第108話 その手に掴むもの

 眼を覚ますと、何処かで見た事のある天井だった。

 朔の一族の別邸、れいの家だ。

 身体を起こそうとして、采希さいきは腕に力が入らない事に気付いた。

 自分が借りている琉斗りゅうとの身体は、使った力を取り戻すための休養が必要で、その体力は一割も戻っていないように思えた。

 ゆっくりと身体を横に傾け、両手に力を込めて起き上がる。ふらつきながらも、何とか壁に縋って歩き出した。


「琉斗……いや、采希か。もう起きられるのか?」


 こちらを向いて座っていたカイが真っ先に気付いた。

 黎が慌てて振り返る。


「采希、お前……まだ本調子じゃないだろう? 気配が薄いぞ」

「平気です。黎さん、お願いがあります」


 黎の表情が目に見えて曇る。

 自分の言葉に予測ができているのだろうと思った。


「……身体に、戻るのか?」

「はい。もう身体の方は限界だと思うので」


 カイとシンがぴくりと身体を強張らせた。

 この様子だと、黎とシュウから聞いているのだろう。


「…………だろうな、身体と切り離してもあまり効果は無かったようだし」

「いや、あれはちょっと無理しすぎました。琉斗があんなにキレるとは思わなかったんで」

「うん、まあ……そうだな。それで、どこで『場』を繋ぐつもりだ?」

「道場を、お借りできますか?」

「……分かった、すぐに戻るか?」

「はい、那岐なぎたちが眼を覚ます前に終わらせたいと思います」

「いや、あいつらが起きるまで待て」


 カイの声が苦悩を抑えるように絞り出される。


「せめてお前が何をしようとしているのか、見届けさせろ」

「いいえ、カイさん」


 笑顔で首を横に振る。琉斗の身体に重なって、采希の笑顔が見えた。


「俺の弟は、泣き虫だから。泣かせたくないんですよ」

「目覚めたら全部終わってた方が、俺は泣きたくなるぞ」


 僅かに逡巡した采希が、顔を伏せる。そのまま琉斗の身体は膝から崩れ落ちた。


「――!」

「カイ、琉斗の身体を布団に運んでくれ!」


 受け止めた琉斗の身体を横たえ、黎は道場に向かうために立ち上がった。




 道場の中央で立つ采希の背中を、黎は黙って見つめる。

 道場の入り口にはシュウが座り込んでいた。

 悔しそうに采希の背を見るその眼は、真っ赤になっていた。


 そっと黎の背後からカイとシンが入って来た時、采希が振り返った。


「黎さん、力が溢れすぎないようにするつもりですが、念のため結界をお願いします」

「……分かった」


 黎が道場の壁に沿って綿密に結界を張る。

 カイたちの周囲は更に別の結界で包んだ。


 采希の身体から、ゆっくりと白い炎が立ち昇る。

 前方に差し出された采希の腕の先に、光の波紋が広がる。

 虹色に煌めく水面を縦にしたようなその光は、徐々に広がって道場の天井に届きそうな大きさになった。

 その表面の波が静かになると、光の中に巫女姿の姪が映し出される。

 黎は思わず声を上げそうになるのを抑えた。


 掌を上に向け、采希が巫女に手を差し伸べる。

 ゆっくりと前に傾いた巫女の身体は、光の水面から頭部、そして肩から上腕が現れた。


「あきら」


 静かに呼ぶ声に、巫女の伏せた睫毛が揺れる。


 采希の身体から噴き出す炎が一段大きくなる。

 まだ、巫女の身体は上体の半分ほどしか出て来ていない。


「……北方玄武、東方青龍、南方朱雀」


 采希の声が道場で不思議な反響をした。

 屋敷の部屋で休んでいるはずの那岐と榛冴はるひから、朱雀と玄武が引き剥がされた気配がした。

 采希の周囲にくろと青、そして朱色の強い光が降りて来る。

 声に従い、結界内の圧力が上がる。


「西方、白虎」


 きん、っと音を立て、水鏡のような光を含んだ采希の周囲に方陣が組み上がった。

 巫女の身体がするりと光の中から抜け出す。

 嬉しそうに声を上げた采希が、その身体をしっかりと受け止める。


