8.ループ×リープ

 パタリ───まるで読みかけの本を閉じる時みたいな静かな音を立てて、リンドウは倒れた。

 そしてそのまま、全く動かなくなってしまった。


 僕とユヅキは数秒間硬直した後、お互い顔を見合わせて、再び硬直した。



「…………外した? ちょっと暗くてよく確認できないわ」


 先ほどまで僕たちが歩いていた廊下。その暗がりの向こうから、聞き覚えのある声がした。ひどくつまらなそうな声色。

 それは、見えずとも姿形をはっきりと想像できる、あの天使風少女のもの。


「ミナト」


「……」


「ちょっと!」


「あ……悪い」


「逃げよう!」


「ああ」


 ユヅキに強く声を掛けられ、僕は我に返る。そうだ、理解が追いつくのを待っている暇はない。できることはただ一つ。逃げることだ。

 僕とユヅキは、リンドウが開けた鉄扉の向こうへと走り出した。


 鉄扉の先には、左右に伸びる廊下。

 少し天井が高くなり道幅も広くなってはいるが、しかし相変わらず果てしなく長い。


「どっちに進む!?」


 右か左か。どちらに進めばいいのか。

 導いてくれるはずだったリンドウは、僕たちの足元で動かなくなってしまっている。


「こっちだ!」


 僕は直感で右を選び、ユヅキの手を引いて走り出した。

 まずい、早く逃げなければ。それだけが思考を埋め尽くす。


 しかしいつまで走っても、続くのは直線の廊下のみだった。別の部屋に続く扉も、身を隠せる遮蔽物も何もない。

 まずい、追いつかれるわけにはいかない。

 追いつかれるだけじゃなく、あの天使風少女と直線上に位置したらおしまいだ。

 さもなければ僕たちは、リンドウと同じように、あの杭の餌食になる。



 ヒュン。

 空気を切り裂く音がした。


「うッ……!」


 横を走るユヅキが頰を抑えた。後方から、あの音速の杭が撃たれたのだ。それが掠めたのだろう。

 あの天使風少女、もう鉄扉のこちら側にやってきたのか。


 頰を抑えるユヅキの指の隙間からは血が垂れていた。例によって、それは淡い紫色をしていたが、今はそれに頓着している暇はない。


「大丈夫かユヅキ!」


「へ、平気!」


 落ちてしまったスピードを取り戻しながら、ユヅキは頷いた。



 ヒュン。



「ぐぁ……ッ!」


 ユヅキは途端に体勢を崩し、全力疾走する勢いそのまま床に転がった。

 続けざまに撃たれた杭は、今度はユヅキの右肩に命中していた。傷は浅いものの、流れ出す血が制服をじっとり染める様は痛々しい。


「ユヅキ!」


「ごめん大丈夫。びっくりしただけ」


 ユヅキは素早く起き上がると、再び走り出す。


 ヒュン。

 間髪をいれず、続いての杭。それは、今度はユヅキの髪を裂いた。髪の束がひらりと舞い、流れるように落ちていく。

 ……あいつ、ユヅキを狙っているのか?


