第11話 対話の準備
◇
厨房へ戻った私は手を洗った後、早速夕食を作る。とにかく胃に負担をかけずにいたいのでまたスープになる。
流石に似たような食事が続くと良くないので、トマトと野菜のスープにする。朝方焼いたパンにジャムと紅茶にスープを合わせて極力バランスの良い献立を考えた。本当はパンのグルテンは余り胃腸に良くないのだが、炭水化物が必要だった。厨房を探しても芋や米は無かったからだ。
「さて、始めるか」
私は袖を捲り上げ、二の腕あたりで固定する。気合を入れる為のルーティンであった。
出汁は鶏がらの澄んだスープで鶏肉を1口大に切った物と、トマトとセロリと玉ねぎのみじん切りを柔らかくなるまで煮込む。1時間もせずにスープは出来上がった。私が調理している間に厨房に人が入ってこなかったので自身の食事を作る。食中毒の辛さは鳴りを潜め食中毒特有の胃の炎症も収まっていた。ティベリスの食事に合わせてまとめて作っていたが、私には塩味が足りない。スポーツドリンク擬きでも塩分を使用している為、スープは如何しても塩味を薄くしなければならないが食事の満足度は下がっていたのだ。
私はパン生地を捏ね始めた。以前に焼き上げたパン生地とは違い植物油も練り込む。パンのベンチタイム中にトマトと玉ねぎのみじん切りに先日私が買ったマギを使ってソースを作る。仕上げに乾燥したバジルと塩コショウでトマトソースの完成。別の鍋でカッテージチーズを作りチーズの塊を親指の先程の大きさに千切る。ベンチタイムの終わった生地を円状に薄く延ばすのに延べ棒を探したが、延べ棒が無かったのでピザ回しで生地を伸ばした。発酵は過不足なかったようで正しく伸びた。発酵が不十分だとピザ回しでは伸びにくく過分だと生地が破れるのだ。
私がピザ回しをしている最中にメアリ嬢が厨房へ入って来た。メアリ嬢は厨房の前で一瞬立ち止まり驚いた様子であった。
「ヒロシ様は何をなさっているのでしょうか?」
「ああ、私の病気が治ったので食生活を基本的なものに戻そうかと思ってね。簡単な食事を作っている」
「えっ。ご病気がおありだったのですか」
「ああ、ティベリスと同じ病気だった。彼に比べて若い事と適切な治療で比較的早期に良くなったんだ」
「それって、病気を抱えながらティベリス様の看病をしていたという事ですよね?」
ああ、そうだ。と言いながら2枚目を回す。女中組との夕食のピザである。女中2人は別館の調理場で提供される食事があるようだったが、ここで調理された食事も摂っている様だった。
ピザの具材はトマトソースをベースに鶏肉とチーズのものが1枚。トマトベースとチーズに香草のものを作った。香草はバジルのようなもので植物の新芽のように柔らかく瑞々しい香りがしていた。
「君たちが手伝ってくれたから私の負担は少なかった。だから感謝しているよメアリ嬢」
伸ばし終わったピザ生地に具材を載せていく。スープを作った時の残り火に薪をくべて火を大きくした後、鉄板を上に敷いた。鉄板にそのまま生地を載せると接着してしまう為、植物油を鉄板に馴染ませる。普通は窯で強い火力で焼くことでサクサクと歯ごたえ良く仕上げたいが熱の籠る石窯は無い。強火で予熱した鉄板の上に具材を載せたピザを置き、上に乗せた具材に火を入れる為に半球形状の保温器具であるクロッシュで覆う。焼き上がりは15分前後だ。
「所で、ギボンは何処かな。君たちは2人で動いていると思っていたのだが」
ティベリスの食事の前に揃って試食をするのが仕事の一つであったように思っていたが。
メアリ嬢は明らかに目線を反らして言った。
「えぇ、ちょっと。えっと、今日はギボンは試食に来ないかもしれません」
「そうか。では後で食事を持って行ってあげてくれ。私が少女の部屋を訪ねる訳にはいかないだろうからね」
何かがあったのだろう。体調不良であるなら即答できる質問であった事から、恐らく部外者の耳に入れると厄介になる何かがあったに違いない。気にならないと言えば嘘になるが、厄介事だった場合の対処は出来ないだろうから不必要に聞き出す事はしない。
「そうします。ありがとうございます」
メアリ嬢は丁寧なお辞儀をすると私の横に寄って来た。私は相槌を打ちピザの焼き上がりを確認する。クロッシュを開けると生地の上のソースと具材はぐつぐつと煮えたぎりチーズが柔らかく溶けていた。ピザ回しで作った生地の端部はパンの様に膨らみ具材の乗っている部分の底は端部よりも薄い為サクサクと香ばしい。本来の高火力短時間で仕上げる窯の仕上がりよりも具材の瑞々しさに劣るが家庭で作る拘らないピザである事を考えれば、そこそこの出来栄えであった。1枚目のピザをまな板に取り出しナイフで8等分にした後乾燥したバジルを振りかけた。
