第二節7項「更けていく黒夜」

「さて…、夜も更けたし、会合を解散する…というところだが、イーストオウル、君から何か私に質問しておきたいことはあるかね」


 ピアスンが、ティムズに対し向き直ると、落ち着いた声で声を掛ける。

 ティムズはこの隊のリーダーである船長に大分好印象を持っていた。

 優しそうだし。しかし実のところは優しいのは、船の外、だけだという事をまだ彼は知らない。


 皆が『船長』と呼ぶビアード=ピアスンは今年で45歳になる。

 白髪交じりの淡い黒髪、青い目、痩せ型で背はティムズとほぼ同じだが、副隊長として同行するパシズの体躯のせいで、実際よりも小さい印象を受け易い。

 若年時より常に『船』とそれに関するあらゆる『組織』に関わってきた彼は、一時期、海賊団に所属していた…という噂すらあった。普段は穏やかな物腰で周囲に安心感を与える立ち振る舞いだったが、『船』に乗ると豹変し、熱くなる事で知られ、周囲に『鬼船長』と呼ばれる所以になっていた。


 副隊長兼、船外活動員を務めるパシズとは古くからの付き合いで、別の隊でも隊長と副隊長、という間柄だった。今でこそお互いに敬意を持って接し合っているが、その当時は殴り合いの喧嘩は日常茶飯事で、その姿を覚えている者は、現在の良好な信頼関係をとても信じられない。きっと今でも隙あらばお互いを殺し合おうとしている、と思っている。



 ―――――――――――――



「じゃあ…実際に自分が明日からやるべきことを教えて頂ければ助かります。……すいません、もっとちゃんと前以て調べてから来るべきだったんですけど」


「本来の任務は船を駆って、龍礁内を巡回すること…なのだが、君も散々聞いた通り、マリウレーダの修復が終わるまで、我々は分担して地上の業務を請け負っている。地上でもやる事は一杯あるからな。君もそれに参加してもらう事になる」


「ただ地上勤務とは言っても多種多様だ。そして、現在、龍礁ここはどの部署も深刻な人手不足に悩まされている。恐らく何処も君を欲しがるだろうな……」


 ピアスンが少し笑みを浮かべて…とは言っても口髭のせいで口元は隠れているのでティムズからはそうは見えなかったのだが、声色でそう思えた。ピアスンは調子を戻し、続きを語る。


「なので、君に要望や希望があったとしても、その通りにはならんかも知れん。明日、デユーズに相談しておこう。詳しい話はそれからだな。旅の疲れもあるだろうし、それまではゆっくり休んでおいてくれ」


「判りました、ありがとうございます」



「……船長、提案がある」


 後方で二人のやりとりを見守っていたパシズが一歩踏み出て、姿勢を低くしてピアスンに顔を近づけて、進言する。


「何にせよ、彼の基礎体術訓練は早めに開始しておいた方が良いかと思う。彼の資質、適正を知り、任務の適合性を早くに見定めなければ、彼にとっても、我々にとっても危険がある。ミリィの話では既に体力測定を行ったようだが、それも後日また改めて行いたい。何せ彼は本日の午前中に到着したばかりだ。それを1日中引っ張り回されて、そんな状態で『テスト』された所で…例え俺でも、納得行く結果は出せん」