「あきら」


 采希の肩に力無く乗っている巫女の頭が声に反応して少し上げられる。

 その視界は歪んでいたが、徐々に戻る焦点は、驚愕の表情を張り付けた叔父とその仲間を捉えた。

 幼い頃から見慣れた人々と、見慣れた場所。自分を支える力強い腕に気付く。


 反射的に顔を横に向けると、すぐ間近に夢にまで見た笑顔があった。


「あきら、やっと会えた……」


 優しく自分を呼ぶ声に、自分はまだ夢をみているのかと思う。

 力を使い果たして眠るたび、夢に出て来てくれないかと願った笑顔。目覚めればかえって辛い気持ちになるのが分かっているのに、夢でいいから会いたいと願った。

 瞬きも出来ずに見つめる自分に、彼は少し悪戯っぽい顔になる。


「これで、お前の先見の予言は外れたな」


 その言葉に、巫女は思わず息を吸い込んだ。

 そっと眼の前の顔を手で包み込む。


「……采希」

「うん」


 自分を見つめる眼が、滲むように揺らいだ。

 声を上げようと息を吸い込み、巫女は眼を見開いた。

 采希の身体から炭酸の泡のように、小さな光がいくつも出て来ては空に昇っていく。


 これは何だ、と思った。

 凄く嫌な気持ちが、足元から自分の全身を覆っていく。


 小さく声を上げて笑った采希が、巫女の頬に手を添えた。

 その翳りのない瞳に自分の姿が映っている。

 慈しむような笑顔を湛えた采希に、声が出せなかった。



「……黎さん、お願いします」


 気付くと巫女は叔父の両手で肩を押さえられていた。道場の入り口に跳ばされたのだと瞬時に気付く。

 少し離れた采希の身体からは、どんどん光が溢れていた。

 その身体が空気に溶けるように色を失っていく。


「……采希? ――采希!」


 采希に向かって飛び出そうとした自分の肩は、叔父の手できつく掴まれている。

 無意識に眼の前の青年に向かって跳ぼうとした。

 なのに、自分の力は発動しない。

 きつい表情で叔父を振り返った巫女は、叔父の手に重ねられた手の主を見つめた。

 自分とは異質のその力は、いとも簡単に自分の力を抑え込んでいる。


「柊耶さん! 手を離してくれ! 采希が――」

「あきらちゃん、采希くんを、見てて」

「何を――離せ、柊耶ぁ!!」


 大きく叫んだ巫女の周囲で、黎の結界が音を立てて崩れた。それは、陶器が砕ける音のように聞こえた。


 黎の肩越しに、道場の入り口に手を掛けてよろける身体を支える琉斗と、眼にいっぱい涙を溜めて両手を突き出した那岐の姿が見えた。


「……采、希」

「兄さん!」


 彼らの後ろに、立ち上がるのも辛そうな凱斗と榛冴が膝を付いていた。


 那岐の顔を見た巫女は、自分の中で沸き上がった答えを確認するように采希に視線を戻す。

 静かに笑った采希の口がゆっくりと動く。

 もう、声は聞こえなかった。


「采希! 行くな! お前が居ないのなら……采希!」


 きらきらと立ち昇る光の粒子が、徐々に弱まっていく。

 巫女の背後で誰かが大きく叫ぶ。

 その声が耳に届かないほど、巫女は声を絞り出す。


「うああああああああぁぁぁぁ!!!」


 黎は姪の身体を後ろから強く抱え込み、片手でその眼を塞いだ。

 黎の視線を受けた柊耶は、唇を引き結んで巫女の額に指先を当てる。

 がくりと力を失った身体を支えながら、黎はゆっくりと膝をついた。


「黎さん……あきらちゃんを……」


 途切れがちに声を絞り出す凱斗が、そのままうつ伏せに倒れる。

 道場の入り口に縋っていた琉斗の身体が滑り落ち、那岐と榛冴もその場で意識を失った。


「……黎、こいつらは俺たちで運ぶ。お前はあきらを休ませてくれ」

「……頼む」


 凱斗たちはまだ眼を覚ませる程には回復していなかったはずだった。

 采希が呼び出した四神は、那岐と榛冴から引き剥がされた気配がした。それを知って目覚めたのかもしれないと思った。


(凱斗と琉斗はどうして目覚めたんだろうな……)


 考えても分からない。自分たちには分からない何かの繋がりがあるのだろう。

 采希が立っていた場所を振り返る。


 水鏡も、そして采希の姿も、何も残ってはいなかった。



 気を失った姪を横抱きに、部屋へと運び入れる。

 そっとベッドに横たえると、閉じた眼からつうっと涙が零れた。

 柊耶の力と反発するように見えていた巫女の力は、本気の柊耶に完全に抑え込まれた。思わずぞくりとした。

 そんな事が出来るなど、本人も気付いていなかったのだろう。柊耶の眼が驚愕したように見開かれていた。

 柊耶の手に触れてその力を確認した織羽おとはは、どう感じたのだろうと思った。

 采希が消えた今、巫女の力を抑えられるのはもう柊耶唯一人のようだ。暴走しないよう、見守らなければと思った。


「あきら……眼が覚めたら、話をしよう。采希の、話だ」


 そっと顔にかかった髪を直し、姪の涙を拭った。




「黎、あきらは?」

「泣きながら眠っている」

「夢で采希くんに会っているのかな……」


 カイとシンに笑ってみせようとするが、表情筋がうまく動かない。

 姪である一族の巫女の帰還は嬉しいが、眼の前で消えていった唯一の弟子を想うと胸が痛くなる。


 最後に采希は巫女に向かって『あきら、笑って』と、そう言った。声は、聞こえなかった。


 現世で采希と巫女は実体をもって会うことはない、そう先見の予言は告げていた。

 その予言を、采希は見事に覆した。

 巫女の身体を受け止めた采希は、これまで見た事もないような笑みを浮かべていた。

 どんな想いで決心したのか、シュウと柊耶から聞かされていたが、黎には納得できなかった。


(どうしてそんな器が、采希に与えられたんだ。強大な力に見合った身体にしてくれれば良かったのに)


 おそらくは、神霊たちが各々の都合で力を付与した結果、悪い方向に効果を発したのではないか。

 そう、自分の相棒は言っていた。


『それでも凱斗くんには、理不尽だとしか思えなかったみたいだけどね』


 自分もそう思う、と黎は大きく息を吐いた。

 自分が神子であるというならば、代わってやりたかった。

 護りたい者を護れない力など、不要だ。


 采希は自分の決意に難色を示した祖母の織羽に、『どうせ尽きる命なら、有効に使いたい』と告げて黙らせたと聞いている。

 遺体も残らないこの状況に、織羽は『そうですか。見届けて頂いた事に、感謝いたします』と震える声で答えた。



 黙ったまま、どれ程の時間が過ぎたのだろう。

 悄然と俯いたまま、気付くと空が薄藍に変わろうとしていた。


 ことり、と背後で音がした。

 振り返った先には誰も居ない。


 屋敷内の式神がざわざわと動き出す。

 黎の耳が、遠くの風切り音を捉えた。


「黎くん、道場に――」


 珍しく慌てた柊耶の声に、黎は急ぎ道場へと向かった。




 ひゅっ、と音を立て、木刀が振り下ろされる。

 巫女姿のままの姪が、こちらに背を向けて愛用の長い木刀を振るっていた。


「…………あきら」


 黎の声に巫女が振り返る。

 真っ赤になった眼が、黎と背後にいる柊耶に向けられた。


「……黎さん、心配を掛けて済まなかった。柊耶さんを、借りてもいいだろうか?」

「柊耶を?」

「うん。――ああ、別に仕返しをしようとか、そういう訳じゃない。少し手合わせをお願いしたいんだ」


 そこで微笑んでいるのは、以前のままの巫女だった。

 泣きはらした顔で、それでも前を向こうとしているように見える。


「黎くん、僕は構わないけど……いいかな?」


 黙って頷くと、柊耶は壁に掛けられた長い棒を手に取る。


「……何があったんだ?」

「さっきまでのあきらちゃんは、心が壊れるんじゃないかと思ったけど……」


 黎は少し下がってカイとシンの隣に並んだ。

 瞼を腫らしたシュウが黎の後ろに立つ。

 采希が眼の前で消えた。それなのに、巫女は僅かな時間で己を取り戻した。


「……采希に、会えたのかもな」

「……夢の中、いや、大神さまの『場』で、か?」

「多分」

「……『力が欲しい。自分にはまだ足りていない』だそうだぞ、黎」

「あれで、まだ足りていないの?」


 シュウが読み取った巫女の意思に、シンが呆れた声を上げる。それは全員同じ思いだった。


 それでも黎は采希が、巫女に自分を取り戻させてくれた事に感謝したいと思った。

 自分の手には負えない苛烈な巫女も、あの青年にであれば容易く手懐けられそうな気がした。采希本人にはそんな意識はないだろうが。


「あきらちゃん、戻ったばかりなんだから、少し自重した方がいいんじゃない?」

「手加減無用だ、柊耶さん! この命を有効に使うため、もっと強くなる!」


 激しく動きながら、二人の声は乱れることは無い。

 巫女の言葉に柊耶は笑顔になった。


「それでは遠慮なく」


 苦笑する黎の周囲の三人から、盛大な溜息が吐き出された。

 小さく、黎は呟く。


「感謝する、采希……」


 口角を引くように笑みを作る采希の顔が、見えた気がした。

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