「よし、1枚目が出来た。メアリ嬢、皿を」
はい、という言葉と共にメアリ嬢から木皿を受け取る。ティベリスとの食事で提供された皿は陶器製だったが、使用人が使う食器は基本的に木製のものが多い。例外は紅茶を飲むためのティーセット類と砂糖を入れる容器くらいであった。
私はメアリ嬢から受け取った皿に1欠けのピザを乗せると手渡した。
「こう食べるんだ」
私は扇状になったピザの端部を持ち、縦に折った後に頂点を齧る。トマトベースのソースの酸味と円やかなチーズの旨味を乾燥バジルの香りが引き立てる。個人的には良く出来たと思う。
「食事を手で食べるのは新鮮ですね」
メアリ嬢が私の真似をしてピザを齧る。おいしいと言って笑顔を見せてくれるのは料理人にとっては喜ばしい事であろう。
メアリ嬢の言葉はある程度予想が付いていた。ティベリスとの食事である程度察していたが貴族の間ではフォーク等の食器を使わないのは下品という事なのだろう。貴族は手で食べるのはパン位で正式な場ではリンゴや梨でさえもナイフとフォークで食すると言う。
テーブルマナーが浸透しているある種の弊害ではあった。他国の文化を取り入れてきたからこそ、この国の貴族は『自国の文化』を重要視しているのであろう事は直ぐに解る。
「ああ、どちらかと言うと平民の食事だからね。食事と言うよりもパンを食べていると考えれば良いだろう」
メアリ嬢も女中の間にテーブルマナーを覚え、淑女としての仕草を勉強しているからこそ、この食べ方には抵抗感があるのだろうか。
「淑女として食べるには良くない食事だったかな?」
貴族であるのに礼節を弁えないというのは周囲の貴族から良くない感情を買う事もある。今までの食事はスープを主とした物で食器を使っていたので気にならなかったが、手で食べると云う行為は貴族と平民間の差別意識があった場合にはとても面倒である。
「いいえ、パンをスープに浸して食べたり、上に主菜を乗せて食べるのは紳士淑女でもマナー違反ではありませんよ。皿にこの様な形で乗せられているのであれば違和感は無いです」
多種族国家なので。と言う言葉が言外に聞こえる。様々な種族を合併する上である程度の異文化を受け入れる下地は出来上がっているのであろう。恐らくそれが貴族の『器』なのだ。
寛容的で余裕を見せる事が貴族の『マナー』なのかもしれない。
「そうか、ティベリスにも後で作ろうかな」
私の目的は豊かな生活である。豊さとは精神的にも肉体的にも保全されている状態であると確信しているので私に必要なのは『人間関係』と『金銭』である。どちらか1つでもかけては理想とは成らないだろう。
根無し草である私に対して寛容的な態度を取ってくれているティベリス対して高い技術力を見せつけてきたのは今後の金・貨・を稼ぐ為に他ならない。ティベリス自身も『利用されている』という事には気付いているだろう。では何故私との交流を絶たないのか。言うまでも無いが今後の利益を考えてである。貴族が旅人を庇護下に入れようとするなどあり得ないが、そこに多大な利益が付いてくるのであれば別の話になる。知識は力であるとこの国の貴族は良く理解している事が確定的になったのはティベリスと言う貴族が城下町で演説を打っていたからである。ティベリスに話しかけられるのは予想外で在ったが、『打算込みの友人関係』に持って行けたのは私の行動力が幸いしたという事だ。実際に私がティベリスに治療を行ってから彼の庇護下に入るように言われたのだから私の予想は外れていないだろう。
「よろしければユーリ様にも食べて頂きたいですね。甘いもの以外は小食でありますので」
これは彼女なりの優しさなのだろうか。
「それは治療が終わって万全になったティベリスに食べさせてからかな。私が許可されているのはティベリスの治療に関する事だけだからね」
後々責任問題になりそうな事はティベリスの許可がいるだろう。今回の食中毒で料理人への処罰が解らない。処罰への程度が知れなければ食中毒が起こり難い食事しか提供できない訳だ。
加えて、ユーリ自身がこの館で発言力が有る訳ではない。ユーリ以外の好感度を上げるために彼女に対して優しくする事は利益になるが、不用意な事をして彼女に何かがあった場合は私自身の立場を危うくする。
不必要なリスクを冒さないのは処世術の基本であった。
「そうですか・・。ティベリス様は許可なさると思いますが」
