第6章 京都大阪防衛戦

第42話 来日

 モスクワ時間一九八六年一月八日午前〇時二十七分。


 アリエチカは自宅の食堂でローザ・ウラジミーナ・パヴリチェンコKGBソ連国家保安委員会議長と一緒に自棄やけ酒をしていた。

 二人共アルコールで火照った体を冷やすために、常装は執事に預けて白いYシャツに焦げ茶の軍用ズボンというラフな格好をしている。


 夕食の延長線上で始まった雑談が、アリエチカの酔いの周りによって延々と伸びていたのだ。

 それによって同席していたゴスめの赤いドレスを着ているエーリャは、チェブラーシカの人形を抱えて睡魔との死闘を続けている。

 長年の付き合いであるローザは適当に相槌を打ってアリエチカの愚痴を受け流していた。


「あ~~~やっぱウォッカはスミノフに限る! おい! もう一本!」

「承知しました」


 アリエチカの酒癖の悪さに慣れている執事は傍に用意していた新しいスミノフウォッカの銘柄を持って席に歩み寄る。


「酒を飲むとカリスマはどこかへ逃げてくらしいぞ、アリエチカ。そろそろ終わりにしないか?」


 スミノフを三本で抑え、未だに酔っていないローザはそろそろお開きにしようと提案する。


 執事はアリエチカの前で栓を抜いてシミ一つないテーブルクロスの上に置き、空き瓶を回収する。わざわざコップに注がないのは、アリエチカがラッパ飲みをしたいという要望があるからだ。


「正論はやめてくれ、ローザ。共和国が早く皇国を落とさないし、制海権は取られているし、極東は電力不足だ! こんな戦局で飲まれずにやってられるか! まだまだ飲むぞ!」


 日本戦争の状況は共和国側の不利が続いていた。

 アメリカからの援軍も続々と集まり、電力不足による輸送も困難で、いよいよ数のゴリ押しでなんとかならなくなってきたのだ。


 全てはあの発電所の破壊工作のせいだった。

 皇国め、よくもやってくれたな。


 アリエチカは片手で瓶を掴み、ぐいっと仰ぐ。今は大丈夫だろうが、戦局が悪くなるとアルコールに溺れてしまうのではないか、と全てを見通す双眸でローザは心に留める。


「全く、アフガニスタンの時ですら酒はそこまで飲まなかったくせに……」

「あの時の酒なんぞ、叙勲と昇進の祝い以外で飲んだことはないぞ。それに書記長になってからろくに時間も取れなかったしな! クソッ!」


 アリエチカはもう一度瓶に口をつけ、ぐでっと白いテーブルクロスに上半身を預ける。

 ふとエーリャを見ると、目を完全に瞑った状態でうつらうつらとしていた。


「エーリャ、眠いか?」


 アリエチカの唐突な呼び掛けに、エーリャは姿勢を正して寝落ちかけた精神に鞭を入れる。


「……あ、うん……」

「もう寝ていいぞ」

「わかった……お休み……」

「お休み、エーリャ」

「お休みなさいませ、エーリャ様」


 エーリャは椅子から降りて、チェブラーシカを持ちながら食堂を後にする。

 朦朧とする意識の中でシャワーを浴びなければならないと思ったが、睡魔に負けておぼつかない足で自分の部屋へ向かう。


 エーリャの部屋は屋敷の中央に位置しており、壁の向こう側は上下左右のどこからも外界に触れていない。防犯体制は万全な部屋だ。

 それ故に道が入り組んでおり、新米のメイドが迷うことも多々ある。しかしエーリャは物心ついた時からこの屋敷に住んでいたので、無意識下でも目的地へ行くことは造作もないことだった。


 片腕を懸命に伸ばして、子供にとって高い位置に作られたドアノブを倒して電気も点けず静かに閉める。


「ふあぁ~~……寝よ……」


 エーリャは暗闇の中、己の感覚のみでベッドの方向を向いて直進する。


「んぐ??!」


 突如、後ろから誰かに猿轡さるぐつわを噛ませられてしまった。両手を後ろに回されて手錠を掛けられる。


「んー!! んんー!!!」


 エーリャはパニック状態でありながらも必死に抵抗しようとする。

 しかし暴れ回ってもびくともせず、遂には片腕のみで抑え込まれた。


 拘束している男は空いた右手の親指と人差し指で空気を摘み、押し広げる。


 すると人が一人通れる程度の大きさを持つワームホールが現れ、そこから溢れる白光で部屋が明瞭になった。

 そのままエーリャは男に引きずり込まれてワームホールへと吸い込まれていった。




 日本時間一九八六年一月八日午前七時三十二分。


 水野は憔悴し切った顔で、石橋と共に日本皇国防衛省の地下施設行きのエレベーターの中で俯きながら立っていた。

 虚ろな目で床を見下し、体は人体実験を受けていた時よりもやせ細っている。これが軍人だと言われても、誰もがにわかには信じ難い。


 休暇中の三日間は、半生を費やして積み上げた努力が崩壊したことを痛感させられるには十分すぎる時間だった。

 工科学校に入学して成績優秀者として卒業したことも、諜報員になったことも、命懸けで適地へ潜入して金を稼いできたことも、全ては妹のため、家族のため。もはや自分の存在意義としてまで認識していた。


