第30話 先輩とリスタート



「そんな悲しいこと言わないでください」


「姫野……」


 抱きついてきた姫野を剥がそうと肩に手を当てたけど。


「嫌だっ! やだやだやだっ!」


「でも……」


 姫野はさらに強く強く腕に力を入れてきて。


「先輩の嘘つきっ! デートした時ずっと一緒にいるって言ったのに……」


 無理やり引き剥がすことも出来るはずなのに、俺は何も出来なくなってしまった。


「今離したら、先輩どこか行っちゃうんでしょ!? だったら絶対離さない! 離れないもん!」


「………」


 突き放されると、拒絶されると思ってた俺は呆気に取られる。


 それに俺の胸に顔を押し付けてくる姫野は涙を流してて。


「姫野、泣いてるの?」


「……」


 嗚咽をこらえるように静かに泣く姫野に、なんて言葉をかけていいか、そもそも俺が慰めてもいいのかも分からなくて、ただただ呆然としていた。


 しばらくして少しだけ顔を上げた姫野は、まだ涙の残る瞳で見上げてくる。


「だって……好きな人にあんなこと言われたら泣きたくだってなっちゃいます」


「……もう俺の事は好きでいてくれなくても」


「お断りです! あんな先輩の自分勝手で嫌いになるはずないじゃないですか!」


「だけどこのままじゃ俺は姫野のことを汚して、日常を壊して――」


「だけどもでももありませんっ! そもそも、汚すとか壊すとかなんで先輩はそんなにネガティブ思考なんですか!」


「……」


 そう言って身体を離した姫野は、今度は俺の両手を握ってきてそのままそっと自分の頬に持っていった。


「異世界で先輩が何をしたのか知らないですけど、先輩の手は汚れてなんてないです。もしそうでもこうして汚してくれて構いません、壊してくれたっていいです。だって、あたしはそれをそんなふうには思いません」


 しばらく心地よさそうに俺の掌に頬ずりしてた姫野は手を離して、だけど決して行かせはしないとその瞳はじっと俺の事を見つめてくる。


「夢を見ました。先輩があの時に起きなかった夢です。そこから先の先輩がいたはずの数日間は何にもなくて、先輩が起きる前と何も変わらないただの日常でした。それが今のあたしはたまらなく怖かったです」


 俺はそんな姫野の綺麗な瞳から目が離せなくて、動くことなんてもってのほかで、姫野の言葉に聞き入るしかなかった。


「そこで気づきました。きっと二年前、先輩が倒れた時にあたしの時間は止まったてたんです……それが先輩が起きてくれて、また動き始めました。だから先輩が汚すとか壊すっていうのはあたしにとってリスタートした結果なんです」


「……リスタート」


「はい。もうあの停滞した時間に戻るのは嫌です、先輩がいなくなってしまうのは耐えられない……。もしも、どこかに行くならあたしも連れてってください!」


「それは……」


 きっと無理だ。あんな世界に姫野を連れて行くなんて俺が許容できない。


「無理なら先輩もここにいてください!」


 だけど、この世界にとって俺は異物で異端で、きっと受け入れられない。


「……ここには俺の居場所は——」


「あたしの隣が先輩の居場所でいいじゃないですかっ‼」


 俺の言葉を遮って訴えるように姫野が叫ぶ。


「それを誰かが文句を言ってくるならあたしが黙らせます! 先輩を否定してくるなら世界とだって戦いますっ! 大丈夫、先輩と一緒にいるあたしは無敵なんですからっ‼」


 だから、と。姫野が一歩、間合いを詰めて再び背中に腕を回してくる。


「——だから、もうどこにも行かないで……お願いだから……」


 さっきのような力強さは無いけれど、それは俺の心を強く掴まれた気がして。


 身体の触れた個所から熱が広がり、胸の内に訳の分からない感情が膨らむ。動けずにいた手足に血が通って、頭のなかを埋め尽くしてたノイズが晴れるような感覚を感じる。


 俺もここにいたいとそう思えてくる。でも……。


「これからも何度も失敗してしまうかもしれない」


「それなら、その度にあたしが全力でフォローしますから」


「もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれない」


「そうなる前にあたしが止めます。だから大丈夫ですよ!」


「そんなに姫野に甘えていいのかな?」


「もちろんです! 思いっきり甘えてください! なんてったってあたしには溢れでる母性がありますからっ! あ、おっぱいじゃないですよ?」


 そう言って姫野がいつものように笑いかけてきて、ひと際大きく心臓が跳ねた気がした。


 姫野の言葉は俺を安心させてくれる、姫野の言葉なら無条件で信じられる、姫野には全幅の信頼を寄せている。


 そんな彼女にここまで言わせておいて、どこかに行くことなんて……できはずないじゃないか。


 姫野と一緒ならどんなことでもきっと大丈夫だ。そう、本気で思える。だから——。


「俺はもうどこにも行かないよ」


 そう、まっすぐ姫野の目を見て言葉にする。


「……本当ですか?」


「本当だよ、ここにいる」


「……ずっと一緒ですか?」


「もちろん、俺はずっと姫野と一緒にいるよ」


「……信じられません」


 それも、そうか……俺は一度姫野を裏切ってるんだから、信じられなくて当然だ。


「それなら、誓約の魔法があるからそれを使おう」


「……そんなものも要らないです」


「それじゃあ、どうしたら……」


 考えが足らない俺ではこんなことしか思いつかない。


 それでもなんとか姫野からの信用を勝ち得る方法を模索してると、少し俯いていた姫野が意を決したように顔を上げて。


「……キスしてください」


 少し潤んだ瞳をじっと俺に向けながらそんなことを言った。


「キスって……」


「はい、約束のキスです。そしたら先輩を信じてあげます」


 キスってあのキス? 唇と唇を重ねるあの? 


 そんなことしたら俺は姫野のことを汚して…………いや……。


「……分かった」


「……」


 姫野の瞳を見返し、そう伝えたら、頬に手を当て軽く上を向かせる。


 ふと、頭に浮かんできたのは時間が止まってたという姫野の言葉で。


 ——きっと俺の時間もあの時からずっと止まっていたんだろう、それは今も続いてて。


 俺の手に自分の手を重ねて、ほんのりと頬を朱に染めた姫野は瞳を閉じる。


 その無防備な顔を狂おしいほど愛おしく思いながら、俺はゆっくり顔を近づけて……。


「「——っ」」


 そっと互いの唇を重ね合わせた。


 ——そしてきっと、今この瞬間から動き始める。



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