ラルビカイト
宮内多聞
第1話 瘡蓋
浴槽の縁に瘡蓋がこびり付いている。
女はそれを丁寧に剥がすとタオルで包み優しく水気を取った。浴槽の水を抜くと水面だった部分にだけうっすらと垢のような物が残る。それを綺麗にした後で、タオルを自室へと持ち帰り、窓際の小さな机の上にそっと置いた。
かつて屋敷の主人は綿花の輸入商をしており、屋敷の門構えを見るに中々に羽振りが良い様子であった。
しかし1914年、第一次世界大戦に伴う欧州諸国との貿易航路断絶を皮切りに事業の雲行きは怪しくなっていった。
金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、周りの者たちは蜘蛛の子を散らすように、どこかしこへと離れていってしまった。人も去り、金も失い、男に残ったものと言えばこの仰々しい屋敷と女中が一人。これだけであった。
しかし、それでも直向きに働く男のことを女は慕っていた。
女がこの屋敷にやって来てからもう五度目の夏。
男は女中にとても良くしてやっていた。事あるごとに不自由はないかと聞き、女中の部屋があまりにも殺風景だと銘仙柄のカーテンを付けてくれた。
少し開けられた窓からはクビキリギスのジイジイという鳴き声と夜の湿気を含んだつめたい風が入ってきている。
女はタオルを丁寧に開いて瘡蓋をそっと摘んだ。
血液と体液が混ざり合い凝固したそれは水気がなくなる程に人の皮膚とはかけ離れていく。まるで無機物のようにパサパサと薄くなっていくのである。僅かでも力を間違えたらすぐにくしゃりと壊れてしまいそうで。
世界で唯一、特別な儚さを担保されている思春期の少女のような感覚を覚えた。
月に透かして見ると焦茶色の中に所々鮮やかな朱色を称えている部分もある。その朱い点々は様々な鉱物が混ざり合って生まれる混合鉱石特有の斑点模様にそっくりだった。
ラルビカイトは誰にも見向きもされず宝石として扱われる事はない。
ただ、それは紛れも無い結晶であった。
あの人だった物
あの人は自分の…
女は乾いた結晶をそっと舌に乗せるとゆっくりと奥歯まで運びきゅっと噛んでからコクリと呑み込んだ。
月明かりに照らされた真白のタオルには
薄っすらと血の跡が残っていた。
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