思い思われ知り知られ

 校舎に沿って無言で歩き続ける。緊張しながら辺りを見回してみて分かったが、学校というのは本当にどこにでも人がいる。誰にも見られずにキャンプファイヤーを二人きりで最後まで見ることなんて可能なのだろうか。澄空はだんだん腹が立ってきた。そんなの無理に決まってる。一体誰がこんなジンクスを広めたんだ。

 しばらく歩いていた澄空は、ふと隣にいるはずの柚子がいないことに気がついた。慌てて後ろを振り向くと、彼女は数歩離れたところで立ち止まっていた。火のついていない焚き火台を見つめている。澄空も柚子と同じように校庭の中央を眺めた。先生たちが、生徒や客がキャンプファイヤーに近づくことができないよう、距離を取って周りにロープで仕切りを作っている。

 もう一度柚子の方を見る。とても綺麗な横顔だった。オレンジ色と紫色が混じったような空の下で、この世のものとは思えないほど美しい人が自分の近くに立っている。ほとんど奇跡だ。軽音部のライブ中にまとめていた無造作なお団子ヘアーから不規則に広がる後れ毛さえも美しい。彼女の姿を形作るすべてが計算され尽くした芸術品のように完璧で、この世のものとは思えないオーラを放っている。遠くを見つめるその瞳はどこか物憂げで、それがまた彼女の魅力を最大限まで高めていた。

「藤原さん」

 澄空が一歩踏み出して口を開くと、柚子はこちらを向いた。やはり、彼女と一緒にキャンプファイヤーを見ることはできない。澄空はそう悟った。でも、もう分かってると思うけど、せめて気持ちだけは伝えさせてほしい。

「もっ、もう、ぼ、僕が何を言うつもりか分かってると思うけど」

 尋常じゃない量の汗が垂れてくる。柚子は真っ直ぐに澄空を見つめて視線を離さない。澄空はゴクリと唾を飲みこむと、ギュッと強く目を閉じた。

「ふ、藤原さんのことが、す……好きです」

「……ありがとう」

 柚子は小さな声で返してきた。目を開けて、柚子の表情を見た澄空はびっくりした。とても辛そうな顔をしていたのだ。

「……本当にごめんなさい」

 柚子は今にも泣きそうだった。

「私……スカイくんがどう思ってくれてるか気付いてたのに……思わせぶりなことしたり……期待させたりして……」

 澄空は愕然としていた。そんなことで謝られたら、今日一緒に過ごした夢のような時間がすべて彼女にとって良くない思い出になってしまう。

「あ、あ、謝らないで!」

 澄空は必死な思いで声を上げた。

「僕は今日、本当にすごく楽しかったし……いや、さ、誘ったのは僕なのにリードしてくれて迷惑かけちゃったから、その、藤原さんは楽しくなかったかもしれないけど……でも……そんな風には思わないでほしい……です」

 僕はもしかしたらとんでもなくおかしなことを言っているのかもしれない。もう何が何だかよく分からない。でも、藤原さん、あなたが悪いことなんて一つもないんです。お願いだから、僕に悪いことをしたなんて思わないでほしい。高校生活一年目の文化祭の思い出を、「悪いことをしてしまった」で締めくくらないでほしい。

「……」

 柚子は驚いた顔で澄空を見つめていた。しばらく呆然としていた彼女は、やがて小さく微笑んだ。

「……私もすごく楽しかったよ。アニメの話とか、あんまり知らないから面白かった。……ああいうライブも初めて観たんだ。一緒に見てくれてありがとう」

 柚子の言葉に、澄空は胸が熱くなるのを感じていた。両思いになって付き合うことは叶わなくとも、彼女にそう言ってもらえただけで嬉しかった。

「こちらこそ……本当に……ありがとう」

 澄空はそう言って、深く息を吐いた。好きだと伝えるよりももっと難しい言葉を、覚悟を決めて口に出す。

「これからも、と、友達として仲良くしてくれますか?」

 柚子が目を瞬いた。

「いや、あのっ、別に仲良くまではしなくていいんだけど!」

 なんと恐れ多いことを言ってしまったのだろう。澄空は慌てて言い直した。

「その……思わせぶりだなんて思わないから……期待もしないから……たまに僕に話しかけたり笑いかけたりすることを、これからも悪いことだと思わないでください……」

 恋愛もののドラマやアニメで、登場人物が思いを伝えたら今の心地良い関係が壊れてしまうのが怖いと言っているところをよく見る。でも、僕みたいな陰キャはまずそんな関係になるまでが大変だから、そんなことを考えていたら本当に何も進まない。恥も外聞も捨てて思っていることを全部伝えないと、これから永遠に彼女に微笑みかけてすらもらえない惨めな学校生活を送ることになってしまう。そんなのは嫌だ。嫌だから、頑張って伝えなければならない。こんな風に思えるようになったのも、勇気を出せるようになったのも、全部彼女のおかげなのだ。

