第三節~月神召喚~

 ヴァデルは、本堂の床を軋ませながら一歩一歩巫女にせまる。

「月宮の巫女よ、さすがにもう立てぬか?」

「………」

 呼びかけられた入里夜だが、彼女は答えない。

「……ん? なんだ、気を失ったのか。意外と最後はあっけないものだな。まあよい、すぐに煮込んで喰ってやる」

 ヴァデルは相手が気を失ったと確信したようで、ゆっくりと歩みを進めた。

 だがこれは入里夜の作戦だった。彼女が飛ばされた先……ちょうど手を伸ばしたところに儀式用の祭壇がある。入里夜は気絶したふりをして召喚儀式をしようと思い立ったのだ。

(よし、気付かれてない! い、今のうちに) 

 入里夜は口に付いていた血を指に付け、それを祭壇の魔方陣に押し付けた。俗に言う血判というものだ。

 彼女は悟られないように動いたが、まさか血判承認で魔方陣が青白く輝くとは。血判を押した魔方陣が光り、本堂の床と天井に三日月が描かれた魔方陣が現れる。

 入里夜はびくっとしながらも気絶のふりを続けようとしたが、ヴァデルはさすがに見破った。

「な、なんだあれは! いや……巫女、きさま俺の目をたばかったのか!」

「きゃああっ! ごめんなさい!」

 入里夜は大急ぎで体を起こし、祭壇に手を合わせて目を閉じた。敵が迫ってくるなかでのこの行為は、はたから見ればおかしいだろう。

 ヴァデルも戦斧を握る右手に力をこめ、舐めるな! と叫びかけたが、それより先に魔方陣がすさまじい光を放った。

「ぬ……ぬうう! こ、この光は!」

 ヴァデルはその現象にやや怯んだ。魔方陣が放つ光は神性そのものだった。そこに、すさまじい神の気配を感じられる。

 いっぽうの入里夜は、魔方陣の反応をみて硬い表情をいくらかほぐした。

「よ、よしっ! たしか月宮の巫女ということを血判で証明したら、あとは強く祈ったら良かったはず!」

 これが先日学校で学んだもので、この召喚術を「月宮式・月光神招術げっこうしんしょうじゅつ」と言う。

「月読さま! いま月の世界は危機にあります。どうかお力をお貸しください……術式発動!」

 入里夜の強い思いは、すぐに神をこの地へ引き寄せた。天井と床の魔方陣が青白く輝き、天井が抜け落ちて一筋の月光が本堂に差す。

 それを見てあわてたのはむろんヴァデルだ。

「き、きさまっ、なにをした! ……まさかっ」

 ヴァデルは阿呆あほうではなく、その答えをすでに自らの手で見つけていた。この光、そしてこの気配! 忌まわしい相手ゆえによく分かる。

「おのれ! きさまを呼び寄せる気か⁉ ええい、そうはさせぬ!」

 最悪の結果を阻止するべく、彼は強く踏みこんで巫女に迫った。それはヴァデルの最速といえる一撃で、入里夜に回避する時間はない。

「いやあ~っ! 月読さま~っ!」

「やはりか! おのれ~っ、ならばその前にきさまを殺す!」

 ヴァデルが加速し、入里夜が悲鳴を発して身をかがめたとき、床の魔方陣がより強く輝き、同色の稲妻が発生した。

「ぬわああああ! なんだこれは!」

 ヴァデルの動きが急停止する。闇になれた眼がくらみ、彼は大きくよろけた。入里夜は明確な神の気配を感じて、思わず声を弾ませる。

「ああっ、月読さまあ!」


 ――そして。


 巫女の叫びに呼応するようにして、ついに神が現れた。床の魔方陣に三日月の紋章が浮き上がり、そこからゆっくりと一人の男性が姿を現す。

 彼の登場で本堂に突風が吹きわたり、祭壇のろうそくに火が灯った。月読の登場を表す神のろうそくである。

「……われは月の神、ツクヨミ。われをこの地に呼びし者はそなたか」

「あ、あなたが、つくよみ……さま?」

「いかにも。我が身はこの美しき月界を守護する月神、ツクヨミに相違ないが、そなたは……うむ、その髪型と碧き瞳……月宮の巫女であるか。やはりわが妻に似ておるな」

 そう言った男性は、輝くような天色あまいろの美しい長髪を持ち、不思議な光を瞳に宿した美青年だった。

 入里夜はしばらくのあいだ体の痛みも忘れ、魔方陣の上に立つ神に目を奪われて動けない。さりげなく、実母の父に見とれる少女。

「………」 

 しかし困ったことに、その姿を見れば見るほどますます見とれてしまう。彼は妖しいほどに美しいまさに月のような存在だった。


 巫女に迫っていた死の危機は、こうして神の登場によって過ぎさった。入里夜にしてみれば、明けぬ常夜に朝日が差したような思いだが、それはヴァデルから見れば、何とも気味の悪い展開だ。

