2.私が死ぬと、僕が戻る

 小さな部屋の中で、僕とユヅキは見つめ合っていた。


「……お、おはよう」


「…………」


 僕が恐る恐る声をかけても、ユヅキはまだ固まったまま。


「どうかしたか?」


「…………」


「えっと…………聞こえてる?」


「…………」


「もしもーし」


「訳わかんない……」


 ユヅキは突然頭を抱えて倒れた。

 柔らかいベッドに、彼女の身体が跳ねる。


「どうなってんの……」


 どうなっているのかは僕にもわからない。ここは一体どこなのだろう。思い出すことができない。

 記憶喪失。

 ひょっとして、ユヅキも僕と同じ状態なのだろうか。


 しかし、


「ミナトが死ぬと、私が戻る……」


 突然、ユヅキがそんな言葉を発した。


「え?」


 聞き返したが、ユヅキは一人で考え事をしているようで返答はもらえなかった。

 知らない場所で目覚めて、ここに至る経緯もわからなくて、唯一知っている人物は意味のわからない発言をしている。


「なにがどうなっているんだ……」


 その時だった。


 ──コンコン。


 小さな部屋に、小さなノックの音が谺した。

 びくっとユヅキが身を竦めた。


「誰だ……?」


「待って」


 僕は立ち上がろうとしたが、その前にユヅキはそれを手で制した。


「どうすればいいんだろ……、窓からは逃げらんないし、扉以外からじゃ外には行けないし、武器になりそうなものもないし……」


 僕に静止を促す手はそのままで、ユヅキはぶつぶつと何かを呟いている。視線が部屋中を忙しなく駆け回り、何かについて賢明に思考している。


 次の瞬間、ユヅキはベッド脇にあったサイドテーブルに飛びついた。小さな引き出しを漁ると、そこにあった万年筆を手に取った。


「──まだ眠っているのかな?」


「……ッ!」


 圧倒的な存在感を放つ声と、声がした扉の方向へユヅキが万年筆を向けるのはほぼ同時だった。彼女は万年筆を、刃物を突きつけるように握っていた。


 僕は扉とユヅキとを交互に見ているだけ。全く状況が掴めない。


「なんでこんなもんしかないの、なんなの、どうすればいいの、意味わかんない」


 万年筆を強く握るユヅキの呼吸がやけに早い。

 扉の向こうには、一体なにがいるというのか。


「開けるね」


 扉の向こうから声がした、と思ったら、


 ざく、ざく、ざくざくざく。


 何度も何度も刃物が扉を貫通して、あっという間にピンポン球程度の小さな穴が空いてしまった。


「見つけた」


 その穴から、真紅の瞳が覗いた。

 僕はゾッとした。恐ろしいくらいに美しい眼だったが、その様子はとても不気味だった。


「すぐそっちに行くから、もう少し待っていて」


「ねぇミナト、ほんとに私だけなの? ほんとに何も覚えてないの? うっすらとでも何か思い出さない? ねぇお願い」


 ユヅキが僕に問う。懇願するように。


 その質問に、僕はやはり答えを出すことができない。だって記憶がないんだから。


「いや……なにも」


「なんでだよもぉ!」


 なぜか怒られた。


 その間にも、刃物が扉を刻み続ける。


 ざく、ざく、ざくざくざく。


 やがて、扉は完全に形をなくしてしまった。


「こんなものかな」


 扉の残骸の向こうに、それをやった一人の女性が立っていた。異様な雰囲気を漂わせていた。

 流石に僕も何もわからない状態とはいえ、この状況が危機的なものであることはわかった。


「ユヅキ、あの人はなんなんだ……!?」


「わかんないよぉう、あぁあ!」


 ユヅキが扉を壊した女性を睨みながら言う。威嚇のつもりか、声を荒げて。

 かなり取り乱している様子だ。


「大丈夫だ」


 意味がないとわかっていながらも、僕はとりあえず、根拠もなくそんな言葉を口にした。そしてユヅキを守れるよう、彼女の前に出てようとして──


「──痛かったら言ってね」


「うぁっ!」


 衝撃。視界が揺らぐ。

 僕は勢いよく床に倒れた。


「なにが……」


 僕は賢明に顔だけを上げる。すぐ側には、さっきまで扉の辺りにいたはずの女性が立っていた。

 まさか、刺されたのか。


「………………!」


 違った。