「き……気持ち悪いよね……ご、ごめん……」

 そう言って俯くと、「ううん」と声が聞こえた。恐る恐る顔を上げる。

「気持ち悪くなんかないよ」

 柚子は真面目な声で言った。

「……ありがとう。こちらこそ、これからもよろしくね」

 柚子は控えめながらも可愛らしい笑みを浮かべている。澄空はすっかり安堵してこっそり柚子の顔を見つめた。先程彼女がキャンプファイヤーの方を見ていた時、何を思っていたのかを考えてしまう。気がつけば、澄空はポロッと声を漏らしていた。

「……藤原さんは宗くんのことが好きなの?」

 柚子が大きな目を更に大きくしている。その顔を見た瞬間、澄空はハッとした。僕は何を言ってるんだ!

「いや、あっ、あの、な、ななな何でもない! 何でもないです!」

「……あは」

 慌てふためく澄空を見て、柚子は力なく笑った。

「どうだろ」

 投げやりな口調でそう言って、澄空から視線を逸らす。

「……」

 柚子はそのまま無言でどこかを見ていた。何かを思い出しているような顔だった。

「……独りになっちゃってすごく寂しかったはずなのに、いつの間に私の日常に入りこんできて……今ではそれが普通になっちゃった」

 柚子は呟くように言った。彼女の顔から、目が離せない。

「……もう、あいつがいなかった時のこと思い出せない」

 柚子の瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。パチパチと瞬きを繰り返して涙を誤魔化している彼女を見て、澄空は自分がどれほど愚かだったのかを思い知った。