「そりゃそうだ」

 ピアスンが頷く。


 ティムズよりも、その背後のミリィに目線を向けたまま語るパシズ。

 ティムズが目だけで振り返ると、彼女は身体を揺らして落ち着かない様子だった。『それもそうだよね』みたいな顔で。

 それを鑑み、擁護してくれる、このおっさん(パシズ)は自分の味方だと思い、彼女に(だから言っただろ)と目で語ろうとするティムズだったが。


「それはそれとして、小僧!」


「!?」

 突然大声を上げられ、ティムズは飛び上がってパシズを見る。


「姿勢が悪いぞ。体幹が弱い証だ。体幹はあらゆる体術と運動の基礎であり、その鍛錬は最も重要なものだ。常日頃から注意を払っておけ。それに……」

「内心が顔に出過ぎている。心を読まれるという事は、その時点で相手に負けている、という事を心しておくように」


「ハイ……」


 自分なりに礼儀正しく振る舞い、自分なりに真っすぐ立っているつもりティムズだったが、その(二重の意味での)姿勢を窘められ、ぎくりと身体を強張らせる。実際のところは割と適当で、心の内では割と態度が悪い…という事は自分でも判っているが、それをパシズに見透かされた気が…いや、確実に見抜かれていたと感じ、ティムズは冷や汗をかいた。この男、只者ではない。見た目以外でも。

 

 これまでの会話からして、彼は実際は優しいおじさんなんだなあ、と思っていたティムズだったが、こうしてパシズに眼前で睨まれると、次の瞬間には拳を叩きこまれ、自分の顔が膨れ上がってるのでは、と思わせるだけの迫力があった。



 その背後には、少しだけティムズに同情し始めていたミリィの心配そうな姿。

 彼女もパシズと初めて会った時はかなりの恐怖に襲われたらしい。詳細は省くが、初めは「熊か何かだと思った」という。ある日森の中、パシズさんに出会った。のだ。


 そして更にその背後では、ソファにめり込んで手足を放り出しているタファールと、猫背でまだメモを書き消し書き消ししているレッタの姿がある。それぞれの担当は身体を動かすものでもないので、パシズは彼等には正しい姿勢、を強要してはいない。


 と、言うよりも、この二人に関しては、パシズはもう色々ととやかく言うことは諦めていたのだった。



 ―――――


「そうだ、君が寝泊まりする部屋だが……タファール、お前と同室で良いだろう。あそこは元々二人部屋だしな」


 ピアスンが会合の解散を告げ、部屋を去り、各々が自室に戻るべく席を立ったところで、パシズがティムズとタファールに向けて話し掛ける。


「ええ~…」

「イヤっすよ、折角一人の生活を満喫してるのに。同居人が居たら落ち着いてオナれやしない」


「 」


 瞬間、女性陣の方から空気がぴりっ…と張り詰めるのをティムズが感じた。

 思いっきり堂々と、あけすけに正直に、包み隠さず赤裸々に、率直で素直、単刀直入でストレートに、本能に忠実に言ってみせるタファール、をティムズが観た瞬間。

『なあ?ティムズ、お前もだろ?』とタファールがティムズに振りやがり、ティムズは身も心も氷水を浴びた様に硬直する。


 レッタは平然と様子を見守ったままだったが、ミリィは嫌悪感この上なしの目線をタファール…と巻き込まれたティムズに向けていた。完全な貰い事故だ。

 あらぬ疑い(とは言い切れないのが青年の悲しいところ)を掛けられ、ティムズは声を裏返して、しどろもどろになる。


「やっ、俺は!別にそんな、二人部屋でも!困ることは、ないです!」


「……」

 ミリィから放たれる冷気にぞっとしたティムズは、更に強力な圧、を感じ、その出所であるパシズを見る。まるで元々大きな体が膨れ上がって更に巨大になった様にすら感じられた。パシズは息を大きく吸い込む。更に身体が膨らむ。怒号を覚悟してティムズは身を竦ませたが、次にパシズが放ったのは切れ切れの静かな言葉だった。

