火のYO!心(5)

 楽屋の中に響く拍子木の乾いた音。ありさはゴクリと唾を飲みこんでから、もう一度振り向いて再び香織の方に向き直ると、目の前の光景に仰天して大きな声を上げて香織の手を離してしまった。

 すっかり元気を失くして俯いている香織のすぐ隣に、一人の男が佇んでいたのだ。

 男は半纏を諸肌もろはだ脱ぎした出で立ちで、香織の横で壁にもたれかかりながら腕を組んでいる。ありさが自分の存在に気付いたことに気付いて、男はニヤッと笑った。

「目に見えないもんってぇのは、こえぇよなぁ」

 男がゆっくりと言う。ありさは身動き一つできずにいた。

 送り拍子木だ。どうしてコンサート開始前に現れたのかは分からない。だがとにかく送り拍子木が現れたと誰かに伝えなければいけない。でも、体が動かない。

「でも、いいと思うぜそれでよ。もっと楽になろうぜ。こえぇもんはこえぇ。それの何がわりぃってんだ?」

 送り拍子木は香織に語りかけるようにそう言った。香織はゆっくりと顔をもたげて、送り拍子木の方を見る。その様子を見て、ありさはハッとした。

「香織ちゃんには取り憑かせないから!」

 ありさの叫びに、送り拍子木は小さく笑った。

「いやぁ、そんな面倒なことする気はねぇよ」

 送り拍子木はあっけらかんと言ってみせる。

「おいら、あんたらの曲は結構好きなんだ。取り憑いたら聴けなくなるだろ? そこまで考えてらぁ。……でもよぉ、居心地がいいからちょいと利用させてもらうぜぇ」

 送り拍子木はそう言って、太々ふてぶてしい笑みを浮かべる。

「曲もいいし、この姉ちゃんの隣にいると気分もいいし最高だな!」

「……」

 ありさは黙って送り拍子木を睨みつけた。

 「火のYO!心」と、どこからか感じ取った香織の疲弊した心のどちらか——あるいはその両方——に誘き寄せられて二人の元にやってきた送り拍子木は、香織の未来への恐怖心を糧に力を蓄えていたということだろう。だからあんなに大人数に悪戯を仕掛けることができたのだ。そして、香織の心は送り拍子木の妖気に当てられて更に弱ってしまっている。このままではまずい。

 ありさはポケットの中に入れていた形代かたしろを一枚取り出した。形代とは、紙を人型に切り取ったものだ。人差し指と中指で挟んだ形代を額の前に持っていき、そっと念じる。それから、ありさは形代を送り拍子木と香織の間にめがけて鋭く弾き飛ばした。

「おっと、とと……危ねぇ」

 送り拍子木は慌てて声を上げながらも、フワッと大きく跳び上がって形代をけてしまった。そして、ありさの元へ飛んで戻っていく形代に手を伸ばし、素早く手に取る。それを見た瞬間、ありさは顔を青くした。

「ほぉー、あんた結構いいもん持ってんだなぁ」

 送り拍子木はそう言ってニヤリと悪い笑みを浮かべた。ありさは冷や汗を垂らして送り拍子木を見つめた。その紙を手放してくれと叫びたいが、そんなことをしたら自分の弱点を伝えてしまうことになる。ありさは、送り拍子木が形代の特性について知らないことを祈りながらギュッと唇を噛みしめた。

「知ってるぜぇ、これをこうすっとよ……」

 送り拍子木はありさの顔を見て確信したのか、両手の指で形代を摘まむ。ありさは思わず叫んだ。

「やめて!」

 送り拍子木は構わず先端を小さくビリッと破いた。

「うっ……」

 頭に鈍い痛みが走る。ありさは頭を押さえた。

 形代とは、簡単に言えば人の魂を宿した身代わりだ。様々な使い道があるが、一つ重大な欠点がある。それは、正しい方法で処分しないと魂の持ち主にも被害が及ぶということ。

 日向家に伝わるこの形代を使用する戦法はかなり強大だが、一人で戦うには向かないものだ。今までは刀を扱う香織と共に戦うことでなんとか危機を免れてきた。だが、今香織は魂が抜けたような顔で送り拍子木を見つめるのみ。ここは自分一人の力でどうにかしなければならない。

「う……ん」

 頭の痛みが引いてきた。だが、まだズキズキする。それでも、戦わなくちゃ!

 しかし、送り拍子木はそれ以上は何もしてこなかった。呻き声を上げるありさを見て、なぜか悪いことをしたという顔を浮かべている。

「あちゃ……結構強力な呪いの人形なんだなぁ。わりぃ! これでもあんたを攻撃したいわけじゃねぇんだ、なんてったってあの歌が聴けなくなっちまうからな」

 送り拍子木はそう言うと、破れかけた形代を懐にしまいこんだ。ありさは表情を曇らせた。これでは迂闊に手出しできない。

「あんたたち、何してんだ!」

 扉の向こうから急に声が聞こえてきて、ありさはハッとした。マネージャーの声だ。

「最後の公演だってのに締まらない……! どこまで周りに迷惑をかければ気が済むの!」

 マネージャーが激怒しているのが分かる。当然だ。本当に、周囲の人たちに迷惑をかけてばかり。だが、この危機をどうやって乗り越えればいいのかありさは分からなかった。送り拍子木と楽屋の扉を交互に見て、狼狽えた声を上げる。

「あのっ、待って……っ」

「返事をしなさいっ! 開けるよ!」

「待って……だめ!」

 ありさは声を張ったが、マネージャーはその声を無視して勢いよく扉を開けた。そして、大声で何かを言おうと大きく息を吸いこみ、楽屋の中の光景を見て口を開いたまま固まった。

