彼等は、いつしか、殺し合いの見届け人として、血を求めて熱狂を昂らせていた。


「何してんだよ、若いの!殺ろうと思ったら殺れるだろ!」

「三人掛かりで良いようにあしらわれてんじゃないぞっ、ほら、ガキの方も息が切れ始めてる!やるなら今だ!」


 飛び交う怒声の中、再び"白塗り"と"赤棟髪モヒカン"がティムズを挟み込むようにじりじりと回り込み、飛び掛かる構えを見せる。 


 衆目の狂騒と、二人の動きに気を取られた。


 マチェーテを奪って武装解除をしたつもりになっていた"ドチコン"の、低い態勢で飛び込むタックルに反応するのが遅れたティムズは地面に叩き倒され、観衆から、どわっという轟きが上がった。


「ぐあっ……!」


「ひゃははっ!やあっと捕まえたぜえ!」

「いいぞドティコ!やっちまえ!」

「くそっ……!」


 "ドチコン"はドティコといういう名らしいが、ティムズが感想を持つ間もなく。

 その胸に馬乗りになったドティコは勝ち誇った様に高笑いし、ティムズの顔面に両拳を次々と撃ち下ろした。


 ドティコの膝に右腕が抑え付けられ、動かせる左腕だけで、反射的に殴打から身を守ろうとするティムズ。しかし、ゴッ、ゴッ、と鈍い音を響かせ、屈強な男が力任せに何度も打ち付つける拳は、ティムズの腕を弾き、何度も顔面を、頬を打った。


「………っ!」

「どうだッ!どうしたよ!ガキが調子に乗りやがった罰だ!どうだァっ!」


 拳の雨に耐えるティムズは、それ以上抵抗する事を諦めたかに見えた。思う存分に殴り続け、満足したドティコが、息を切らしながら、暴力と勝利の余韻に顔を輝かせて笑う。



「はあっ、はぁッ…!手こずらせやがって……安心しな、命までは取らねえ。その手癖の悪い腕を一本頂くだけで許してやるから、よ……?」


 ドティコは自分の手首が、何者かに掴まれている事に気付き、その腕の主を振り返る。


「腕一本ね。判った、それで手を打ってやろうじゃないか」

 いつの間にやらドティコの傍に立っていたタファールが、呟くや否や、素早くドティコの腕を捻り上げ、易々と投げ飛ばした。


「……っ!?……!!」

 そして、一回転して背中から地面に倒れたドティコの右腕に、躊躇なく足を踏み下ろし、折った。

 メギッ、と骨が砕ける鈍い音と共に、ドティコが悶絶する。

「……がぁあッ……!」


「てめえっ……!?」

 ドティコのマウントを笑いながら囃し立てていた"白塗り"と”赤棟髪”が、突然現れ、仲間を倒したタファールを睨み付け、短剣と鉈を向けた。


 タファールは、ティムズが取り落としていたマチェーテを拾い上げると、片手でくるくると遊ぶように器用に投げて回転させながら、唸り声を上げる獣達に向き直る。


「誰だ!?なんのつもりだ。邪魔するつもりか?」

「そりゃ当然、邪魔するつもりに決まって……って自分で言ってんじゃねえか。バーカ」

 "白塗り"の言葉をせせら笑い、そして、素早く身を翻すと、マチェーテを下から振り上げる様に振り抜き、白塗りが握っていた短剣を打ち上げる。


 くるくると回転し、宙に弧を描いて落ちて来る短剣を空中でぱっと掴んだタファールが、衝撃で倒れて呻く"白塗り"に近づいて、髪を引っ張り、頭を無理矢理に持ち上げると、喉元に刃を押し当てた。


「おおぉっ……」

 観衆が、新たに現れた男の鮮やかな戦技にどよめく。


「さあ、こんな場所であっさり死にたくはないだろ?大人しく引き下がるなら、深追いはしない」

「……!?」

 ティムズも、ボコボコにされて腫れあがった顔で、まさかの光景に度肝を抜かれていた。普段のキノコ頭がいい感じにばらつく、雰囲気の全く違うタファールの、華麗な身のこなしに、ただ唖然とする。