「き、きさまは……やはり、やはり月読か!」

 ヴァデルは、かつて自分を叩きのめした憎らしい相手を睨みつけた。いっぽうの月読は、相変わらず神々しく落ち着いた雰囲気を崩さない。

「先から何度もそう言っておるであろう。……ん? なんと、おぬしはいつぞやの赤鬼か? 確かに封印したのだがな」

 それを聞いてヴァデルは激しく歯ぎしりした。

 彼は月読と月麗山の覇権を争ったとき、神の力をまえに大敗し、山の奥深くの洞窟に封印されていたのだ。

「きさまにかけられた封印を破るのは苦労したわ! わが使い魔がいなければ危うかったものよ。そのうえ復讐の邪魔までするのか!」

 ヴァデルが入里夜を指すと、月読は自身を呼びよせた巫女の存在を思い出したようだ。

「おお、そうであった。巫女おぬしの存在を忘れていたぞ」

「きさま、俺を無視する気か!」

 憤怒する赤鬼は無視して、月読が入里夜に目をやると、少女は血だらけの腹部を押さえながら口を開いた。

「月読さま、いま月界が大変なんです。どうかお力を貸してください!」

「うむ、われも月界こちらへ現界したとき異変は感じた。まずは現状を話してみよ」

「は、はい」

 入里夜はこれまでの経緯を詳しく話した。


 彼女がひと通り話すと、月読は態度を崩すことなくうなずいてみせる。

「成程、おおよその理解はできた。大魔界とあればわれも力を貸すべきだ。ではそこの赤いを黙らせ、早急に異界の門へ向かうとしよう」

 月読の言葉により、ヴァデルが怒りで目を吊り上げた。

「き、きさまっ! この俺をでかぶつだと、無礼な神めが!」

 ヴァデルには答えず、月読はふたたび入里夜に目を向ける。

「入里夜、おぬしは怪我をしているようだな。しばしそこで休むと良い。すぐに終わらせる……」

 月読は言い終わらぬうちに神剣を抜き放っている。

「ぐぬう……っ!」

 ヴァデルがうめき声をあげた。月読はすさまじい速さで神剣を振り下ろした。しかしヴァデルは相手との体格差から、余裕を持って受け切れると思っていたのだ。

 しかし月読の一撃は、想像を絶するものだった。ヴァデルは強烈な神の一撃を戦斧で何とか受け止めるが、実に重い一撃だ。

「ふっ、しかし使い魔の力を借りたとはいえわが封印を破り復活するとは。そこはその力を褒めてやってもよい」

「な、なにを偉そうに!」

 ヴァデルが口を歪ませて怒鳴ったが、次に放たれた神の一撃で彼は一歩後退する。

「……入里夜に手傷を負わせしはきさまだな。われら神に仕えし者への攻撃は、われらへの反逆と同じこと。許すわけにはいかぬ」

 月読はすさまじい剣術でヴァデルを追い詰めた。その瞳には、巫女を傷つけた者への怒りが揺らいでいる。

「………」

 戦闘のあいだ入里夜は、祭壇に隠れてそのようすを見守った。神を名乗るだけあり、月読の戦闘力は彼女がこれまで見てきた誰とも比べようのない強さだ。

「ぐはっ、な、なん……だと!?」

 憤怒と狼狽の声を上げたのはヴァデルだった。彼のたくましい腕は太さで月読の二倍以上も上回る。