 一番キレてるヤツだ。


「タファール。お前の、部屋だ。良いな?」


「あー……ハイ、すいません」

 流石にタファールもこれに軽口を返すほど命知らずではない。


「イーストオウルを、部屋に案内したら」

「そのあと、俺の部屋に、来い」


「…今のはナシにできませんかね、これからは姿勢にも気を付けるって約束しま」

「駄目だ」


 パシズの即答がタファールの言い訳を、叩き潰した。

 まるでこの後の彼の運命を予言しているかのように……。



 ――――――――――――



「さあ着いた。ようこそ、ここが俺とお前の愛の巣だ」


 タファールがティムズを『自室』に冗談と共に招き入れる。

 龍礁本部施設の一角に、龍礁監視隊の隊員レンジャーが居住する専用のフロアはあり、ほぼ全員が独身の隊員たちは、主にここで暮らしている、という。

 所帯を持つ者も居ない訳ではないが、それの家族は龍礁ではなく自国で帰りを待たせている。例えばピアスンがそうだ、ともタファールは語った。


「はあ……何もない部屋ですね……」


 ティムズは部屋の様子を見渡して思ったままの感想を述べる。

 一般的な居室と同様の様式で、部屋壁際、対面同士に二つのベッド。

 それぞれの傍らに文机。片方はタファールのものだろう。『何もない』とは言ったが、その周辺は彼の私物らしき物が集中して散らかっていた。窓からは龍礁本部を取り囲む林の木々が見えるだけで、茶色の室内に相乗効果をもたらして、殺風景さの一因になっている。


「任務次第では二、三日帰れないのもザラだし、部屋に物を置いててもなあ……」

「じゃあ、俺は……パシズんとこに、逝ってくる……」


 がっくりと肩を落とし、部屋を出ていこうと振り返ったタファールが、静かに呟いたのをティムズは聞き逃さなかった。反省はしている様子だ。

「……あれはやりすぎか、今後は注意しなきゃな」


「自業自得すよ」


 ティムズがタファールの背中に険悪な声を出す。正直、彼の事は初対面から良い印象は持てない…というよりも嫌い…とまでは言わないまでも、苦手なタイプだった。

 ティムズの知る限りでは、いくら、どんなお調子者、でも、節度と限度を弁えているものだ。彼に関しては流石に度が過ぎる場面があると思った。

  

 ただ、そう思ってしまうのは女性陣の前で…特にミリィの前、でああいった事をのたまりやがったのが一番大きい、と、ティムズ自身は良く判っていた。恥ずかしい!

 今後は気を付ける、と言っているし、まあ、今日のところは許してやろうと思う。

 恐らくはパシズによる裁きがこれから下るのだろうし。


 ティムズが声を掛けると、タファールは気を取り直した様に振り向き、突然跪いて

 縋るようにティムズの手を握り、芝居がかった口調で語り出した。

 

「もし俺が帰れなかったらお袋に伝えてくれ。『息子さんは立派に散りました』って……そして、海の見える小高い丘に墓を建てて…あ、俺のもんに触んなよ」


 よよよ…と泣き崩れる真似もして見せるが、あっさりと飽きたらしく、唐突に素に戻ると、ティムズに私物について釘を差してからタファールは部屋を去っていった。

 ティムズは、今の『演技』もやりすぎだ、と思った。


「まったく……」


 ティムズは埃っぽいベッドを軽く手で払い、溜息を付くと、自身の荷物をそれに放り投げ…そして、今日は余りにも無知を晒し続けた事に後悔して、ファスリアから持ってきた魔資菅の龍礁関係の資料の束を鞄から取り出すと、それを文机に置いて、改めて読み直すと共に、今日知った様々な情報と比べてみる。以前は判らなかった単語の意味も、今なら幾つかは判るし、明日以降は先輩一同に…特にミリィに、素人扱いなんてさせてなるものか、と、本来は持っていて、時々顔を出す負けず嫌い、を奮い立たせるのだった。


 ―――――――――――――――



 一方。レンジャー全体では数名しか居ない、女性隊員のために男性とは分けられて設けられた居住フロアに在るレッタの部屋。


 会合が終わり、自室に戻るレッタのあとを着いてきたミリィが、今はレッタのベッドにちょこんと座り、何やら憤慨している…いや、少し違う。現在の彼女の様子を的確に表すとすれば、どんな著名な文筆家でもこの表現しかできないだろう。