「お前……一体……?」

 瞬く間の決着に、動く事すらできなかった"赤棟髪"が、震える手で、それでもタファールの背中に向けて鉈を向ける。


 タファールは力を込め、"白塗り"の喉に短剣の刃を食いこませ、一筋の血を流した。

「ひィっ……!」

「まどろっこしい問答をするつもりはねえんだよ。とっとと頷けば済む話だろうが」

 喉に刃を当てられたままの"白塗り"は、首を縦にも横に振れず、ただ慄き、見開いた目で"赤棟髪"を縋るように見る。


「……わ、判ったよ……おれたちは退く。だからそいつを、離せ」

 "赤棟髪"は鉈を地面に放り落すと、タファールを見据えたまま、腕を抑えて丸くなり、呻いているドティコのもとへにじり寄り、立ち上がるように促した。


「ドティコ。行こうぜ。そろそろ保安兵もやってくる。捕まったら荷馬車強盗の件でブチ込まれちまうよ」

「わざわざ言うんじゃねえよ、バカ……」


 タファールは、じりじりと後ずさっていく悪漢二人を肩越しに見つめ、観衆の傍まで近づいたところで、ようやく"白塗り"を解放する。

 あたふたと地面を這うようにしてタファールから離れた"白塗り"と仲間達は、観衆を掻き分け、逃げ去っていった。



「タファール、あんた……」


 ティムズが口を開きかけるが、騒ぎを聞きつけた街の自治兵が、観衆を押しのけて迫ってくる気配に気付いたタファールは、困り顔で笑う。


「俺らもズラかろうぜ。所属がバレると、後々面倒な事になりそうだからな!」



 ―――――――――――――――――――――――



 観衆と自治兵の間でいざこざが起き、その騒ぎに乗じて広場から逃げる事に成功したティムズとタファールは、街外れの川沿いの土手道を歩いていた。


 頭の後ろで手を組んで、気軽な散歩を楽しむかの様なタファールの後ろを、散々殴られて腫れあがった顔を、術符無しでも使える簡易的な療術を灯し、触りながら、ティムズが着いていく。


「いてて……」

「ったく、情けないな。もうちょっとやれるだろうと思って見てたのに」

「見てたのかよ……」

「あんな木偶の棒にやられるとは、龍礁監視隊レンジャーの名折れだぞ」

「あんな喧嘩をするのは初めてだったんだよ」

「あんだけ龍や密猟者とやりあっておいてか?順番がおかしいよなあ」


 前を歩くタファールがくつくつと笑い、また呟く。


「馬乗りされた後のお前、変だったぞ。あの状況なら、術符が無くても効果のある術はいくつか使えただろ」

「……小さい頃、あんな風に殴られてたのを、急に思い出してさ」

「はっ。心の傷トラウマって奴か?そんなもんで、いざという時に何も出来なくなるなんて、やっぱお前は未熟だよ。みじゅく」

「…………」


 黙り込んだティムズに、更に続けて笑ってみせるタファール。


「ああいう手合いはな、初手でぶちかましちまえば良いんだよ。一発で鼻っ柱を折って、力の差を見せつけるのが基本だぜ」

「相手の力量をじっくり見極め、様子を伺い、的確に隙を突いて闘え、っていう、パシズの教えも一理はあるけどよ。実戦じゃあ最初の一撃を決めた方が、結局、勝つんだ。次は躊躇なんてするなよ。戦う以上は、一発で決めるつもりでやれ」


「……そうできる自信は、ない」

「なっさけねえなあ……本物の男になるには、まだまだ掛かるな」


 やがて、二人は、けて来る者が居ない事を確認すると、川の土手に広がる草地で休む。


 買い物をする予定もまだ残っているのだが、ほとぼりが冷めるまでは、ここで暫く人目から離れていた方が良いだろうと決めたのだ。



 座り込み、頬をぺちぺちと叩いて、とりあえず痛みは抑え込めたと確認したティムズが、傍らで寝そべり、空を見上げ、流れる雲の数を数えているらしいタファールに語り掛けた。


「それにしても、あんたも随分動けるんじゃないか。あれなら大抵の相手とも戦えるだろうに、何で黙ってたんだよ」

「俺は頭を動かす方が合ってるのさ。他人ひとには黙っておけよ。これ以上仕事やることを増やされちゃたまんねえ」



 ―――――――――――



  そろそろ騒ぎも収まっただろう、と街に戻った二人は、急ぎ、『買い物』の為に商店街を駆け巡る。幸いと言えば幸いだが、ネウスペジーにおいては、あの程度の事件は日常茶飯事なもので、ティムズ達が特に目を引く事はなかった。

 食料、反物、書籍、雑貨。マリウレーダ隊の面々に頼まれていた『お使い』も含め、タファールの宣告通り、冗談みたいな量の荷物を抱えさせられたティムズは、予定から大分遅れて、馬車で待つペンスのもとに辿り着いた。