 勝てるわけない。こんな綺麗な人をそんな顔にさせられる人に、僕なんかが敵うわけない……。

「……今の、誰にも言わないで」

 柚子はそう言ってはにかみながら人差し指を唇の前に添えた。細い指がとてもなまめかしく見える。澄空は黙って何度も頷いた。言わないです。言えないです。

「そ、それじゃ……また今度、学校で……」

 澄空は心臓をバクバクさせながら言った。先程見た柚子の顔が忘れられない。

「……うん。バイバイ」

 柚子は小さく手を振る。澄空は小さく会釈をすると、早足でその場を立ち去った。



「……はあ……」

 柚子は大きく溜息をついた。本気で自分を好きだと言ってくれた人に自分の正直な気持ちを伝えることは、やはり気分が良いものではない。

 澄空は不器用なせいか本当に何もかもを口にしてくれた。あの言葉はすべて彼の本心なのだろうが、気を遣わせたことになるのだろうと思うと申し訳ない気持ちにもなる。

「……沙也香どこだろ」

 柚子はそう呟くとスマートフォンを取り出した。FINEを起動して、沙也香に現在位置を聞こうとする。すると、急に上から声が降ってきた。

「ゆーずちゃん」

 声の主が誰なのかはすぐに分かる。特別変わった渾名というわけでもないが、自分のことをこう呼ぶ人は一人しかいない。

「えっ、勝元どうしたの」

 柚子は顔を上げながら咄嗟に口を開いていた。それから現在彼とは喧嘩中であることを思い出して、普通に声をかけてしまったことを少し悔しく感じ始める。

「今一人?」

 勝元の問いに、ゆっくり頷く。

「うん……」

「そっか。……よかった」

 勝元がボソッと言う。柚子は眉を寄せた。

「勝元も一人? 加賀池さんは?」

「遠山くんは?」

「……」

 質問に質問で返された柚子は黙りこんだ。スカイくんといるところ見たのかな。いや勝元が見てなくてもどうせ誰かが話して広がってたんだろうな。

「んあああもう!」

「えっ」

 いきなり大声で悶えて両手で顔を覆った柚子を見て、勝元はギョッとしたような顔をした。

「勝元のこと言えない……ほんと私最低だ」

 悪いことだと思わないでほしいと澄空からは言われたが、そう思わずにはいられなかった。後悔で声にならない声を上げる柚子を見て、勝元は困ったように笑った。

「多分柚ちゃんのは俺とは事情が違うと思うけどね……」

 勝元は優しい声でそう言うと、ふと横を見て「おっと危ない」と言いながら慌てて柚子の腕を軽く引っ張った。

「わっ、あっ、見てなかった」

「すみませーん」

 見知らぬ女子生徒二人組が謝りながら通り過ぎていく。どうやらぶつかりそうになっていたらしい。

「……」

「……」

 柚子と勝元はしばらく黙っていた。勝元はまだ柚子の腕を掴んでいる。柚子は勝元の体にもたれかかるような体勢になっていた。

「……ここにいたら迷惑だね」

 勝元の胸の中で小さく呟く。

「……移動しよっか」

 勝元もそう言うと、ようやく柚子の腕を離した。ふと空の色が目に入って、柚子はドキッとした。もうだいぶ暗くなっている。

 勝元がさっさと歩き始めた。どこに行くのだろうかと柚子は思ったが、何も言わずに勝元を後ろを歩いた。

 勝元は先程柚子が澄空と歩いた道を戻って昇降口にやってきた。校舎の中は所々電気が消えていて薄暗い。当然のように靴を履き替える勝元を見て、柚子は怪訝な顔をした。

「今の時間って校舎入っていいの?」

「んー」

 勝元が何も考えていなさそうな声を上げる。

「あんまりよくなさそうだけど……だめってちゃんと言われてないんだしいいんじゃない?」

「えぇ……」

「悪いことしてるわけじゃないんだし別にいいでしょ。多分他にも誰かいるよ」

「まあ……うん……」

 柚子は結局それ以上反論はしなかった。歩く勝元をひたすら追いかける。確かに、一階にはちらほらと生徒の姿が見えた。二階に上がり、廊下をチラッと見た勝元が「あっ人いる」と言って階段に戻り三階へと上っていく。まさかとは思っていたが、やはりそういうことなのか。勝元の目的を理解した柚子は無言を貫くことにした。顔が熱くなってきた。赤くなっているのを勝元に見られていませんようにと祈るが、多分ばれているだろう。だって、後ろからも勝元の耳がちょっと赤くなってるのが分かるし……。

「お、よし誰もいない」

 四階に上がると、勝元がホッとしたような声を上げた。勝元はそのまますれ違う窓を観察するように見ながら廊下を歩き、やがて止まると窓を開けた。

「……ちょっと遠いけど、見えるよ」

 勝元が言う。柚子も勝元の隣に立つと、サッシに手を乗せて窓の外を眺めた。グラウンドには先生や生徒たちが集まっている。その中央には、まさに火を灯さんというところのキャンプファイヤーの焚き火台。

「なんで?」

 柚子は思わずそう口にしていた。眉をひそめて勝元の顔を見上げる。勝元は窓枠に肘をついて寄りかかり、さっと柚子から視線を逸らした。

「……要は、思い出作りってことだと思うんだよね」

 何の話? 柚子はそう思ったが口を挟まずに聞き続けることにした。

「ジンクスって。そんな願掛けちょろっとやったくらいで本当に人生が上手く行くわけないじゃん? みんなそんなことは分かってて本気にしてなくて、何かのために誰かと一緒に願いをかけました……っていう思い出を作りたいんだと思う」

