青いチーズの味

 僕はワインも飲まなければチーズもほとんど食べないという、フランスに住んでいる意味のない人間である。下戸なのでアルコールは別として、チーズに関してはちょっと苦手意識があった。理由はあの匂いと味である。

 食べられるものといえば若いカマンベールとか、それと似た系統のブリーとか、ともかく鼻と舌に刺激のない無難なものしかない。要するに味覚がお子さまなのだ。個性の強い、例えばロックフォールのような青カビ系のチーズは、その容姿だけで目を逸らしたくなる。一面にカビだぞ。しかも青いぞ。あんな奇怪なものを好んで食べる人の気が知れない。


 しかし、そんな僕の食べず嫌いは、このオーヴェルニュに来て叩き直されることになる。


 カンタル。

 サン・ネクテール。

 ブルー・ドーヴェルニュ。


 これらがオーヴェルニュ地方の代表的なチーズだ。ブラッスリーのテラス席を見ると、どのテーブルにもことごとくチーズの盛り合わせとバゲットが並んでいる。決まってこの三種のチーズである。店のメニューを見ても、デザートのところに必ずチーズ盛り合わせがある。そんなに皆が注文するほど人気なのか。

 一種類だけ気持ち悪いのが混じってるけどしようがない、何事も経験だと思って、頼んでみることにした。


 カンタルはハードタイプで、無理やり例えると日本のプロセスチーズをもう少しパサつかせて硬くしたような感じ。喉が渇くけれど、クセがなく嫌われることがない味だと思う。

 サン・ネクテールは半生タイプの柔らかいチーズだ。外側はしっかりとした皮に包まれているが、内側はぶよんとした弾力がある。ひとつ前に書いたオーヴェルニュ名物のアリゴは、ジャガイモにこのチーズを混ぜ合わせて作る。熱するとびよーんとなるのだろうが、そのまま食べてもモチモチしてまろやかだ。

 そして真打、オーヴェルニュのブルーチーズ。見た目はロックフォールと変わらない、青カビチーズである。海藻のようなカビが断面いっぱいにのさばっている。

 やっぱりこいつはキビシイなと思ったが、ここまでくれば仕方ない。覚悟を決めて青カビをかじった。


 すると。

 なんということか。

 口の中にまったりとしたコクのある塩気と、えも言われぬ芳香が広がったのだ。

 美味い。なにこれ美味すぎる。

 この味の濃厚さよ。ちょうどいい塩加減よ。ほんのかすかに舌を突いてくるピリッとした刺激よ。特にこの青カビの部分がたまらない。なんと風味豊かなんだ。これこそチーズの味だ──。


 僕がオーヴェルニュのブルーに恋をした瞬間だった。


 それからは昼であれ夜であれ、とりつかれたようにチーズ盛り合わせを所望した。今まで知らなかった世界を知ってしまったせいか、その心酔ぶりは極端なものだった。三種のうちカンタルとサン・ネクテールは箸休め、主役はあくまでもブルーだ。病みつきになる。飽きることなく食べられる。まったりこってりとした感触が舌に絡みつきながらゆっくりと溶けていく。熟成された気高い香りが鼻から抜ける。

 青カビがこんなに美味いものだとは知らなかった。僕は子どもだった。この悦びを教えてくれてありがとう。そう思いながら僕は生きるペニシリンを恍惚として摂取した。


 こうして長年の食わず嫌いは、いともたやすく克服されたのである。


 ちなみに青カビの王様ロックフォールは羊の乳から作られるが、オーヴェルニュのブルーは牛の乳が原料だ。もしかしたらそのおかげで初心者にも食べやすかったのかも知れない。買って帰れなかったのが残念だが、あの土地で食べたからこそ美味しかったのだとも思える。パリでも手に入るだろうけど、しばらくはあの味を反芻しながら初体験の思い出に浸りたい。


 余談だが、実は休みを取るときに、仕事先の日本の方から「おフランスはいいですね、休みが取れて」と言われて、少し気に病んでいた。悪気があって言ったわけではないだろうが、僕の苦手な物言いだったので、ちょっとだけ堪えてしまったようだ。

 罪悪感を覚えながら旅をするのは複雑なものがあったが、パリへ帰って来てみると、じわじわとオーヴェルニュへのノスタルジーが湧いてきた。

 雨の中、美しく妖しい聖堂を見た。眠る山々のおだやかな景色を見た。その土地の美味しいものを食べた。それは単純に幸せだったと思っていいはずだ。

 できればまたオーヴェルニュへ行きたい。今度はクレルモン=フェランだけではなく、ほかの街や村も見てみたい。

 水のきれいな地方は、思考も浄化する魔法があるのかも知れない。



 オーヴェルニュの旅・おわり

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