第39話 想像の人物

 誰なのか分からない。しかし鏡に映る全くの別人が日々、私の横に座り大学の講義を受けている。周りの皆もそれを不思議には思っていない。

 夕食の際もごく自然にこの女は私の隣で食事をとっている。夫も母もこれについて何も言わない。普段のままだ。夫にいたってはまだ想像の逸脱を心配している。しかしもはや想像ではなく、この人物は現実にすでにここにいる。


 母と弟はここ最近、アパートの立退たちのきの件について話してばかりいたが、その会話にこの男が当然のように口を挟み意見を述べる。


 私の想像に反応した鏡はトイレの前にある。それひとつだ。そこに映った別人もこの人物ひとりきりだ。しかし私の世界は完全に分界を始めたようだった。

「お前は誰だ」

「お前だよ」

 常に笑ってそう答えるだけで、それ以上は何も言わない。そのうちこの人物が、つまりは私が「不審者」であり、かつ「覚醒者」であると疑われるかも知れない。そうなれば社会の混乱の原因にされてしまう。それ以上に以前よりもさらに私自身が分からなくなってしまう。辻褄だ。必要なのはこの人物と私のあいだの辻褄だ。私の辻褄だ。


 この人物はときに姿が見えなくなる。はじめはほんのしばらくの間であったが、次第に丸一日いなくなるようにもなった。全く私ではない私が、私の知らないところで何をしているのか。


 そのころ家の近所で、また不審者を目撃したという情報が出まわり騒ぎになっていた。

真美まみ。最近こっちの方まで不審者が徘徊してるって話しは聞いてる。気をつけてよ」

 何気なく母が言う。

「この辺なの。アパートの方じゃなくて」

 そう答える私の横でソファーに腰掛け、鏡の想像の女がうなづいている。

「どんな人なの」

「どんな人って。見た目は何もおかしくはないんだけど、想像の産物らしいことは確かだって警察が言ってるのよ。大変でしょう。想像に辻褄が合うと思う? 何するか分からないと想像しちゃうわよ」

 母は、私の死でふさいでいた気持ちを、この不審者騒ぎで忘れてしまったように元気を取り戻していた。ネットやテレビなどに拡散され、自由に動き回る私よりはるかに危険なものであることは確かだ。実際ここにいて、現実に生活しているのだ。それをだれも不審に思っていない。




(つづく)


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