ねずみ
昨晩納屋に置いた仕掛けに、ねずみが掛かった。小さな鉄籠の奥に人参を置いて、それに触れると鉄籠の扉が閉まる。それだけの簡単な罠だったけれど、今朝、それこそ簡単にねずみが掛かったわけである。
茶色いハツカネズミだった。片手に収まってしまうほどの大きさで、子ネズミかしらとも思った。わたしが籠を持ち上げると、籠の隅に寄って、ねずみはわたしを怯えた目で見つめていた。鳴くこともしなかった。
こうしてまじまじと見つめてみると、ペットショップに並ぶ愛玩動物となんら変わりないように思えてくる。短い体毛は寒さのためか立ち上がっており、意外にも清潔感を感じさせるそれは触らずともふわふわとした感触を思い描くことができる。見開かれた目は黒々と濡れ、じっとこちらを見つめる視線には愛嬌すら感じる。小さく、そして早く繰り返される呼吸には仄かな温みを宿していた。
細かな産毛ばかりで地肌がむき出しのひょろ長い尻尾には、確かにケダモノの醜さを覚えはしたが、それも見ているうちにかわいらしく思えてくるものだ。僅かに籠を揺らすと、ねずみはきゅっと身を縮めた。鼻先をひくひくと動かして、懸命にこちらを窺っている様子である。
「ばあちゃん、これどうすんの」
畑仕事に向かおうとしていた祖母へ、籠を掲げる。
「水に沈めちゃうの?」
前に同じように捕まったねずみはそうしたのだと、祖母は言っていた。
訊けば、祖母は片手を振って言う。
「そんな面倒なことしないよ。水掛けとけば凍え死ぬでしょ」
「なるほど」
霜が降りるほどに冷え込んだ冬の朝である。体毛を濡らして寒風にさらせばすぐにでも体温を奪われるだろう。
この、小さな命は、もうすぐ失われる。微かな感傷が胸に渦巻いたが、それも一瞬のことだった。いくらかわいくとも、ねずみはねずみ。納屋の野菜を食い荒らすケダモノに過ぎない。見つめれば見つめるほど愛嬌のある動物だと思われたが、それを殺してしまうことに、なんら罪悪感は覚えなかった。
ねずみをかわいく思うことと、殺してしまうこと。それらがわたしの中で違和感なく連続している。わたしは残酷な人間なのだろうか。愛玩動物とさしたる違いはないからと、飼育するという発想に至らないわたしは間違っているのだろうか。そんなことはあるまい。だってねずみは人間に害なす動物だ。こいつも納屋でたくさんの野菜にかじりついたことだろう。このねずみを殺すことは、間違っていない。
わたしは籠をその場に置いて、家に上がった。わたしが何をしなくとも、祖母が仕事の合間にホースで水を掛けるだろう。
お昼前、仕事から上がってきた祖母に尋ねた。
「ねえ、朝のねずみ、どうなった?」
「さあ。水は掛けといたから、死んでるんじゃないの」
気にも掛けていない口ぶりで言いながら、祖母は台所に立って手を洗う。
わたしは興味が湧いて外に出た。籠は同じ場所に置かれていた。地面はまだ濡れた跡が残っていた。
籠の中には、ずぶ濡れで横たわるねずみがいた。毛が湿って寝ていたから、さらにひとまわり小さくなってしまったように見える。こちらに向けられたお腹も、半開きの口も、ぴくりとも動かない。呼吸をしていない。目は変わらず見開かれたままで、それでいて何も見えていないと分かる。
ねずみはあっさりと死んだ。水を掛けられて、風を防ぐものもなくて、どんな気持ちで死んだのだろうか。痛いほどの冷たさに身を切られ苦しんだのか。わけも分からないまま動けなくなったのか。それとも動物というものは、死に対してそれほど気持ちを揺り動かしたりはしないものなのだろうか。
ほんの少しだけ、かわいそうに、と思った。溺れ死ぬよりはマシだったかも知れない、とも思った。
わたしは籠を持ち上げて、畑に向かった。畑の一角に、野菜クズなどを捨てて燃やすための穴が掘ってあったから、そこまで籠を持って行った。
穴の端で籠を開け、ひっくり返して、わたしはねずみの死骸を穴に捨てた。
そこになんの感慨もありはしなかった。
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