第30話 夜汽車

ジャックは大急ぎで、ジェンにホテルのボーイを呼びに行かせ、列車の予約を取るよう言いつけた。


「一等車のコンパートメントを貸し切りにしてくれ」


それから、彼らはほんのわずかな手まわりの物だけ持って、駅へ急いだ。


夏の日は長いが、ここは南なのでそろそろ日が暮れかけてきた。


ピアは夏の間だけ上流社会の街になる。

列車も夏の間だけ一等車が連結される。


もう夕刻なのでこれから出立する乗客は少なく、汽車に乗るまでの間、二人は駅にたむろっているポーターなどと言った連中からの好奇の視線を浴びた。

もちろん、彼らは一等の待合になんか入れないので、通りすがりに中をのぞくだけだ。あまりあからさまにのぞくと駅員が来て追い払われる。


ちらりと若い娘の方が顔を上げると、驚くほどの美人だった。二人とも身なりが良く、相当な金持ちと言うことはすぐわかったが、そんな男女が、お供の一人も連れず、こんな時間の汽車に乗るだなんてよほどの訳アリに違いない。


待合室には他には誰もおらず、ジャックは助かったと思った。

ここで知り合いに会えば、また説明が面倒だ。


「シャーロット、寒くない?」


ジャックは尋ねた。夏なのだが、この時間は薄着では肌寒いかも知れない。


シャーロットは小さく首を振って大丈夫だと言う様子をした。


「そう」


ジャックは小声でそう言うと、キッと空を睨んだ。



出来るだけ早く帰らないといけないとジャックは思っていた。


彼は偽物だ。そんな男と一緒にいつまでも(見かけだけにしろ)同棲させるわけには行かない。


それにピアにはロストフ公爵がいる。狭いピアのことだ。どこかで接触したら面倒だ。

公爵から、夜会など、なんらかのお誘いが来る可能性もある。

公爵様からの誘いを断ることは出来ない。偽夫婦なのはバレているから、呼ばれたら最後、何をされるかわからない。そのまま、公爵のもとにとどまれと言われても、断る理由がない。婚姻関係にあるわけでもない男と一緒にいたのだ。一刻も早くピアから離れた方がいい。

うさん臭い偽の夫より、両親の方がまだ公爵の強引なお誘いを拒否する権利がある。


「着いたら、だいぶ遅くなっているだろう」


コンパートメントにシャーロットを抱きかかえるように乗り込むと、ジャックはドアとカーテンを閉めてしまった。


「ごめんなさい、ジャック。あなたにはずいぶん迷惑をかけてしまったわ」


列車がごとりと動き出してしばらくしてから、ようやく放心状態だったシャーロットが彼の肩から頭を離して言った。


「ショックだったの。私を犠牲者にしようとしている人がいるだなんて。ごめんなさい」


「あやまることなんかじゃない」


「私に付き合って、逃げるようにピアを出るなんて……」


僕も出なきゃいけなかったんだ、と言いかけて、ジャックは口をつぐんだ。

ジャックが大急ぎでピアを出立しなくてはならなかったのは、シャーロットのせいだった。


手紙には、ご丁寧にジャックの名前まで書かれていたのだ。


ジャックは、今やあの公爵に睨まれていることは間違いない。そしてジャックのことを女の敵みたいに思っているだろう。あの公爵に、節操がないとか言われたら、心外も甚だしいとジャックは思ったが。


彼が急いで街に戻らなければいけない理由を言えば、余計に彼女を追い詰める。

ジャックは慰める言葉を知らなかった。


「自分のことだけを考えて……でも、確かに誰でもそうよね」


「シャーロット、だけど、君には味方もいる」


ジャックは必死になって言った。かわいらしい無邪気な子どもを守るような気持ちになっていた。


「そうね……」


シャーロットはジャックから離れて、黙って雨が降り始めた窓の外をじっと見つめていた。


窓の外は暗くて、何も見えない。雨粒が窓ガラスに当たり、横に流れていく。シャーロットは見て居るふりをしているだけだ。その瞳は何も映していない。



どうして僕に取りすがってくれない?


ジャックは思った。ジャックだって助けられるかどうかわからないが、助けたい。どうして一人で悲しむのだ。


「シャーロット……」


ジャックは自分の上着を彼女の肩にかけて、その上からそっと彼女を押し包んだ。

シャーロットがビクッとしたのがわかったが、ジャックはささやいた。


「みんなで君を守るよ。僕やモンゴメリ卿、フレデリックも君の家族も」


ずっとこうしていたい……ジャックは思った。

役得だ……




夜遅く帰ってみると、街もこの季節には珍しく雨だった。

ジャックはシャーロットの手を引いて辻馬車を呼び、マッキントッシュ家の玄関まで送り届けた。


もう遅い時間だったことと、連絡なしだったので、マッキントッシュ家は大騒ぎになった。



「どうしたんだ。何があった」


寝間着の上にガウンを羽織ったマッキントッシュ氏がナイトキャップを斜めにかぶったまま、客間に現れた。

シャーロットは明らかに泣いて目が赤い。


「今日、帰って来る予定じゃなかったはずだが」


「匿名の手紙がロストフ公爵に届いたのですよ。シャーロット嬢は婚約も結婚もしていないってね」


「そ、それは……」


マッキントッシュ氏は青くなった。


ジャックは黙って問題の手紙の写しをマッキントッシュ氏に渡した。

マッキントッシュ氏は、薄暗い灯かりの下で目を凝らしてそれを読んだ。読み終わったとたん、彼の目は呆然とジャックに注がれた。


「……一体、誰が……」


ピアではいざ知らず、この街ではジャックのなりすましを知る者はゼロではない。ただ、皆、固く口を閉じているはずだ。


「味方を探しましょう」


ジャックは言った。

泣いて騒いでも、事態は変わらない。


「味方?」


「シャーロット嬢を連れて行かれないために」


「連れて行くだなんて……。他人の家の娘を、勝手に愛人にして、遠くの国に連れ去りたいだなんて……許されることではない」


「あの公爵は信じています。どこの娘も大喜びで選ばれたことを名誉に思うだろうって。この国の常識が通じません」


「そんな……」


「あなたの知り合いに王家に関係のありそうな方、有力者はいませんか?」


マッキントッシュ氏は辛そうな顔をした。


「……私は商人だ。資力だけはあるが、貴族ではない。クラブなどでの顔見知りは多いが、王家に関係があるような人物に親しい人物はいない……」


それはそうだ。もし、そんな人物が知り合いに入れば、マッキントッシュ氏はずっと前に頼みに行ったろうし、問題はどうにかなったかもしれなかった。


戦力になりそうなのは、社交界に絶大な影響力を持つモンゴメリ卿や、王家に侍従として勤務しているボードヒル子爵くらいか……。


もう一人いる。


最も依頼したくないが、一番頼りになりそうなのがひとり……


クリスチン・ロックフィールド夫人。

ジャック自身の姉だ。


大陸全土にわたる大富豪の一族の夫人だ。


姉との仲は最悪だ。頼みたくない。姉のところへなんか行きたくはないが、得体の知れないあのエネルギー、使えるものなら利用したい。

何をしでかすか、よくわからないが、とにかく力だ。


そして、公爵に好感情を持っているとは思えない。


『何しろ、キスされかかって、公爵を突っ転ばしたらしいからな』



ジャックに出来ることが一つだけあった。



泣いているシャーロットを預け、ジャックはマッキントッシュ家の屋敷を出た。

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