 勝元はそう言うと柚子の方を見た。

「それで……その……」

 急に歯切れが悪くなってきた。キャンプファイヤーに火が灯る。勝元の頬にも赤みが差した。

「誰かと思い出を作るなら……柚ちゃんがいいなと……思いました」

 勝元は唇を変な形に歪めながらモゴモゴとそう言った。それを見ていた柚子の顔も赤く染まっていく。今度は柚子が勝元から目を逸らした。

「陰陽師としてペア組んでるんだから、どうせやるなら幸せにやろう、楽しくやろう、っていう……願掛け的な、ね?」

 勝元が言い訳がましく言う。

「うん、そだね。幸せな方がいいよ」

 柚子はキャンプファイヤーを見つめながら軽い口調で同意した。どうにかして空気を変えたい。この雰囲気のまま過ごすのは恥ずかしい。

「……ごめんね」

 唐突に謝罪の言葉が聞こえてきて、柚子は勢いよく勝元の方を見た。

「柚ちゃんは俺のことを思って言ってくれたのに、茶化したり酷いこと言ったりしてごめん」

「あ……」

 口から微かに声が漏れる。喧嘩のことなど、この数分間ですっかり忘れていた。

「ううん……私も……きつく言ってごめん……」

 外では猷秋祭実行委員会の生徒がマイクを通してスピーチをしている。校舎の中は静かなはずなのに、柚子の耳には何も入ってこなかった。

 今でもふとした瞬間に母親のことを思い出して寂しくなる。あの日のことは一生忘れられない。この寂しさとも、一生離れられない。だが、普段の生活の中で母親のことを少しだけでも考えずに済んでいるのは、学校以外の場所でも勝元といることが多いからだ。始めは柚子が冷たくあしらってもしつこく絡んできた彼は、今や半ば家族のように毎日一緒に過ごしている。もう、それが当たり前になってしまった。近くなりすぎて、赤の他人なら気にならないことも、勝元が相手だといろいろ考えてしまう。

「……」

 柚子は再びキャンプファイヤーに視線を戻した。実行委員のスピーチはまだ終わりそうにない。だが、生徒も客も誰も話を聞いていないように見える。みんながそれぞれ楽しそうに喋っていて外は騒がしい。そんなもんだよね、ちょっと可哀想だけど。柚子はそう思った。

 遠くから見るキャンプファイヤーの炎は、あまり迫力があるようには見えなかった。熱さも伝わってこない。轟々と燃える音も、パチパチと弾ける音も聞こえてこない。だが、柚子は炎から目を離せずにいた。生徒たちが保護者に許可を取ってまで待っていたあの炎は、確かに今ここでたくさんの人たちに見守られながら燃え盛っている。この炎には、今日まで頑張ってきた人たち全員の思いが詰まっているのだ。

 猷秋祭の準備が始まってから今日までにいろいろなことが起こった気がするが、そんな日々もなんだかんだで悪くなかったような気がしてきた。

「……ふう」

 柚子は小さく息を吐くと、それから大きく体を伸ばした。

「……ま、さすがに加賀池さんも諦めて変なこと言ってこなくなると思うとようやく楽になるね!」

 柚子はおちゃらけてそう言ってみたが、見ると勝元はなんだか神妙な顔をしている。

「え、何……」

「いや……」

 勝元はかなり言いにくそうにしている。

「キャンプファイヤーは断れたけど……今度一回デートすることに……なり……ました」

 前言撤回。

「ハァー? 何それ!」

 気がつけば柚子は大声を上げていた。

「なんでそうなるの? えっなんで?」

「だってさー結構しぶといんだよふみちゃん! あんな子だと思ってなかったよ俺だって!」

「知らないよ! いい加減ちゃんと断りなよ!」

 柚子と勝元の声が廊下に響き渡る。勝元の言動は一切理解できなかったが、困っているというのも事実のようだと悟ると柚子は溜息をついた。

「……心の中で誰かを嫌うのはその人の勝手だけど、本人に思いっきり嫌味を言うような人は正直どうかと思うよ。気をつけなね」

 柚子は事務的にそう忠告した。勝元は気まずそうな顔で黙りこんでいる。柚子はもう一度深く息を吐いた。



 キャンプファイヤーの火が小さくなっていく。実行委員のスピーチが終わってからだいぶ時間が経った。一部の生徒はキャンプファイヤーを眺めるのに飽きてスマートフォンを弄っている。客の中には途中で帰ってしまった者もいるようだ。

 話すこともなくなり、勝元も飽き始めていた。柚子は窓の枠の上に両腕を重ね、その上に顎を乗せてじっとキャンプファイヤーを見つめている。勝元は炎ではなく彼女を観察することにした。可愛い。めちゃくちゃ可愛い。横顔が可愛いのってそれはもう本物だよね。

 目が大きい。睫毛が長い。鼻は小さい。口は一見小さいが、笑うと結構大きく開くので何とも言えない。厳密には可愛い系と綺麗系のどちらなのかと問われるとどちらとも言えるような気がして答えられないが、とにかくとても整った顔立ちをしているということは事実だ。

 触ったことはないが、その髪は絹のように滑らかなのだろう。微かに赤く染まった頬も触り心地が良さそうだ。小さく膨らんだ唇はきっととても柔らかい。

 彼女がとても優しい性格の持ち主で、甘いものを中心に食べることが大好きだということも、正体を隠して頑張っているということも知っている。でも、もっと知りたい。例えば、その肌に触れた時にどんな反応をするのかとか。

「綺麗だね」

 柚子がキャンプファイヤーを見つめたままぼんやりとした声で言う。

「そうだね」

 勝元は柚子を真っ直ぐ見つめたままそう返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る