 その時僕は見た。

 床に蹲り、腹部を抑えるユヅキの姿を。

 ユヅキは僕を庇ったのだ。僕は、彼女に突き飛ばされて床に倒れただけ。


 でもどうして、あんな速度の動きにユヅキが反応できたのだろう。というか、この女、一体なんなんだ。


 いや、そんなことを考えている場合じゃない。今はとにかく、無傷の僕がこの場をどうにかしなければ。

 僕は素早く上体を起こして立ち上がり、ユヅキと謎の女性との間に入った。

 これ以上ユヅキを傷つけさせてはいけない。そう思い、僕は真紅の瞳の女性を強く睨んだ。


「あれ……この血は」


 すると突然、女性がその手に持つ灰色の刃物を落とした。

 僕はまだ何もしていないのに、急にだ。


「……はめられたよ」


 真紅の瞳の女性は、自分の手についた返り血を見て、呆れたように笑っていた。


 ────その血は、淡い紫色をしていた。


「随分とあっけないな。これは私の負けだね」


 女性は穏やかに微笑むと、その場に静かに倒れた。


「……は? なんだ……なんなんだよ」


 訳がわからず、僕は倒れる二人の人物の間で荒く呼吸をする。

 刺されたユヅキと、そのユヅキの返り血を浴びただけで倒れた謎の女性。


「ユヅキ!」


 僕はハッとし、後方で倒れているユヅキに駆け寄った。


「大丈夫か!?」


「うぅぅうぅ……」


 ユヅキはギュッと目を瞑り、蹲りながら腹部を抑えている。そこからは淡い紫色の液体──おそらくは彼女の血が、大量に流れ出ていた。


「きもちわるい……」


「待ってろ、今助けを!」


 僕は咄嗟に走り出した。返り血を浴びた謎の女性の上を飛び越え、彼女がボロボロにした扉から外へ飛び出す。



 外には、霧雨に包まれる森があった。ただただ、静謐な空間が広がっていた。



「誰かぁーーーーっ!」


 僕は精一杯叫んだが、周囲にある大木と濃い霧が声を全て吸収してしまうようで、誰かが駆けつけてくれるとはとても思えなかった。


 だから僕は走った。ひたすら走った。助けを求めて走った。


 誰か。誰か。ユヅキを助けてくれる人を探さなければ。


 景色は変わらない。何本も大きな木が聳え立ち、その隙間を霧雨の白が埋め尽くしている。


 どうすればいいかわからない。どうすれば。どうすれば助かる? 助けられる?


 どうすれば────


 ────、



 ───






 突然、目の前が黒く染まった。

 ただそれも一瞬で、僕は再び正常に世界を視認する。


 暗い色の木でできた小部屋に、ベッドが二台。

 片方のベッドには僕が座っていて、もう片方のベッドにはユヅキがいる。

 そして、ユヅキと僕はなぜか見つめあっていて──。


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「訳わかんない……」


 ユヅキは突然頭を抱えて倒れた。

 柔らかいベッドに、彼女の身体が跳ねる。


「どうなってんの……」


 ユヅキは言う。


「ミナトが死ぬと、私が戻る……」


「……え?」


 それは、先ほども聞いたはずの言葉、先ほども見たはずの光景。


 その時だった。


 ──コンコン。


 小さな部屋に、小さなノックの音が谺した。

 びくっとユヅキが身を竦めた。

 僕も反射的に身構えた。



 来る。あの女が。真紅の瞳と、灰色の刃物を持った女が。



 ───なぜそんなことが僕にわかる?



「どうすればいいんだろう……、窓からは逃げらんないし、扉以外からじゃ外には行けないし、武器になりそうなものもないし……」


 ユヅキはぶつぶつと何かを呟いている。視線が部屋中を忙しなく駆け回り、何かについて賢明に思考している。


 次の瞬間、ユヅキはベッド脇にあったサイドテーブルに飛びついた。小さな引き出しを漁ると、そこにあった万年筆を手に取った。


「──まだ眠っているのかな?」


「……ッ!」


 圧倒的な存在感を放つ声と、声がした扉の方向へユヅキが万年筆を向けるのはほぼ同時だった。彼女は万年筆を、刃物を突きつけるように握っていた。


 僕は扉とユヅキとを交互に見ているだけ。

 これじゃあ前と同じだ。

 ……同じ? ……前ってなんだ?


