南仏記④ ミツバチとラベンダー

 人にも会わず、自然のほか周りに何もない環境では、読書か植物を眺めるぐらいしかすることがなかった。外へ出れば庭のプランターいっぱいにラベンダーの花が咲いている。南仏を代表するこの淡いむらさきの花は目に優しい。

 僕はテラスに出した折り畳み椅子に座ってぼんやりとラベンダーを眺めるのが好きだった。こんな風に言うと休暇中というよりむしろ療養中の老人のようだが、実際このラベンダーの色は見ているだけで心が落ち着くのだ。


 ラベンダーの周りにはつねに大勢のミツバチが飛び交っていた。

 いつどこから現れるのか、テラスに出ればひっきりなしに羽音がする。昼間は全員出勤のフル稼働という勢いで飛び回っている。そんなに取ったらそのうち蜜がなくなるんじゃないかと思うぐらいだ。

 花から花へ、一日中同じことが繰り返されるだけなのだが、ろうそくや暖炉の火を見るのが飽きないのと同じように、この忙しい働きバチにもつい見入ってしまう。


 そんな彼らに黙って蜜を提供するラベンダーは、反対にどこか呑気そうだ。しなやかで、ときおり吹く強い風に揺られても、風がやむとまたすっと姿勢を正す。


 ラベンダーは本当に姿勢がいい。

 プランターから溢れ出すように生えているので、外側の花は真横に伸びたり、ななめに伸びたりしている。それでも一本も曲がったり折れたりしていない。花の先までとにかく真っ直ぐだ。それもしゃちほこ張った軍隊のようではなく、バレエダンサーのような、自然に持ち上がるような伸びやかな真っ直ぐさ。まるで一本一本が意思を持っているみたいだ。

 猫背のラベンダーはいないのだなと思った。


 そう言えば一本の茎からはどれぐらい香るのだろうと、小さな花を沢山つけているのを引き寄せて嗅いでみた。思ったほど香りが強くない。

 ではこれはどうかと、花が落ちて枯れかけているのを一本、鼻の先へ寄せてみた。

 驚いた。強烈な香りがした。これぞラベンダーだ。まさか花が落ちた茎の方が強く香るなんて。

 これはあくまでも僕の嗅覚だから、それが正しかったのかどうか分からない。でも花を落としてから香りが強くなるのなら、それは素敵だなと思った。枯れてから本領発揮なんてかっこいい。人間がおいそれと真似できることじゃない。

 

 今までなんとなく「ありきたりな花」なんて思っていたけれど、見方が変わった。ずいぶん失礼な考え方をしていたものだ。ちゃんと見たことも、匂いを嗅いだこともなかったのに。


 考えれば他の花も同じだ。ミントの花も、麻の花も知らなかった。ここで初めて覚えるものばかりだった。

 散歩道の野生の花も同じだ。

 浅緑色の草原に一本だけ鮮やかに咲いているピンクの花。小径の草むらから覗いている繊細なブルーの花。彼女らがこんなにきれいだと知らなかった。

 勿体ない、なぜこんなところにいるのか、もっと目立つところで咲けばいいのに、なんて思うのは人間のいやらしさで、この花たちはここに咲いているからこそ美しいし、絵になるのだ。

 パリの公園の花壇など興味もなかったくせに、僕はこの二週間のあいだに野に生えている花に足を止めるようになってしまった。この期間に撮った写真を見ると花ばかりで笑ってしまう。


 地味だけど、実はこれが南仏で一番好きな時間だった。

 仲間と寄り添うようにして咲くラベンダーはのどかで楽しそうだった。夕方の風に揺れる花を見ながら、この中の一本になってずっとここで暮らせたらどれだけ幸せだろうと思った。やはり頭の中は療養中の老人だったかも知れない。


 だけど実際のところ、せっかちな自分がこんなにゆっくりした時間を過ごせるとは思っていなかった。飽きもせず花を眺められるとも思っていなかった。


 そんなにバカンスが大事か、と思っていたけど、今なら分かる。

 それは日常生活の中でいつの間にか歪んだり、気づかずに壊れているところをゆっくりと直す、メンテナンスの時間だ。ただ本を読み、花を眺め、緑の空気を吸い込む。自然と向き合いながら、自分の内面とも向き合う。山野草に己の小ささを思い知る。ミツバチとラベンダーに生命力を教えられる。

 この二週間は、僕にとって贅沢で貴重なメンテナンスの時間だった。


 南仏にはパリにはない豊かさが溢れていた。豊かな人。豊かな食。豊かな自然。ここでは色んなものが僕が想像していたよりもずっと豊かだった。 


 帰りの車中、後ろ髪を引かれる思いで窓の外を流れる乾いた山々を眺めながら、僕は、またいつかここへ来たい、と思っていた。



(南仏記・おしまい)




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る