 街外れの街道に立つ巨木の下で、客車の天辺に座り、煙草をくゆらせていたペンスが、夕暮れを受けながら戻ってくる二人に目を留める。


「……おっ。おかえりなさい!随分と遅かったなあ。どうだ、色々と『勉強』してきたかい?それどころか、になってきたか?」


 街の騒ぎなど知らないペンスが、大分時間を掛けて帰って来たティムズに、満面のにやつきを向ける。

 山積みになった荷物を必死に抱えてふらつき、応える余裕のないティムズに代わり、

「おう、色々と『勉強』にはなったんじゃないか?まっ、残念ながら、一人前のには、なれてないようだけどな」

 タファールが答え、


「そうですかそうですか。それじゃあまた次の機会だなあ、ティムズ!」

 ペンスが笑った。



 ―――――――――――――――――――――――――――――


「……」

「遅い……っ!」


 夜も更け、日付が変わる直前の談話室で、ソファーに座るミリィが苛々としながら、『買い出し』に出た二人の帰所を待ち続けていた。

 

 今夜は、ミリィも私服。

 紺色のシャツに、淡いベージュのズボン。


 タファールには生活雑貨や術符の予備を頼んでいたが、それを待っているのではなかった。


「この時間に帰ってきてないって事は、あっちで泊まるつもりなんでしょ。時々そうしてるじゃない」

 作業着つなぎ姿のレッタが、手元に開いた楊空艇マリウレーダの制御術式を弄りながら、事も無げに言う。


「………」

 ミリィだって無知ではない。タファールが率先して買い出しの任に着くのは、ついでに為であるという事くらいは判っている。日を跨いで帰ってくるという事は、つまり、そういう事だとも。


 問題なのは、今回はティムズを連れていった事だ!



 ミリィが事を知ったのは、今日の昼食時。


 朝から姿の見えなかったティムズが、タファールに誘われて出ていったという事を人伝手ひとづてに耳にしたのは昼食の席。若い男性職員が「そうかあティムズもいよいよかあ」みたいな話をしていたので、詳細を知り、それからずっと悶々としていたのである。


「ねえミリィ。良いじゃないの。ティムズは真面目だし、あのバカの趣味にまともに付き合ったりはしないでしょ。そんな……こほん、げほん」


 そんな甲斐性も無いし、という言葉は飲み込んだレッタが、咳込んで誤魔化す。


 その読みは当たっているし、ミリィもそう思っていた。そんな度胸はないだろう。しかし間違いは起こるかもしれない。だけど、自分のあずかり知らぬところで、ティムズが何をどうしようと、関係ない――

 

 ――はずだ。


 そう思いつつも、胸の奥でざわつくものに翻弄され、抑え込み、また溢れ出し、そういうものだと無理矢理納得する、という事を、ずっと続けていた。


 ――違うもん。あいつは弟みたいな奴。弟なんだから、気にするのは当たり前。弟の帰りが遅いんだから、気にしてる。それだけ。それだけだから。


「私、寝る!!」


 突如、弾かれる様に立ち上がったミリィの勢いに驚いて仰け反ったレッタが、ずれた眼鏡を指で直す。

「へっ?あ、うん。おやすみ……」


 そして、足音も荒く談話室を出て、勢いよく閉められた扉を見つめ、呟いた。


「……そんな風に自分に戒めを与えたまま生きるのは、辛いだけよ」



 ――――――――――――――――――――――――



「悪かったな、ペンス。超過分の代金はちゃんと払うから」

「いいえ、気にしないでくださいよ。いつもお世話になってますしね」


 深夜、第四龍礁本部棟、正面入り口に帰り着いた馬車から、買い込んだ品物の山を降ろす三人。

 タファールに朗らかに挨拶したペンスは、本部棟から程なく離れた客人用の仮宿へと、戻っていった。


「おかえり、タファール」

「随分と遅かったな、ええ?」

「ああ、あいつが色々とやってくれてさあ」


 夜間灯に照らされた正面入り口に立つ二人の夜警に、タファールがわざと仄めかす言い回しで、荷物をロビーに運び込んでいくティムズの背への目線で応えた。



「ふあぁ……久々に運動して疲れたな……。じゃっ、後は頼んだ。談話室に全部運んでおいてくれ」

「え、ちょっと、待て、待てって!マジで!?」


 わざとらしい欠伸ののち、山と積まれた『買い物』を顎で差し、爽やかな笑顔を向けたと思ったら、もう次の瞬間には背を向けてその場から立ち去っていくタファール。

 ティムズは留めようと叫ぶが、タファールは、

「ここまで含めて、お前を誘ったんだよ」

 と、背中で返し、片手をひらひらと振って、さっさと行ってしまった。


 ―――――――――――――――


 眠い身体をなんとか気力で保たせ、数回に分けて、誰も居なくなった談話室に荷物を運び終えたティムズ。タファールの言う通り、今日は色々とあったし、久々の馬車に揺られ続けた事で、気分も悪く、朦朧となりかけていた。