言外に急かされているのは解る。が、ここで折れる意味はない。
「私としても残念ではあるが、館の主を抜いて食事は提供出来ないからね」
私が折れないと解るとメアリ嬢は頷き、素直に引いた様子であった。
言外の要求からは彼女自身の教養の高さを感じる事が出来た。同時に性格が少し頑固であるようにも見える。大人しい見た目であるが無い面も外見と同じとは限らない。私自身知らぬ内に、メアリ嬢についての印象が外見からによるものになってしまっていた。
時間をかけて縁を築いていた訳では無いので無意識の内に印象が変わってしまっていたのだった。
「まあ、近々ユーリ嬢にも振舞えるさ。ティベリスとはお喋りの約束もしているしな」
私は片手に持ったピザを齧る。マギの唐辛子のような辛さが微かに舌を刺激した。
2枚目のピザも焼き上がり、切り分けた所でギボンが厨房に入って来た。メアリ嬢から今日は来ないかも
と聞いていたが存外に早く用事が終わったのであろう。ギボンを注視すると女中専用の作業着のような服の襟元から赤く色付いた首が見えた。白いカフスが汚れていないことから雑務の中でも汚れない仕事であった事が解る。首が赤くなるのは運動などをして興奮状態にあった為だと思うのだがそれにしては汚れが無さすぎる。
「ごめんなさい。少し遅れてしまいましたね」
ギボンが頭を下げ、謝罪をしてきた。彼女の仕事に関しては言及はしない事にしているので私は気にしなくていいよ、と片手を上げ切り分けた2枚目のピザを新しい皿に乗せる。
「丁度、焼き上がったところだ。試してみると良い」
ギボンに皿を手渡すと、私は自分のピザを齧る。メアリ嬢に見せたのと同じようにギボンにも見せた。焼きたてのピザ生地の甘く香ばしい匂いがふわりと香る。
「トラヤヌス様が館に戻られましたのでティベリス様との面会後に着付けを行います。メアリ、貴女も来なさい」
ギボンがメアリ嬢に指示をする。館に三代が住んでいるという事は聞いていたので、恐らくティベリスの容態を心配し戻って来た息子か娘であろう事を察した。そして、自身の立ち位置を再確認する。言うまでも無いがティベリスが寛大に接しているのは私に利用価値があり、尚且つある程度の信頼を勝ち取ったという事であるがその子供はどのように考えるのかは判らない。顔から人物の性格を判断する人相学はある程度使用しているが、単一の使用には耐えないのだ。
人間の第一印象で7割以上が決定する。面接での基本だが正しく使える人間は少ない。
これは相手の性格に合わせて自分が最もよく見えるように振舞うという難易度の高いものだ。人間の知性を最上とするティベリスの性格に私の行動が存外に良い方向に当てはまったのは偶然的な事であった。
成長の過程でティベリスの影響をある程度受けている筈だが、真面目な親から真面目な子供が生まれるとは限らない。所謂、客先との対話は探り合いだ。私のような地位のない人間が金を稼ごうとしている人間に問っては特に。つまりこれはティベリスと同じ地位にいる人間との初めての探り合いになる可能性があった。
相手に自分を如何によく見せるか。社会に出ていた頃の懐かしい思い出が蘇る。
人間関係は社会に居座る限りいつでも付き纏うものだ。特に建造物に対して高い技術力を持つアクィタニア帝国は通りや城壁、水道橋に至るまでアクィタニア帝国人の実利精神を思わせる建造物が多い。広場での大道芸の一種と思われる『演説』はアクィタニア帝国の領土拡張と共に広がった気宇きうから成るという事はティベリスとの会話やメアリ嬢との会話の中からも感じ取る事は容易であったし、つまりは『あらゆるものは精神である』と言う、実利的なアクィタニア帝国人の精神が垣間見えるものであった。
ティベリスが私を傘下に入れた理由には、異邦人であれども長所があればこれを活用する事が賢いと云う考えからであろう。
国の醸成に必要な知識をあらゆる所から取り入れようとするその気質は時代を経る毎に失われていった人類の数少ない良い点であろう。
「一応聞いておくが私がその方に会う機会は無いと思って良いか?」
まぁ、つまり気になる所は之である。
ギボンはため息と共に言葉を吐き出した。
「恐らくティベリス様を通じて紹介されると思いますよ。ティベリス様の実質的な後継者ですからね」
当たり前でしょう。と呆れられたのだろう。
「・・・解った。準備しておく。浴槽を借りるぞ」
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