 彼女は、ぷんすか怒っていた。


 部屋に入るまでは冷静そのものの態度で歩いてきていたが、部屋に入るなり、ベッドに跳ね入るようにばふっ、と座り、ぷんすか怒り始めたのだ。


 勿論、最たるものはタファールの事である。発言の内容はともかく、そういった事を公の場で平気で口にできるデリカシーの不在が彼女には度し難いものだった。


「まったく!どんな教育を受けたらあんな風になれるの?信じられない!」


 レッタはやれやれまたか、といった仕草をして、何らかの装備品らしき革帯状のものを灯りに掲げ、それを見定めつつも、ミリィをなだめる。


「男なんて大体はあんなもんでしょ。あんたも子供じゃないんだしさ、あの程度は軽ーく受け流せるようになんないと」


「それにアイツ!イーストオウル!聞いてよレッタ、初対面で最初の質問が、『きみいくつぅ?』だって!先輩で年上なのよ私は!どういうことなの!」


 ぷんすかしていたのはタファールの件だけでもなかったようだ。

 レッタの話は全く聞いていない様で、更にティムズに対してもぷんすか怒りだす。

 実は年齢を聞かれた事は結構根に持っていたらしい。ぷんすかしてたら思い出した。

 若干の悪意を含みつつ、ティムズの発言を真似してみせ、それでまたぷんすかする。


「まずはあんたが私の話を聞きなさいっての」


 そう言ってレッタがミリィを見る。むすっとしているミリィの顔を見て、身体を下側に順に…そして少し上側に視線を戻して、ぽつりと言う。


「どういうことなの、って…」

「……うん、やっぱりお子様かもね。"キミ"、いくつ?」


 レッタの視線が、ミリィの顔、首の下、肩の間、腰よりは上……心臓を収める辺りに留まって、『彼女』に、年齢?を尋ねてみる。


「……?……っ!……!!」


 レッタの視線と質問が向いている先に気付き、自分も"それ"を見下ろすと、みるみる真っ赤になった顔を上げたミリィが大声を上げた、

「レッタ!!」


「ちょっ……声大きいから、声!」

 泡を喰ったレッタが声を抑えろという仕草をしながら、ミリィの……を見て微笑んでみせる。

「…ごめんごめん、冗談だって。可愛らしくて私は好きよ、ソレ」



「ソレ、って言うのはやめてくんないかな…」

「褒めてるつもりなんだけどね、そういう事だけじゃなくて……あんたは可愛い。自信持ちなさい」

「それなら、いい……」


 大声を上げた恥ずかしさと、可愛いと面と向かって言われた気恥ずかしさと、あとはまあ、体型の情けなさで俯き、小声で呟くミリィ。


 レッタは、時折こうして、何かがあると自分の部屋を訪れて愚痴ったり、怒ったり、そして、時々泣いたりするミリィの相手をしていた。

 二十五と二十一という少し離れた年齢だが、友人というよりも、親友、姉妹と言ってもいい間柄になるまで、さほど時間は掛からなかった。


 レッタ=バレナリーはアラウスベリアの出身ではない。

 遠国の漁村に生まれた彼女は、幼少期より『船』に関して天賦の才を発揮し、理術技師を育成する学院に入学、しかし彼女の才能は常人には理解され難いもので、学院に見切りを付けた彼女は自ら去り、『楊空艇』を擁するという龍礁の噂を聞き、遥々大洋を超えてこの地を訪れた。

 『造船技師』として売り込んできた彼女が、格納庫で埃を被っていたマリウレーダに一目惚れし、独自に(勝手に)整備を始めたところ、ビアード=ピアスンが新たに隊を発足させるため、彼女をマリウレーダごと隊に引き入れたのだった。


 そこでパシズが連れてきたミリィと出会い、こうして任務だけではなく、日常も共に過ごす仲になった。



 しかし……と、レッタは改めて、今は大人しくなったミリィの姿を見つめる。

 こうしてベッドで座っている彼女と話していると、先日F/III龍を相手に大立ち回りを演じた彼女と同一人物とは思えなかった。『任務中』のミリィの、凛々しささえ感じる風格と、直撃すれば確実に死に至るであろう龍の雷撃の懐に、躊躇なく飛び込む胆力と度胸。