「なんでこんなもんしかないの、なんなの、どうすればいいの、意味わかんない」


 万年筆を強く握るユヅキの呼吸がやけに早い。僕の呼吸も早くなっていた。


「開けるね」


 扉の向こうから声がした、と思ったら、


 ざく、ざく、ざくざくざく。


 何度も何度も刃物が扉を貫通して、あっという間にピンポン球程度の小さな穴が空いた。


「見つけた」


 その穴から、真紅の瞳が覗いた。

 僕はゾッとした。恐ろしいくらいに美しい眼だったが、その様子はとても不気味だった。


「すぐそっちに行くから、もう少し待っていて」


「ねぇミナト、ほんとに私だけなの? ほんとに何も覚えてないの? うっすらとでも何か思い出さない? ねぇお願い」


 ユヅキが僕に問う。懇願するように。


 その質問に僕は────。



「ユヅキが死ぬと、僕が戻る……」



 小さな呟きと共に確信した。

 僕たちはお互いに見つめあった。


「ミナト……今なんて……」


 その間にも、刃物が扉を刻み続ける。


 ざく、ざく、ざくざくざく。


 やがて、扉は完全に形をなくしてしまった。


「こんなものかな」


 扉の残骸の向こうに、それをやった一人の女性が立っていた。異様な雰囲気を漂わせていた。


「ユヅキ! とりあえず、あの女が危険だって認識は共有できていると思っていいか」


「あったりまえよ! あのクソやば女はマジでイカれてる!」


 ユヅキが扉を壊した女性を睨みながら言う。

 かなり取り乱している様子だ。


「大丈夫だ」


 意味がないとわかっていながらも、僕はとりあえず、根拠もなくそんな言葉を口にした。そしてユヅキを守れるよう、今度は間違えないように、すぐさま彼女をベッドに突き飛ばした。「きゃっ」と小さな悲鳴が上がる。


「──痛かったら言ってね」


「くッ!」


 直後、先ほどまで僕たちが立っていた場所を、高速の斬撃が走り抜けた。僕は寸前のところで真横に飛び、クソやば女の攻撃を回避。


「あれ、避けられた?」


 宙空を刺したクソやば女が、僕らを交互に見た。ユヅキはベッドの上から降り、すかさず距離を取った。


「突き飛ばして悪かったユヅキ」


「う、ううん。ありがと」


 クソやば女が、やけに緩慢な動きでナイフを持ち直した。そして、僕らを優しく睨みつけた。


「今度は外さないよ」


 その瞳で見られただけで身が竦んでしまう。

 不吉な輝きを持つ真紅。


 まずい。この先の展開は知らない。どう対処すればいいのかわからない。考えろ。考えろ。どうすればいい。


「そうだ! ユヅキ!」


「な、なに!?」


「お……お前の血だ!」


「血?」


「ああ。ほんの少しでいいと思うんだ。その……」


「なに!?」


「……」


「なんなの!」


「……いや」


 僕は言い淀んだ。だって、そんなこと、僕が要求していいのか?

 しかし僕のそんな葛藤はユヅキには伝わらない。


「早くして!」


 ユヅキが急かす。当たり前だ。

 この危機的状況を前にしていれば、誰でもそうなる。


「何!」


「血を! ……出せないか」


「………。はぁ!? ちょちょちょ、なな、なに言ってんの!?」


「お前の薄い紫色の血だよ! それがあれば、助かるかもしれない……!」


「はぁっ……?」


 ただでさえ今の状況に困惑しているというのに、そこへ更に僕が意味不明の要求をしたのだ。ユヅキの動転具合も理解できる。


 だが僕は見た。確かに見た。ユヅキに流れる不思議な色の血を浴びて倒れる、このクソやば女の姿を。

 今はユヅキの不思議な血だけが、この狂った状況を打破する鍵であるように思えた。あまりに現実離れしていて、自分でも阿呆らしい考えだと感じるが。


 でも流石に、自ら血を出せという要求は、普通の学生にとってはハードルが高すぎる。僕はやっぱり、言ったことを後悔した。


「む、むりよ。どうやってそんな……」


 ユヅキは呼吸を荒げながら僕に問う。

 僕は答えることができない。


 手に持っているその万年筆で身体のどこかを傷つければ、血は出せるだろう。だが、僕がユヅキにそれを要求していいのか? 痛いのはユヅキだ。ユヅキだけが痛い。


「…………あ、これで……」


 僕が黙ったままでいると、ユヅキは自分が握りしめる万年筆を静かに持ち上げ、恐ろしげに見つめた。

 血を出す方法。

 ユヅキも、僕と同じ考えに至ったのだろう。


 ユヅキはさらに強く万年筆を握りしめた。

 そして、それを自分の腕に振り下ろし──。



 キィィンと甲高い音が鳴り響いたかと思うと、ユヅキが握っていたはずの万年筆が天井に突き刺さった。

 それをやったのは、他でもないクソやば女だった。


「危ない危ない。綺麗な身体に傷がつくところだったよ、少女。自分の身体は大切にしなければね。せっかくこんなに美しいんだから」


 ユヅキの腕を優しく撫でてから、それから、クソやば女は僕を見た。


「ありがとう少年。有益な情報を与えてくれて。おかげで命拾いしたよ」


「…………」


「じゃあ、私は帰ろうかな」


 「逃げるという言い方の方が正しいかもしれないけれど」と、そう言い残して、クソやば女は歩き出した。ゆっくりと、松葉杖をつきながら、怪我人のように痛々しい足取りで、ボロボロの扉から外の霧の中へ消えていった。


 そのスキだらけの弱々しい背中へ攻撃を仕掛けるようなことは、僕もユヅキもしなかった。

 ただただ息を殺して、クソやば女の姿が完全に消えるのを待っていた。


「…………………………」


「…………………………」


 やがて、脅威は完全に去った。

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