「んん? 誰だ?」

 送り拍子木が首を傾げる。

「えっ? は? 誰……侵入者?」

 我に返ったマネージャーが、素っ頓狂な声を上げる。

「ははぁ、分かったぜぇ。マネージャー、って奴だろ? あんたも、目に見えねぇものを恐れてるんだな」

 送り拍子木は楽しそうに笑ってそう言うと、マネージャーの元に近づいていった。送り拍子木が離れたことで、抜け殻のようになっていた香織が小さく顔を上げた。

「な、何……」

 じりじりと近づいてくる送り拍子木に、マネージャーがたじろぐ。

「警備員を……」

「そいつが送り拍子木なの! 問題の妖怪!」

 ありさは叫んだ。

「えっ? えっ、なんでここにいるんだ」

 マネージャーは動揺した声を上げた。送り拍子木はマネージャーの様子を見て、おかしそうにケラケラと笑った。

「分かるぜぇ、失敗すんのはこえぇ。そのせいで待たせてるたくさんの人たちを悲しませることになるし、何より大切な二人が傷つく」

「……」

 ありさは黙ってマネージャーを見つめた。マネージャーは送り拍子木の言葉を聞いて動揺したような表情を浮かべたが、すぐに厳しい顔に戻ってキッと送り拍子木を睨みつけた。

「それが私の仕事だから当然でしょ。邪魔をするな!」

 マネージャーはそう言うと、なんと拳を握って送り拍子木の顔に向かって振りかぶった。ありさが息を呑む。だが、送り拍子木はマネージャーの右ストレートをあっさりとかわしてマネージャーの背後へと回った。

「あんた、可哀想な人だなぁ。大変な思いしてんのに、あの二人って結構恩知らずなんだな。今おいらが楽にしてやらぁ」

「な、なんなの……」

 マネージャーは背後から聞こえる声に怯えているようだった。まずい。送り拍子木はマネージャーに取り憑くつもりでいる。ありさはもう一枚形代を取り出した。今度こそ、当ててみせる。



「まずいね……」

 女性スタッフの一人が呟いた。柚子たちがスタッフの方を見る。スタッフは腕時計を見て困ったような声を上げた。

「三人とも来ない。会場の空気が……」

「や、やばいんですか?」

 柚子が尋ねた。隣でインカムを押さえていた男性スタッフが、無言で頷いた。

「最後の公演だからかなり緊張感があるし……公演後には最後の撮影とインタビューが控えてるらしくて。アンコールとかで絶対に押すだろうから、ここはできるだけ時間通りに始めておきたいんだけど……」

 腕時計を見ていたスタッフが苦々しい表情で言う。

「ルサルカは、今まであんな多忙なスケジュールの中でも遅刻とか本当に少なくて……業界でもすごいって言われてたんだよ。もちろん二人も頑張ってただろうけど、マネージャーの功績がでかいね」

「あのマネージャーさん、そんなにすごい人だったのね」

 椿が呟いた。スタッフは大きく頷いた。

「だから尚更ね……ファンたちも痺れを切らしてるだろうし。出てくるはずの人たちがいつ出てくるのかも分からないまま待ち続けるのって結構大変でしょ。待つのも体力使うからね」

「確かに……」

 沙也香もそう言った。既に開演予定時間から二十分近くが経過している。

「……ま、余裕で待たせる海外アーティストとかもたまにいるけど」

 スタッフはそう言って困ったように笑った。

 やがて、しばらくすると複数のスタッフたちがバタバタと忙しく動き回り始めた。怒鳴り声に近い大きな声で話し合っている者もいる。「そんなのありかよ?」「仕方ないだろ!」という声が聞こえてきて、柚子が自分はここにい続けていいのだろうかと気まずい思いを抱き始めたところで、一人の女性スタッフが柚子たちの元へと駆け寄ってきた。

「これ、つけて」

 そう言って差し出してきたのは、それぞれ赤と青と緑に彩られた小さな機械だ。

「え? なんですかこれ?」

 柚子が尋ねる。

「ピンマイク。『火のYO!心』、歌えるよね?」

「……えっ?」

 三人はワンテンポ遅れて声を上げた。

「なんか振り付けに合わせていい感じにパート分けて歌って。会場の空気が結構やばいからとりあえず上がって」

「え、え、え?」

「早くつけて! それとこれ、追加の拍子木」

 柚子が慌てふためいていると、女性スタッフは声を荒げた。

「え、待って待って」

「私たちが上がったら、むしろもっと険悪な空気になるんじゃ……」

 沙也香と椿が戦慄してそう言ったが、スタッフは聞く耳も持たない。三人はただ流されるままにピンマイクを装着し、両手に拍子木を持つことしかできなかった。

「定位置について! 三十秒後に上げます」

「マジ……?」

 柚子は信じられない思いで呟いた。

 「火のYO!心」のイントロが流れ始める。会場から凄まじい歓声が聞こえてきて、三人は互いに顔を見合わせた。ルサルカの二人がいない中、正体不明の三人のバックダンサーだけがステージ上で歌って踊るという前代未聞のコンサートが始まろうとしている。

「やばいね……」

 柚子たちの乗っているせりが振動して、ゆっくりと上昇し始めた。

「でも……」

 沙也香が重々しい声で言う。柚子たちの姿が見えるまで、あと五秒もない。

「やるしかないのね……」

 椿が、心を決めた表情でそう言った。

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