 あの、鬼気迫る雰囲気は今は何処にもない。その理由はともかく、何をどうしたら人はここまで印象を変えることができるのだろうか。

 そして、昼間のレッタを呼ぶ声と、今さっきの大声が、ミリィの小さな体躯からどういう理屈で出てきたのか?ということは、レッタの明晰な頭脳でも説明できない『わからない』ことだった。



 ――――



 レッタはミリィを元気付ける材料として、ティムズの件をフォローしてみる。


「ま、イーストオウル……だっけ?あの子はあんたの言う事は何でも聞いてくれるんじゃない?使い走りにできる後輩が出来た、って思って、ちょっとやそっとの事は許してあげてあげなきゃ」

「……うん、うん……そうね。うん、色々してもらおうっと」

「何せ、あんたの事が気になってるみたいだしね」


「……え?」


 ティムズがずっとちらちらとミリィの事を見ていたことはレッタにも判っていた。

 それをネタにミリィをからかってやろうとしたが、ミリィの反応を見て、レッタはしまった、と思った。何故なら彼女には――。


「あ、いや、何でもないわ」

 胡麻化そうとするレッタだったが、ミリィは静かに俯いて、囁く様に呟く。


「……それは、私には関係ない、話」


「………」

 若干気まずい沈黙が流れ、ミリィが気を取り直した様にレッタに笑いかける。

「それよりも、レッタの方が興味あるんじゃないの?楊空艇の話、嬉しそうに聞いてくれてたし、レッタの方が話合うんじゃない?」



「……それに、レッタはお化粧をもう少しだけでもしてくれれば、もっと綺麗になるんだから、もうちょっとちゃんとすれば良いのに。髪も。そんなぼさぼさじゃ勿体ないよお」

「レッタさえ、その気になってくれたらなー」


 ミリィが今度はレッタの方に話題にすり替えようとする。

 今夜の楊空艇の会話の様子からすると、むしろレッタの方が彼と気が合うだろう、と思ったし、『本気』のレッタを見れば並大抵の男は瞬殺だ、とミリィは知っていた。



「それはねえ…ミリィちゃん、私には『興味がない』話なのよね」

 レッタがにやりと笑い、そろそろ良い時間だ、と話を切り上げる。

「さ、そろそろ御休み。寝ないと私みたいに目に隈が浮いちゃうよ」



「うん」

「……レッタ、ごめん。無理はしないでね」


 ミリィの退室を促し、ドアまで見送りに立ったレッタを振り返り、ミリィは今度は少し心配そうに、申し訳なさそうに語り掛ける。この後、レッタは深夜遅くまで『再計算』に没頭するのだと分かっていた。それを自分が煽るような発言をしてしまっていた事を、少しミリィは後悔している、とレッタはすぐに感じ取る。


「気にしない!むしろミリィが煽ってくれて良かったよ。そうじゃなきゃ悔しくて徹夜してでも何とかしようとしてたと思う。でも、良い仕事をする、って覚悟を決めたら、その為に必要なのは良い睡眠だ、って事も思い出した。だからちゃんと寝る」

