第35話 想像の規制と自由
ネットやニュースにはまだ私が氾濫していた。それは間違いなく私だった。夢でも幻でもない。この私であり、いままで私に起こってきた事実であった。これらは私からはみ出した私の心ではないだろうか。外に肥大化した私が社会に散らばり、社会はこれをひとつの情報として、辻褄に合わせて処理している。それがネットやテレビに流れている。そう考えた。
「皆さんが求めるだけ鏡はあるのです」「体を傷つけることも重要です」「体が一番分かりやすい自分ですから」。「鏡割り」の講習で講師がいった言葉だ。それを思い出していた。
自分で自分に合った鏡を作ればいいのかも知れない。想像で構わないはずだ。いずれにせよこの世は作り物だろう。その鏡に映る自分に安堵していればすむことじゃないか。
私は先ず女性になることにした。そして一番、収まりのいい、役割のはっきりしていそうな母になることにした。つまり父の妻になることにした。父には妻が二人いることになるが構わないだろう。そう想像することにした。これで少しは分けのわからない鏡から逃れられるかも知れない。あるいはさらに強固な鏡に映し出されるかもしれないが、それはどうでもいい。私が想像し作り出した鏡には違いない。私の現実の創造には違いない。
その日、母が出かけている隙に思い切って父に話してみた。
「私、お父さんの奥さんになってもいいかな。結婚するの。嫌ならいいんだけど」
「えっ、俺の奥さん」
父は驚いたように答えた。
「そう。想像で」
「それは、別にいいけど。実は俺もここしばらくは、そう考えていたんだ。お前の状態が良くないことは気づいていたからな。それでなにか落着けばいいとは思っていたよ。お前が良ければ、父さんは構わないよ。でも想像ではまずいだろう、現実でなければ。想像をしてはいけない決り、お前も知っているだろう。道徳とか倫理で教わったはずだぞ。辻褄の範囲内で、方法にのっとってしか想像は認められていない。勝手な創造につながるからな。社会が混乱してしまう」
「じゃあ、実際にそうするわ。奥さんが二人になるけどね」
「現実ならいいよ。母さんには俺から話しておくから」
「じゃぁあなたでいい、呼び方は」
「呼び方なんてなんでもいいよ」
と父は笑って承諾してくれた。
やさしい薬を飲んだあと、暑さがまたぶり返してきたこともあり、汗を流そうと夫とシャワーを浴び、買い物がてら少し外を歩くことにした。ワンピースからシャツとジーンズに着替え、彼と腕を組んで出かけた。
スーパーで母に頼まれていた買い物をしているあいだ、夫をおいて私はアパートへと向った。
部屋に入るといつものように母は仕事に出かけており、弟がひとりでテレビを観ている。
「ただいま」
返事はない。
「
「なに」
ぼそっと弟が答える。
「俺、お前の兄さんになるよ」
「いいけど。でも想像じゃダメだよ。また裁判になるし、前より厳しい講習を受けなきゃならなくなる。想像が美しければ美しいほど重い罪になる。創造力が強くなるからね。現実ならいいけど、準理性とかいう制度内のことだから」
弟はこちらを振り向きいつもとは明らかに違う調子でそう言った。
「それは、分かってるよ」
「それならいいけど。あっそうだ、さっき大家さんから電話があって、この辺が区画整理になるらしんだ。
「知らないんじゃないか。俺もいまはじめて聞いたぞ、そんなこと」
都市計画でこの辺りが整理され俺たちのアパートは取り壊される予定だという。大家はそれに同意しているらしい。
「母さんが帰ってきたら、話そう。じゃあ、人を待たせているから俺はまた出かけるよ」
俺は男になり兄になった。急いでスーパーに向った。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます