第10章 咫尺天涯 ~霊獣たちの集う夜
第46話 禍事の発端
窓枠に片肘を乗せた
薄く刷いたような雲の切れ間から空が見えた。
左手の中に握りこんだ、紫水晶と銀で細工された小さな剣は、采希の体温で温く汗ばんでいた。
そっと手を開いて、そのままシャツに擦り付けて汗を拭い、水晶をジーンズのポケットに突っ込む。
采希の口から思わずため息が漏れた。
采希のポケットに入れられた紫水晶は、遠く離れた巫女と会話ができる。なのに、ここ最近は全く反応がなかった。
巫女さまと呼んで慕う
「あきらちゃん、忙しいのかな……」
「そうだと思うよ。小さな頃から家業を手伝っていたんでしょ?
「采希兄さん……」
那岐と榛冴の視線が采希に注がれる。
二人に見つめられても、采希には答えることができなかった。
「あ~……悪いんだけど、俺に聞かないでくれ。俺もシェンに繋がらなくて困ってるんだ」
諦めたように榛冴が立ち上がり、采希を軽く一瞥して階下へと降りて行く。母屋に帰るのだろう。
那岐もそっと溜息をついて自分の布団を抱え、窓からベランダに出て行った。
これまでも、こちらからの呼び掛けに応えないことはあった。
それでも後で、きちんと連絡をくれていたし、時折シェンが代わりに話してくれたりしていた。
「何か、あったのかな」
誰に言うともなくぽつりと呟く。
いざという時は巫女と繋がることが出来る琥珀も、困惑したように沈黙していた。
「采希兄さん!!!」
どたどたと、那岐にしては珍しく床を踏み抜きそうな勢いでベランダから飛び込んで来た。
「どうした? 那――」
「朱雀が来た!」
「……は?」
「朱雀だよ。しかも怪我……なのかな? 弱っているみたいで――とにかく、来て!」
采希は那岐に引き摺られるようにしてベランダから屋根に登る。
離れの屋根いっぱいにその朱金の翼を広げた朱雀は、見るからに力無く伏せていた。
(朱雀――小春の守護をするはずの朱雀、だよな? 一体何があったんだ?)
「――朱雀、お前……」
朱雀に声を掛けながら歩み出そうとして、采希は左脚の付け根に鋭い痛みを感じた。
(――なんだ? あ、ポケットか。水晶が引っ掛かったのか?)
さっき突っ込んだジーンズのポケットから水晶を取り出す。手の中の水晶を見て、采希はぎくりと硬直した。
同時に玄関から榛冴の大きな声が聞こえる。
「采希兄さん! 晴海さんから電話! 急いで!」
『――采希くん? えっと、何から話せばいいんだろう……さっきまで小春が居なくなっててね』
采希は思わず息を飲む。
『あ、大丈夫、今はここにいるから』
「晴海さん、一体どういう……」
頭の中が混乱してきた。
さっきから立て続けに色んな事が目まぐるしく起こっている気がした。
『うん――さっき、部屋で寝ていたはずの小春が突然消えたの。慌てて捜したけど、家中どこにもいなくて。外に出て小春を呼んでいたら、玄関の方から小春の声がしてね。振り返ったら傷だらけの女の人が小春を抱いて立っていた。その人は半透明で血まみれなのに、小春はにこにこしながら抱かれていたの。女の人は私に向かって、『采希に、この子を護れと伝えてくれ』と言って消えていったんだけど。采希くん、心当たりは?』
采希は思わず額を押さえた。心当たりなんて、一つしかない。
血まみれでそんな芸当ができる女など、あの化け物巫女以外にはいないだろう。
(あきら、何があったんだ?)
「晴海さん、とにかくすぐにそちらに向かいます」
采希は晴海の返事も待たずに電話を切り、そのまま玄関から駆け出そうとする。
傍で会話を聞いていた榛冴に後ろから左腕を両手で掴まれた。
「――榛冴! 何すんだよ、離せ!」
「ちょっと落ち着いて、采希兄さん。このまま飛び出してどうすんのさ。まずは状況確認しないと」
この状況でどうやって落ち着けというのか、と思いながら采希は榛冴を睨みつける。
榛冴はここは引かないからね、とでも言いたげに腕に力を込めた。
ことことと那岐が離れの階段を降り、そのまま母屋へと向かった。
「那岐、朱雀はどうした?」
那岐が自分の胸の辺りを指す。
「――僕の中。かなり弱ってるみたい。采希兄さん、とにかく状況を整理しよう。朱雀から少しだけ情報をもらったから」
母屋の居間の卓の周りに全員がそれぞれ陣取った。
「まずは采希。何があった?」
凱斗が腕組みをしながら仕切り始める。采希は小さく深呼吸をした。
「小春が一度、何処かに姿を消したらしいんだ。でもすぐに戻って来た。恐らく、あきらによって連れ戻された――と思う。その小春をいずれ守護するはずの朱雀が、突然うちの屋根に現れた。かなり弱った状態でな。小春の周りでおかしな事が立て続けに起こっているらしい。――想像だけど……ここしばらく連絡が取れなかったあきらに、何かあったんだと思う」
そう言いながら自分のポケットから取り出した物を卓の上にころりと転がす。
「――!! 何、これ?」
「……真っ黒……」
「どうやったらこんな風になるんだ?」
「これ、表面じゃなく内部が変色しているね」
那岐が紫水晶――だった物――を取り上げて透かすように眺める。
「ああ。クラックも入ってる。さっきまでは何ともなかったし、ポケットに入れていたのに」
「采希、クラックとはなんだ?」
「――あ~、水晶なんかの内部に出来る、ひび割れのことだよ」
那岐から水晶を受け取った
「――じゃ、次」
凱斗が視線で那岐を促すと、こくりと頷いて話し始めた。
「朱雀は――小春ちゃんが人質にされたのに気付いて、小春ちゃんの元に駆け付けたところを捕縛されたみたい。そこにあきらちゃんが助けに来て、朱雀を捕えていた呪縛から無理矢理引き剥がして、朱雀はあきらちゃんの力でここに飛ばされた」
「人質――って、何のために? 代価は何だ?」
凱斗の問いに、那岐が澱みなく答える。
「あきらちゃん」
予想はしていたが、采希は那岐の言葉に顔を顰める。
予知と念動、除霊に浄霊、感応も治癒も可能でしかも龍たちや十二天将までをも従える。
そんな彼女を思い通りに利用できるなら、力を欲しがる輩にはどれほど魅力的に映るだろう。
同時にそれ程の力を持つ彼女を妬ましく思い、排除しようと考える者もいるはずだった。
誰がそんな事を企んで実行したのかは分からないが、小春を攫った事が采希には許せなかった。
しかも、あきらが血を流していたと晴海は言っていた。
あの化け物じみた巫女が怪我をするような相手とは、どんな輩だろう。
「巫女ちゃんを手に入れるために小春ちゃんを誘拐したってことなの、榛冴?」
「状況からするとそうみたいだよ、母さん」
「だったら巫女殿を助けに行くべきだよね。那岐と采希ならどうにか出来るんじゃない?」
「母さん、僕らの力を信用してくれるのは嬉しいけど、今は黙っててくれるかな」
榛冴と那岐がそれぞれの母親に詰め寄られて辟易している間、采希はずっと考え込んでいた。
あきらを手に入れるために小春を攫った。それはどうしてだろう。
あきらと小春に繋がりはない。朱雀を借り受けた時に接触した程度だ。
小春が囮にされた理由が分からないのに、その囮は絶大な効果を発したことになる。
目的であるあきらを捕らえたのだから。
(一体、何が起きたんだ、あきら……)
采希はぎゅっと眼を閉じ、意を決して立ち上がる。
「采希兄さん、座ってて」
「――! 那岐、俺は――」
「いいから、座って」
「那岐!」
「兄さんが転移――瞬間移動とか出来なくて良かったよ。落ち着いてちょっと待っていよう。おそらく、車を手配しに行ったと思うから」
「……車?」
怪訝な顔で眉をひそめた采希に、榛冴がくすりと笑う。
「凱斗兄さんと琉斗兄さんだよ。さっき二人で目配せして一緒に出てったからね。流れ的に、車を借りに行ったんじゃないかな? うちの車に男五人は狭いから」
――言われてみれば、双子がいない。
「そういうこと。だから、ひとまず座って待とうよ。兄さん、あの街の場所もよく分かってないよね?」
那岐の言う通りだった。逃げるように電車を乗り継ぎ、偶然辿り着いた街。
その後は感覚だけを頼りに山に向かったため、あの街の名前も場所も采希には分からなかった。
那岐に服の裾を軽く引かれて座るように促され、采希はようやく腰を下ろす。
唇が切れそうなほど噛みしめていたのに気付いて、力を緩めて深呼吸をした。
「まずは、情報収集が必要だね、采希」
むっとした顔で見返す采希と視線が合い、
「今、大事なのは冷静になることだよ、采希。やり直しは利かないんだから、絶対に失敗出来ない。闇雲に突っ走っても後悔するだけだ」
「…………」
「と、お祖母ちゃんなら言うだろうね。でも、私の気持ちとしては何とかして巫女殿――あきらちゃんを助けて欲しい。多少の無理を押してでもね。あきらちゃんはお前の恩人なんだから」
「恩人……」
「お前の制御出来なくなった力を抑え込んでくれた。それがなかったら采希は今、ここにいない」
母の言葉に采希は黙って頷いた。
采希を覗き込むように強い口調で話す朱莉の服の裾を
「姉さん、でも、どうしても無理な時は
「大丈夫だよ、母さん、蒼依さん。無理はするかもしれないけど、無茶はしない。約束するよ。ちゃんと無事で帰ってくる」
じっと俯いたままの采希の肩に手を添えながら、那岐が朱莉と蒼依に笑ってみせた。
こんなに急に何もかもが動き出すなんて、恐らく只事じゃない。
そう考えてぎゅっと眼を
ワゴン車の運転席と助手席に陣取った凱斗と琉斗が迷うことなく車を走らせる。
「まずは小春ちゃんの所に行くとして、その後はどうするの、凱斗兄さん?」
「巫女さんは小春ちゃんを護れって采希に伝言しているからな。ひとまずは小太郎さんちを拠点にさせてもらえるようにお願いするつもりだ」
「小太郎さんちに那岐兄さんの結界を張るとか? 他にはどうすればいいか、凱斗兄さんにアイデアはあるの?」
「相手が分からないことにはなぁ……。情報収集って言っても、これ以上の情報なんて、無理な気がするけどな」
ワゴン中列の榛冴が身を乗り出して運転席の凱斗に話し掛けているのを、采希は後部の座席でぼんやりと聞いていた。
突然、采希の視界が揺らぐ。
(――……何? なんだ、この異様な眠気……那岐、俺を――)
すうぅっと意識が落ちて行く。
急激に沈み込む意識の片隅で、那岐が采希の身体を慌てて支えるのが見えた。
* * * * * *
《采希――お前は、小春を護ってくれ。頼む》
真っ白な、世界。
見慣れたその光景に、采希は夢の中だと認識する。
多分、どうにかして強制的に眠らせられたのだろう。
「あきら? どこにいるんだ?」
《来なくていい。お前はそちらで小春を――》
「あきら! 俺の質問に答えろ! お前はどこにいるんだ? 何故、小春やお前が狙われた?」
全く理解できない状況に、采希はイラつくというよりも焦っていた。つい口調がキツくなってしまう。
《――采希……》
「事情をちゃんと説明しろ、あきら。何も分からないような状況下で、どうやって小春を護ればいいって言うんだ? きちんとした説明も無しにそんな事を言うなんて、お前らしくないぞ」
小さな溜息とともに、目の前に巫女の姿が浮かび上がる。
血は纏っていないが、少し伏し目がちに唇を横に引き結んでいる。
「あきら、どうして小春が攫われたんだ? お前を誘い出すなら、もっとお前に近い人間を選ぶんじゃないのか? お前の家族とか」
《あの子は……小春の身体は、私の力を継承できる、唯一の器なんだ》
意外な言葉に、一瞬采希の思考が止まる。
「……は? あんたの力は血脈で……」
《そうだ。本来この力は私の血筋に受け継がれる。今は私が直系の最後の一人だからな、私が死んだらこの力はこの世から失われる可能性が高い。先見の力はその代では一人にしか
「それが、小春……なのか?」
巫女がこくりと頷く。俯いたまま、こちらを見ようともしない。
それが采希には妙に気に掛かった。
「力の血脈が小春に移ってしまうってことか?」
《いや、多分、一代限りだと思う。だから、この力をこの世から消し去りたいなら……》
ぞくりと采希の身体を悪寒が走る。
巫女の持つ力を疎ましく思う
采希は眉間に皺を寄せ、嫌な考えを振り払うように頭をぶんぶんと振ってみる。そんな事で消えるはずがないのは分かっていた。
「あきら、どこにいる? お前、怪我してるんじゃないのか?」
《平気だ。だから、急いで小春の所に行ってくれないか》
二度と誘拐されたりしないように小春を護るのは当然だと采希は思っていた。
だが、ずっと小春を護れと言い続ける巫女に采希は何か違和感を感じた。
少し強張った表情で巫女の顔を覗き込む。
「――あきら、ちょっと確認するけど……小春を
質問をしながらも、采希は確信していた。
だから、『来るな』と言っているんだと気付いた。
目的のモノを手に入れたなら、もう小春を人質にする必要はない。
巫女は視線を逸らしたまま、答えない。
こんな風に言い澱むなんて珍しいと思いながら、采希は少し目を細めた。
「あきら、お前、自分が死ぬと――そう思ってるだろ」
びくりと身体を震わせ、巫女はやっと顔を上げて采希を見た。
「あんたが死んだら小春にその力が継承される。でもそうなったら今度狙われるのは、まだあんなに小さな小春だ。だから、小春に力が移らないように――あんたの力から護れって、そう言う意味なんじゃないか?」
巫女が眼を閉じて、そっと天を仰ぐ。その表情はとても悔しそうに見えた。
小さく息を吐く。
《――その通りだ。やっぱり采希には分かるんだな》
「あきら、俺は――」
《采希!》
近くに歩み寄ろうと一歩を踏み出した采希に、巫女の強い口調が掛かる。
《時間がない。急ぐんだ采希。私の命が途絶えたら、その瞬間にお前の封印は全て解除される。だからその前に、那岐とお前で小春の家の周りに結界を張るんだ。封印が解除されたらお前の【気】で小春を覆ってくれ。全力でな。琉斗の
采希が巫女に向かって腕を差し出し、手の平を向ける。
どうしたら実体のない巫女を黙らせられるのか、采希にはその方法が分からない。これ以上は聞きたくないという意思表示のつもりだった。
巫女は困ったように小さな溜息をついた。
「要は、お前が死ななきゃいいんだ。――助けに行く。お前がどこにいるのか、教えてくれ」
《――采希、それは……》
戸惑ったように俯いて口籠る巫女をそっと覗き込む。
采希と眼が合うと、泣きそうな顔で笑顔を作った。
《ありがとう、采希。――お別れだ》
巫女の姿が急激に薄れ、采希の身体が強引にどこかに引っ張られて行く。
「ちょ……待て、あきら!」
采希の身体と意識がすごい勢いで浮上させられる。
このまま目覚めて巫女とは別れてしまうのだと、そう思った。
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