 なので、居住フロアに向かう長廊下で、月明かりを浴びて佇む人影を見た瞬間は、幽霊か何かの類ではないかと、思い切り驚いてしまった。


「うわっ!?」

「っ!?」


 人影もティムズの声に驚いて振り返る。


 アルハだった。深夜遅くだというのに、いつもの戦衣を着用したまま、ぼうっとして月を見上げていたようだ。


「な、何してるんだ、こんな遅くに」

「き、きみこそ何で……?」


 驚きのあまりに手を胸に当て、身を竦ませていたアルハに、ティムズが先に応える。


「ネウスペジーに買い出しに行ってたんだ。ちょっとした騒ぎに巻き込まれて、ついさっき帰ってきたところでさ」

「……なるほど。騒ぎに巻き込まれた、という顔をしてるな。ちょっとした、どころではないみたいだけど」


 アルハが、ドティコにボコボコにされたティムズの顔を見て薄く笑う。


「別に、大した事じゃないよ」

 ティムズは、実質的には喧嘩に負けたという事実を誤魔化そうと、アルハに問い返す。

「君の方は、何でまた、こんな時間に一人で、こんな所に」


「……眠れなくて」

 アルハはティムズから目線を逸らし、小さく応えた。


「……うん、そういう夜もあるよな。俺もたまにそんな感じになる」


 微笑むティムズの、ボコボコに腫れあがった顔を改めてじっと見つめたアルハが、徐に歩み寄り。

「相変わらず療術が不得手みたいだな。放っておくと、あとが残るぞ。ぼくの術なら、もう少しまともに治せる」

「いや、大丈夫。これくらいならすぐに治るから」


 なんだかんだで、傷の治りは早い体質なのだと自覚し始めていたティムズが、笑いながら遠慮してみせるが、

「……やらせてくれ。この術は……きみの為に、覚えたものなのだから」

「へ……?」

 アルハの、切なそうな囁きと表情に、ティムズは戸惑った。


「それに、ぼくをエヴィタ=ステッチからも救ってくれただろう?その礼もさせてほしいと、ずっと、思っていたし……」

「……あ、ああ……そういうことなら」


 困惑のまま、ティムズはアルハの療術を受け入れる。


 アルハが、ティムズの目の前に立ち、両掌をその頬に添えた。

 緑色の療術が、ティムズの頬を包んでいく。


「……もしかして、何かあった?」

 見上げるアルハの表情に、何と無く、陰を感じたティムズが、黒曜石の様な眼差しを向けた。


 その黒い瞳に、一瞬、アルハは、身じろいだ。


 あの夜。エフェルトの部屋で起きた事を、覚えていないと報告したのは、嘘だった。本当は、何もかも覚えている。初めて感じた男の劣情と、残酷な言葉を。


 だけど、内心、少し、どきどきもした。

 もしも、あれがティムズだったら。拒まなかった。


 武門の家に、望まれない女子として生まれたことをひた隠され、嫡男として育てられてきたアルハは、それでも、自分が一人の女であることを教えられ、自覚させられてしまった。そして、その発端は、今、目の前で自分を見下ろす青年との出逢いだという事を、強く想う。


 しかし、その傍にずっと居る事は叶わない。彼も、自分も、龍礁監視隊員レンジャーとしての責務を負う者であるからだ。


 ただ、その責務によって縛られ、共に過ごし続けている者も居る。

 

 それは、自分ではなく、ミリィだ。

 そんな事は判っている。知っている。


 だけど。だから。今だけでも。


 その想いを、少しでも自分に向けてほしい、と想わずにはいられなかった。


「アルハ……?」

 

 長く続いた雨は空気を研ぎ澄まし、窓から差し込む満月の月灯は、二人の影をはっきりと浮かび上がらせる。


 アルハの、何かを訴えかけるように見上げる視線を、ティムズは不思議そうに、見下ろした。


 頬に添えられた手に、僅かな力が籠もり、ティムズの頭が、低くなる。


 アルハは目を瞑り、少し、背伸びをした。

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