値打ちもの⑧
わたしは目を覚ました。車の振動のせいで、意図せずして目が覚めてしまったらしかった。正直言って、もっと眠っていたかった。ぶん殴られた顔が痛かった。電気ショックを食らった腹が痛かった。水責めのせいで酷使された肺は気息奄々の有り様だった。身体中がミシミシと軋み音を立てているように思えた。限界に近かった。もう1ミリだって動きたくない、勘弁してくれ……と、全身の筋肉が静かにすすり泣いていた。わたしは──正確には、わたしのくそったれ大脳は、その至極もっともな訴えに耳を傾け、同情を示し、それから冷酷に命じた。
そうは言ってられないんだよ、ベイビー。生きるか死ぬかだ。覚悟を決めろ。
薄目を開ける。車内を見回す。機能一辺倒の箱形の空間。拉致されたときに乗せられた軽バン。前を見た。フランケン──カワシマが運転席に座っている。こちらのことに注意を向けているようには見えない。自身の状態をチェック。手錠をかけられている。ファック。だが、それ以外の拘束はない。連中、その必要を感じなかったのだろう。間抜けども。よろしい。非常に運がいい。
筋肉を確かめる。動くか? 動く。万全とはいかないが、いける。頭の覚醒状態を保て。いつやる? まだ車は動いてる。今はやめとけ。次に止まったときだ。頭の中で素早く作戦を組み立てる。よし。
フロントガラスの向こう、信号が見える。
赤いランプ。車が止まる。
今!
腹の底からありったけの力を振り絞る。立ち上がる。咆哮。そのまま一気にカワシマに飛びつく。
「な、」
やつの反応は間に合わない。わたしは勢いよく手錠の輪の部分をやつの頭に叩きつける。鈍い音。やつの動きが一瞬止まる。その隙に、一気に両腕でつくった輪の中にカワシマの頭を通した。それから一気に後ろに体重をかけた。やつの首に手錠の鎖部分が食い込む。
「ぐおおおおおお」
車が急発進。カワシマが苦し紛れにアクセルを踏み込んだのだ。猛スピードで車は加速していく。とんでもない危険運転だが、わたしもカワシマもそんなことを気にしている余裕はない。
「あがあああ!」
カワシマが豪腕を振るった。避けられない。バックハンドがわたしのこめかみにめり込む。意識が一瞬灰になる。それでも離さない。今のはやつの全力じゃない。全力だったら、さっきの一撃でわたしは死んでいる。体勢が体勢だけに、やつも全力を出せないのだ。
カワシマはまた腕を振るった。今度は何とか見切って避けた。やはり、スピードが遅い。わたしはやつの打撃圏から頭部を守るため、首を思い切りのけぞらせた。
車の加速は狂気じみていく。めちゃくちゃに蛇行しているのがわかる。いまこの瞬間、コントロールが失われたら? まあ、悲惨なことになる。このまま死ぬ? かもしれない。だが、ここで何もしなくても、やはり死ぬ。
バックミラーにカワシマの顔が写る。本当にフランケンシュタインの怪物みたいな顔なんだなと思う。ものすごい形相。顔色は赤黒い。鬱血しているのだ。うまい具合に頸動脈を極められたらよかったんだが。
そのとき、やつのばかでかい手が、わたしの腕をつかむ。
凄まじい力で右前腕を締め付けられる。アホみたいな握力。筋肉が悲鳴を上げる。力が抜ける。抜ける。抜ける。
アホが。
わたしは全力で体重を後ろにかける。身体を思い切りのけぞらせる。やつの首を絞めるのに筋力は使わない。わたしの体重、この地球の重力。それがやつの首を絞めている。鎖がやつの首にめり込む。めり込む。めり込む。
わたしは哄笑する。そしてやつに言ってやる。
死ね。
そのとき、車がコントロールを失う。
横転。
世界が一瞬制止する。時間が止まる。
驚嘆すべき死の奇跡。
金属質の叫喚。
わたしは両脚を思い切り突っ張り、力を込めてカワシマの首を締め上げながら、身体をできるかぎりしっかりと固定する。衝撃に備える。
なんとかなるのか?
どれほど意識を失っていたのか。幸運にも、わたしは目を覚ますことができた。
車は完全にひっくり返っていた。まるで亀の子。わたしは今や床となった天井に横たわっている。全身がずきずき痛む。横転の際に全身を激しく打ちつけたのにちがいない。頭をこっぴどく打たなかったのは幸いだった。
カワシマは天井からぶら下がっていた。まさしく人間凶器だった両腕は、今はだらりと力なく垂れ下がっている。首にくっきりと鎖の跡があざになって残っていた。その両目は虚ろに見開かれて、この世ではないどこかに焦点を結んでいた。
悼む気は特に起こらなかった。当然だろう。自業自得だ。
わたしは無言でやつの死体を探った。とりあえず、手錠の鍵を探した。それらしい鍵は幸いすぐに見つかった。わたしはそれを使って、苦心惨憺して手錠を外した。それから、カワシマはわたしの事務所の鍵を持っていたので、それも取り返した。それから財布とピストルを奪った。ピストルは、やつのガタイからすれば呆れるほどちっぽけな、グロックの9㎜サブコンパクトだった。ついでに予備弾倉も頂戴する。それらを服のポケットにねじ込んで、よろめくように外に這い出た。
外は暗かった。人気もない。周囲を見回す。
なんとまあ。例の倉庫街だ。ここから全てがはじまったのだ。ずいぶん遠くに来たように感じる。
遠くに街の灯が見える。次の行動計画を立てなければならない。とりあえず、わたしの事務所まで戻らなくてはならない。そこで態勢の立て直しをする。そのあとは……もちろん、決まっている。今さら言うまでもない。わたしは狂暴な笑みを浮かべる。
そのときだった。
「おい、あんた!」
振り向いた。見覚えのある顔がそこにいた。遠藤の倉庫で立ち番をしていた警備員だ。大型のフラッシュライトをこちらに向けている。こんな遅くまでどうしたんだ? シフト制とかないのだろうか、とわたしはぼんやり考えた。
「あんた……あれ、あんた、探偵さんじゃないですか? どうしたんです? その車はいったい?」
わたしは無言でグロックを抜き、警備員に突きつけた。
「ひい」警備員はライトを取り落とし、その場にへたりこんだ。どうせ大した武器は貸与されてないのだろう。突然の死の恐怖になすすべもなく、完全に動転している。かわいそうだが仕方ない。いつものように愛想よく振る舞っている余裕はない。
わたしは言った。
「今から言うことをやってくれ。今すぐ」
「ひい。はい。何をしたら」
「ひとつ、今すぐタクシーを呼べ。ひとつ、おれがここを立ち去るまで通報するな。ひとつ、おれがここにいたことを警察に漏らすな。以上」
わたしはそこで、ニヤリと笑った。
「頼むぜ?」
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