「それに、無理をしない、ってのが私には無理なの。さ、良い子は早く寝るもの!」


 結局子供扱い?とミリィは少し笑い、レッタに別れを告げて、自室へと戻っていった。



 ――――――――――


 ティムズが龍礁関係の資料に目を通し、没頭していると、何処かから「レッタ!!」という響きが薄っすら聞こえた気がして、顔を上げて辺りを見回す。


「……??」


 そこに、パシズの裁き、を受けた頭を擦りつつ、タファールが戻ってきた。

 目立った外傷はないことにティムズは不満を感じたが、話によると拳骨を頭頂部に喰らったらしい。


「痛てて……あーあ、落ち着かねえなあ……本当なら今頃は、オナ……」

 ベッドに仰向けになったタファールが、痛みを訴えつつ、そもそもその痛みの原因を作った単語を性懲りもなく口にしようとしたが、口を噤む。


 ティムズは資料に目を通しながら、彼を振り返りもせず、背中で冷たく言ってやる。


「部屋出てましょうか?五分くらい」

「五分?馬鹿にするなよ、俺なら二分だ」

「自慢なんすかそれが」


「冗談に決まってんだろバカ。で、そのバカは今何読んでんの?」


「………」

 同居人への態度としては褒められたものではないが、それはタファールについても同じ事が言えると思い、取り敢えず今は資料を読み切る事に集中しようと、ティムズは彼を無視する事に決める。しかしそれも暫くの間で、やがてタファールが少しトーンを落とした口調でぽつりと問い掛けられると、これは真剣な質問であると感じ、それはきちんと答えようとする。


「なあ、ティムズ、お前、どうしてここで働こうと思ったんだ?」


「……それは」

「金が要るから……ですかね、やっぱり」


「そんなもん誰でもそうだろ、それが何故なのか聞いてんの」


「………」

「……俺の両親は俺が小さい時に別れたんです。そして、祖母が俺を引き取ってくれて…でも、祖母は病で身体を悪くしてしまって、それで」


「……成る程、それで介護の費用が必要だって事か」


「ええ」


「……孝行もんなんだな、若いってのに偉いねぇ」


「……」

「……どうでしょうかね」


 タファールは、妙な間で応えたティムズの言葉に引っ掛かるものを感じ、少し顔を上げ、ティムズの後ろ姿を見た。しかしティムズはそれ以上何も言うつもりはないのだと悟り、再び頭の後ろで腕を組んで仰向けの態勢に戻る。ティムズはやがて、自分からも質問する。タファールもまた、少し間を置いて、今までより更に声を落として、まるで自分の事では無いかの様に、感情を殺した声で答えた。


「……ネルハッドさんがここで働いてる理由も聞いて良いですか」


「……」

「……俺もな、弟が病気なんだよ」

「難病で、治療には龍の血を使った最上位の霊薬が必要、って言われていてさ」


 タファールの言葉に、ティムズは資料をめくる手を止め、振り返る。

 タファールはベッドに横たわったまま、窓から夜空を見上げているようで、彼の表情はティムズからは見えなかった。そして無感情に、淡々と語るタファール。


「病気を患うまではとても元気だった。毎日の様に釣りに行ってたのに」

「ある日突然、血を吐いて倒れた。それからずっと療養院に入りっぱなしでな」

「金を積んでもおいそれと手に入るもんじゃないが、ここで働いていれば、いずれは切っ掛けを作れるしれない、と思ってな」


「……そうだったんですか。大変ですよね、こういうの」


 ティムズは少し反省する。タファールもまた『家族』の為に働いていたのだ。

 同情したように丁寧な口調に戻るティムズの言葉を聞き、タファールが身を起こして、ティムズに笑いかける。


「ま、同室になったのも何かの縁だろ。俺の事は名前で呼んでくれ。それに敬語も無しな。そんな行儀良い口調で話されたら調子が狂っちまうんだよ、俺は」


 ティムズは彼の第一印象とは違う『一面』を見て、人は見かけによらない、見た目に囚われてはいけない…という、誰の言葉だったか…を思い出し、笑顔で応えた。


「……判った。ありがとう、タファール」


「その調子」

「それじゃあ俺は寝る。まだこれからどうなるか俺にも判んねーけど、とりあえず、頑張れよ………ティムズ」


「ああ、お休み」


 欠伸をして眠りに入ったらしいタファールの寝息を暫く聞いていたティムズも、やがて、そろそろ寝なければ、と思い、机の灯りを落とすと、久しぶりの上等なベッドに寝そべり、その柔らかさに感謝をしながら、龍礁最初の夜を終えたのだった。

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