 しかし月読は、脳天を狙って振り下ろされた戦斧の一撃をその細腕から繰り出す神剣の一振りでいとも簡単に跳ねのけた。さらにその一撃で鬼の戦斧を粉々に粉砕し、それでもなお余った勢いで鬼を本堂から外へ吹き飛ばしてみせたのだ。

 ヴァデルはよろめきながら巨体を起こす。

「お……おのれえ!」

 月読はヴァデルを追って本堂を飛び出し屋根に上がった。彼の後ろに輝く満月の光が月読の髪を妖しく、また美しく煌かせた。

「分かったか、これが我ときさまの実力差というもの。ここで止めを刺しておきたいところだが、いまは大魔界のほうが脅威だ。きさまにはわが神社でしばし待っていてもう」

「黙れえええ!」

 武器を砕かれ、これほどの実力差を見せつけられてもヴァデルは諦められない。以前大敗した相手に再び敗れる。それは彼にとって言い知れぬ屈辱だった。

 ヴァデルはうなり声をあげ、その跳躍力で神社上空にいる月読に襲いかかる。金色の禍々しい鬼の爪が月光に煌き、月麗山に凄まじい怒声が響いた。

「ふっ……神に歯向かう愚か者めが!」

 月読の豪語とともに彼の腕が勢いよく振り下ろされ、その手に握られた神剣が月光を反射した。飛び上がってきたヴァデルは、神剣の一振りではじき返されたのだ。

 ヴァデルはうめき声をあげながら神社の参道へ激突し、すさまじい土煙をあげた。その衝撃は強く、参道はぼろぼろに砕け鬼の巨体は地にめり込んでいる。

「ぐ、うう……きさま」

 入里夜は体の痛みも忘れ、こわごわと本堂の中からその様子を眺めた。

「す、すごい……これが神様の力なの」

 月読の長麗な髪が夜風に揺らめく。


 巫女が神の恐るべき力に驚嘆しているあいだに月読が動いた。宣言どおりヴァデルをしばらくこの神社に封印しておくようだ。

「出でよ! 神の封印、神雷牢獄じんらいろうごく!」

 月読が右手を上げると、ヴァデルの真上に神の魔方陣が浮き上がり、巨大な立方体の檻が現れた。

「な、こ、これはまさか!」

「ふっ、もう遅いわ!」

 現れたそれは檻だと分かったヴァデルは、何とかそれを回避しようと試みたが、月読の力はそれをいっさい許さない。

 ヴァデルの真上に現れた神の檻は、一瞬のうちに落下して赤鬼を捕らえた。

「きさまあ! よくもこの俺に侮辱を! ええいここから出せ! 叩き殺してやる」

 あまりの怒りにヴァデルは両眼を光らせ、口からは煙を上げた。

「なんと……野蛮なる鬼だな」

「ええい、だまれ!」

 ヴァデルは怒りに顔をゆがませて檻をしたたかに殴りつけた。それが原因で、さらに痛い目に遭ったのは彼自身だ。拳が檻に触れた瞬間、鬼の巨体を強烈な神の電撃が襲う。

「ぬわあああっ!」

 それを見ていた月読は、あたかも忘れていたかのようにわざとらしく答えた。

「うむ、言うのを忘れていたがその檻に触れると神雷に襲われる。ゆえに動かぬことだな」

「きさま~っ! おのれ……おのれ、おのれ! 許さぬ、断じて許さぬぞ! 早くここから出せ!」

 ヴァデルの苦憎に満ちた声が月読神社に響いた。

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