「ユヅキ、前を走ってくれ」


「でも」


「いいから」


 僕は少し減速して、ユヅキの後ろについた。

 盾になろうなどと、明確な意識があったわけではない。切迫した状況の今、これが最善だと直感しだだけ。


 そうして僕たちは、走り続けた。

 ひたすら走り続けた。



 ……それにしても、いつまで続くんだ、この廊下は。

 終わりが見えない。


「あいつ、まだ追ってきてるのかな!?」


 ユヅキが荒く息を吐きながら後ろを振り返った。

 僕も一瞬だけ後方に目をやる。


 暗い闇だ。相変わらず見通せない。


「わからない。でも……攻撃は止んだな」


「みたいだね……」


 そういえば先ほどユヅキの髪を掠めた一発を最後に、次の杭は未だ撃たれていない。


「撒いたのか……?」


「……まさか」


 僕たちは半信半疑ながらも、ゆっくりと速度を落としていった。

 撒いたことを確信できたわけではなかったが、そもそもお互い、体力が限界だった。


 走るのは中断し、早歩きに切り替える。

 後方の気配に全神経を集中させて、なるべく距離を稼ぐ。

 本当に撒くことに成功したのだとしても、油断は禁物だ。


「………」


「………」


 やがて、僕たちの乱れていた息が整った。

 やっぱり、杭はもう撃ち込まれない。


「……助かった、の?」


「どうなんだろうな」


「……」


「そうだユヅキ、傷は?」


 僕はユヅキの右肩を見た。そこには未だ杭が刺さったままだった。


「大丈夫っぽい。全然痛くないし」


「無理するなよ」


「してないよ。本当に痛くないんだ」


 僕が案じていると、ユヅキは目を瞑ってそれを引き抜いた。


「お、おい。そんな乱暴に引き抜いて大丈夫なのかよ?」


「……。うん、なんともない」


 ユヅキは呆気なく抜けた杭を床に落とす。絨毯が音を吸収してくれたお陰で、金属特有の甲高い音は鳴らなかった。


「本当に私の血……こんな色してるんだ……」


 ユヅキは、自分の手についた淡い紫色を眺めながら言った。

 そうか、ユヅキは自分の血を見るのが初めてなんだ。


「別にミナトを疑ってたわけじゃないけど、実際目の当たりにするとなんか変な感じだね、これ」


「……」


「……魔術ってやつと、何か関係があるのかな」


 ユヅキが呟いた可能性。

 実は僕も、それは考えていた。

 真紅の眼、灰色のナイフ、桜色の扉、黄金色の炎、焦茶色の杭。

 ────淡い紫の血。


 この世界で奇妙なことが起こる時、そこには何かしらの“色”がある。

 まぁ、この世界では奇妙なことしか起こっていないのだが。


 “なぜ”という問いには「魔術があるから」という解を提示することができる、今。ユヅキのこの血ついても、魔術に由来するものであると解釈してしまってもいいのかもしれない。


「そうなのかもな」


「……」


「まぁ、考えていても仕方ないよ。とりあえずは止血だ」


「うん」


 ユヅキは素直に頷いた。

 とりあえず僕の着ていた制服を使うことにした。今はこれしかない。

 ぎゅっと、強く傷口を圧迫する。


「……痛くないか?」


「うん、大丈夫」


「そうか……」


「ありがとう」


 ユヅキが、少し穏やかな笑みを向けてくれた。少し場違いな感覚かもしれないが、僕はそれにちょっとだけ癒された。と同時に、とても安心した。

 よかった。ちゃんと生きていてくれている。


 息をして、たまにこうして微笑んでくれる。

 それだけで僕の心は、あの平穏だった学園生活に帰ることができた。不穏な世界の中でも、あの日々の記憶が、僕の心を支えてくれる───。

 またこの子と、あの生活に戻ることはできるのだろうか。できるといいな。そのためにも生きなきゃいけない。生き続けなきゃいけない。



 それからも僕たちは歩き続けた。終わりの見えない廊下を歩き続けた。


 そして、変化は突然訪れた。


「なんか……落ちてる?」


 ユヅキがそれを見て言った。

 前方の床に何かが転がっている。まだ遠くにあるせいでぼんやりとした輪郭だけしかわからないが、幻覚などではない。

 それは、この全く同じ景色が続く廊下に現れた、初めての変化だった。


 僕たちは歩いてそれに近づいていく。

 ゆっくりと、


 なぜだか重い足取りで、


 呼吸を早くしながら、


 震える手を抑えながら、


 今すぐ引き返したいという感情を無理やり無視しながら、


 そして、そして息をするのも忘れていた僕たちは、それを、はっきりと目に写した。写してしまった。





 遊び終わって放置された人形のように床に転がった、リンドウ。

 近くにあったはずの鉄扉は消えている。





「…………!」


 その瞬間、理解してしまった。

 この廊下が、今どういう状態にあるのかを。

 ────ループ。

 ループしているんだ。

 この廊下は、今、輪のように繋がっている。



 だが、今はそれはどうでもいい。どうだっていい。

 大事なのは、それが何を意味するか。

 ループしているということは、あの天使風少女は、今どこにいる?






 ヒュン。






 僕は、ユヅキの前に出ていた。

 やっぱりこれも、咄嗟の判断だった。

 盾になろうなどと、明確な意識があったわけではない。切迫した状況の今、これが最善だと直感しだだけ。


 ドスッ。

 僕の視界は暗く染まった。


「ミナトぉ!」


 声がした。でも、声しか聞こえなかった。

 ユヅキの声だ。


「あぁっ……なんで、どうして、ちょとぉ……! いやっ! ど、どうすればいいのわたしぃ!」


 耳元で声がした。なにか焦っている様子だ。でもごめん、助けてあげられない。僕、今は身体が動かせないんだ。身体の感覚が消えているんだ。


「ミナト! ねぇ、お願い、なに……どうすればいい、私っ!」


 いつもはクールな雰囲気出しているくせに、焦るとこんな風になるんだよな、ユヅキは。

 でもよかった。声がするってことは、ちゃんと生きていてくれているってことだ。

 そんな悲鳴みたいな声を上げさせてしまったのは、申し訳ないと思っているけど。それでもやっぱり、守れたことは嬉しかった。


 僕は一度、ユヅキを死なせている。

 助けを求めて霧雨の森の中を走った時の、あの最悪な感情は忘れていない。あれに比べれば、今の心地は穏やかであるとすら言えるかもしれない。


「ねぇ! っ……返事してよぉ!」


 ユヅキがいてくれたおかげで、僕の心は正しい形を保つことができていた。

 壊れることなく、歪むことなく、潰れることなく。


「ありが……とう」


 だから、僕は最後にそう言った。

 もしもまたタイムリープが起こるのだとしても、戻るのはユヅキだ。僕はここで終わる。

 せめて、最後に感謝を伝えたかった。


 それだけだった。

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