第35話 蝕む鱗
……
『ヨナに会いたければ、帝都に来なさい。……その時こそ、アナタは……。ふふ、楽しみにしてるわ。ニド』
視界を覆う灰煙に、魔女の影が浮かぶ。
目を凝らすと、魔女の遥か後方で、ぼんやりと
―― ◆ ――
「――ヨナ!」
アーシャ達が孤児院に帰っている頃、ニドは国境砦の一室で目を覚ます――幻を掴むように天井に右手を伸ばしながら。砦に来て以来昏睡していたニドは、いつの間にか個室の寝台に移されていた。石壁に囲まれた簡素な個室は、はめ殺しの窓から燃えるような夕陽が射し込み、赤く照らされている。
「……夢、か」
ニドは仰向けに寝たまま、挙げた手をどさりと下ろす。
「その名、うなされながら何度も呼んでおったぞ。……よほど大切な人なんじゃな」
ニドが首を横に向けると、寝台の横に大薬師サニタスが腰掛けていた。ニドはサニタスの言葉には応えず、重たい上体をおもむろに起こすと、両手を見つめ、確かめるように握っては開く。
「……動く。さすがは天下の大薬師と言ったところか……世話になったな」
足を寝台から下ろし立ち上がろうとするニドを、サニタスは鋭く制止した。
「待て。おぬしの体は治っておらん」
「言ったろう、治るまで待てん。動けば十分だと」
「いや、そうではない。むしろ悪化していると言っていい」
サニタスは深刻な目付きでニドを見据える。ニドはサニタスの制止を手で払い退け、構わず立ち上がり、壁に立て掛けられた大剣をがしゃりと背負う。
「自分の体だ、言われなくてもわかってる」
ニドは椅子に腰掛けるサニタスに背を向け、自らの腹に軽く手を当てる。黒い革服に隠れたその腹は、もはや人の肌をしておらず、黒き鋼の鱗に覆われていた。
「ヒトの身に戻りきれておらん。腹、腰、脚、そして体内。胸から下のほとんどが鱗に蝕まれておる。死神の釜で何かあったな? このまま変身を続ければ、いずれ――」
ニドの背に語るサニタスの助言に、ニドは背を向けたまま首だけ振り返る。
「関係ねえ。いずれ、のことは。今がありゃ十分だ。俺は今、ヤツを斬りに行く。それに……。じゃあな、世話になった」
そう言ってニドが部屋を出ようとした時、ガチャリとドアが開いた。
「やあ、ニド。起きたのかい」
「……ユウリイか」
ドアを開けて姿を現したのは、ある剣を携えたユウリイだった。ユウリイはドアの前に立つニドを避け、部屋の中へ入る。
「君の容態はサニタス翁から聞いたよ。戻れなくなりつつあると」
「それがどうした」
「……宣言しに来たのさ」
「何を」
ユウリイは少しうつむいてふうと息を吐くと、キッと顔を上げた。
「君を斬る」
「ほう」
面白えじゃねえか、やれるもんならやってみな……ニドはそんな余裕の笑みでユウリイを見下ろす。
「君が魔獣になってしまったら脅威だ。その時は僕が斬る……この樹剣ユグドラシルで」
ユウリイは携えた琥珀の剣をニドに突き出して見せた。それは森羅万象を斬る王家の宝剣、樹剣ユグドラシル――ユウリイが死神の釜で密かに回収していた物だった。
「甘ちゃんだな、てめえは。脅威だってんなら、寝てる間に斬りゃあ良かったのによ」
「ああ、甘ちゃんさ。加えてお人好しだ。後始末は僕がやる。……だから安心して暴れるが良い。君らしく」
思い返せば、ユウリイはいつも先行して暴れるニドの後始末をしてきた。ニドはユウリイを信頼して暴れ、ユウリイもまたニドを信頼しているからこそ共に行動してきた。
今回も一緒だ。ただ違うのは、今回の後始末は、最後の後始末になる、ということだ。すなわち、ニドの命を絶つということ。それは自分がやらねばならないと、ユウリイは決意していた。
「今から1週間後、樹士団の進攻と同時に帝都の反体制組織が蜂起する。帝都で暴れるつもりなら、その時がベストだ。僕はこれから先行して帝都に行く。英雄率いる反体制組織と合流するためにね。一緒に行くかい、ニド」
「ああ。……ところで、アーシャはどうした」
ルクレイシアを倒すにはアーシャの炎が要る。ニドの意図を汲み、ユウリイは答える。
「聖女から聞いたが、トルネードの指示で孤児院に帰っているらしい」
「そうか。じゃあ行くぞ」
ニドはユウリイの答えを意にも介さず、部屋の外へ向かう。
「良いのかい」
ユウリイの確認に、ニドは背を向けたままニッと口角を上げた。
「アイツが家で大人しく待ってるタマかよ。
「ああ、そうだね」
ユウリイは、アーシャがダニーの制止を振り切って飛び出す姿を想像し、クスクスと笑う。部屋を出ていくニドを追いながら、出口で振り返り、サニタスに礼をした。
「ありがとうございました、行ってきます」
「全く……気を付けてな。世界樹の加護のあらんことを」
……
……
……
ニドとユウリイが部屋を出た後、ひとり夕焼けに染まる個室に残ったサニタスは、はたとある可能性に思い至り、呟く。
「樹剣ユグドラシルは、有形無形の万象を斬る……。まさか……いや、試しようが無い。世界樹の雫はもう無いのだ。……儂は儂の出来ることをするだけよ」
赤々と照らす西陽を受けながら、サニタスは重い腰をゆっくりと上げ、次の患者の待つ個室へと向かった――……
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