 それが何もかも全て、天野の一太刀で切り崩れたのだ。

 故に、今の水野はボロ雑巾よりも使えない哀れな存在と化している。


 葬式は日本戦争で散った者たちの魂が菩提寺ぼだいじに列を成していたため、復帰が遅れるかと思われた。ところが、政府が融通を利かせたのか出所早々に行われることとなったのだ。

 親戚不在の中行われた葬儀で、母親はハンカチから滴るほどまで泣き崩れ、父親は涙を浮かべていたが決して零すことはなかった。

 水野は目の前に置かれている仏壇の存在が信じられず、自身の存在意義について延々と自問自答していた。


 その答えは今日の今日まで見つからなかった。


「……羽は伸ばせたか?」


 建物の前で顔を合わせてから最低限の挨拶以外会話していない石橋は、重く淀んでいるこの空気が嫌いだった。なので払拭できる、何か話し掛ける話題でもないのかと思案した結果、少しは休めたかどうかを問うことにしたのだ。


「ぃぇ……」


 聞こえたのは消え入りそうなか弱い否定。


「そうか……」


 そこで会話は終わり、次に石橋が口を動かしたのは廊下を歩いて目的の部屋に着く手前だった。


「お前が子守する相手だが、驚くと思うぞ」

「そうですか……」

「まぁ、体力を取り戻すつもりで頑張ってこい」


 そう言い終わると、廊下の奥に存在する部屋の前に着いた。

 頑丈な金属製の扉の傍には、二人の兵士が六四式小銃を構えて睨みを利かせている。


 石橋はズボンの右ポケットから身分証明書を提示する。

 兵士の一人がそれを手に取って顔写真と実物を見比べる。


「確認が取れました」


 兵士は石橋へ身分証明書を返却して簡易な事務机の上で記録する。


「おい、早く出せ」


 放心していた水野は小声で催促されると、無造作にズボンの右ポケットから身分証明書をのろのろと出す。


 その素っ気ない態度に若干の不快感を兵士は覚えたが、堪えて本人確認をする。

 ささやかな反抗として無言で身分証明書を返したが、水野は黙って受け取ってポケットへしまう。それがまた兵士の癪に障った。


 もう一人の兵士が鈍く光る鍵をポケットから取り出してドアを解錠した


「どうぞ」


 兵士たちはドアの前で小銃を構え直す。

 石橋は小さく会釈して入室する。水野も無言で後に続いた。


「これが君に子守を頼みたい子供だ」


 水野は今まで下を向けてきた顔をゆっくりと上げる。


 部屋の床と壁は共に白が基調であり、女児に似合う家具が一式置かれている。

 トイレは奥にある扉の向こう側で、その近くには簡素なベッドがあった。その上で、長く赤い三つ編みの少女がすやすやと寝息を立てながら眠っている。


「……え?」

「君もモスクワで会ったはずだろう。アリエチカの実娘、エレオノーラ・アリーサヴィナ・ジュガシヴィリだ。彼女の子守を頼む」


 水野は驚きのあまり、言葉が詰まる。


 なぜ、モスクワのアリエチカ邸に住んでいる彼女が日本皇国防衛省施設の地下にいるのか。

 一体、日本皇国は何の目的があって必要としているのか。


 そのような疑問以前に、水野はベッドにうずくまるようにして寝ているエーリャが亡き妹が苦しんでいるように見えてしまった。そのまま何もしてあげられなかった惨めな自分まで連想させてしまい、膝から崩れ落ちる。


「エーリャが起きてまた寝るまで面倒を見てくれ。食事は定期的に運ばれてくる。何かあったら入り口付近の固定電話を使ってくれ。じゃ、頑張れよ」


 早くこの場から離れようと、石橋は口早に説明を終えて退室する。


 水野は四足をついて拳を叩き付け、過酷な運命を歩ませる神と日本皇国政府を、そして全ての元凶である天野へありったけの呪詛を吐き尽すのだった。

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