第18話 過去

 そして中学一年生の夏休み。ぼくが毎日を家の中で過ごしていた。

 ぼくが自分の家庭が徐々に崩壊していくのを観察しているだけだった。

「ちょっと! どういうことなのよ!」

 お母さんがお父さんに怒鳴り散らす。

「おれだって何が何だかわからないよ! おれはなにもしてない。なにも関わってないんだ。けど、気づいたら全部おれのせいにされて」

「ちゃんと説明すれば。証明すればいいじゃない!」

「そんなのおれだってやったさ。けど、出てくる資料はなぜかぜんぶおれのせいになってる」

 お母さんは言葉を失う。「なんでこんなことになるのよ」前髪を力なく握りしめる。

「あいつだよ。あいつが全部自分がやったことをおれのせいに改竄してなすりつけたんだ。治験がなかなか進まないからって、勝手に開発中の薬で人体実験しやがった」

「あいつって誰よ?」お母さんがお父さんを見る。

 お父さんは恨めしそうにその人物の名前を言った。

 お母さんは悔しそうに泣き出す。「けど、あなたはこんなに頑張ってきたのに、これで終わりなんて。そんなひどいことがあっていいの」

 お父さんはその言葉に返事をせずに、ただ溢れ出る怒りを拳を握る力に込めていた。

 そしてその日から家の中が変わってしまった。

 崩壊はいつだってぼくらの背後にいて、気づいた時には手遅れになってるんだ。

 お父さんはぼくの夏休みと同じようにずっと家の中にいた。服も着替えずに、ただ呆然とテレビを眺めてお母さんがつくってご飯を食べて寝る。

 お父さんの家での態度が徐々に変わっていった。苛立って声を荒げることが多くなる。

 お母さんとお父さんは口論することが増えた。

 お母さんがなにを言ってもお父さんは家の中にずっといた。

 次第にお母さんもずっと同じ服を着るようになった。洗濯も料理も掃除もやめて朝からお酒を飲むようになった。家に運ばれてくるラーメンや缶詰、お弁当などを食べては、そのゴミを家の中にためていく。

 ぼくはただそれを眺めていた。

 家の中は目に見えて変わっていく。

 埃っぽくなっていき、ゴミが溜まっていき、洋服は洗濯されずにそこら中に散らばり、食器は洗われずにシンクに溜まっている。

 そしてその状況に耐えられなくなったのか、今度はお父さんは汚い格好で家から出るようになった。お昼ごろに出て夜遅くまで帰ってこない。

 夏休みが終わってもぼくは学校に行かなかった。お父さんもお母さんもぼくなんて見えていないように生活している。ぼくもその方が気が楽だった。

 この状態がずっと続くのかと思った。けれど違ったんだ。一度悪い方向へ転んだら、どこまでも落ちていくしかない。

 家族を崩壊させる一通の手紙が届いた。

 借金の催促状。

 お母さんは愕然とした顔でその封筒を開いた。それから何通も届いた催促状に書かれた金額はお母さんを発狂させるのに十分すぎるものだった。

 お父さんとお母さんは顔を合わせるたびにお互いの苛立ちと失望をぶつけ合った。

「いったいどうしてこんな借金してんのよ!」

「しょうがないだろ! おれだってやめたいけど、自分じゃどうすることもできないんだよ!」

「ギャンブルにハマるなんて、ほんと、どうしようもないわね」お母さんは吐き捨てるように言う。

「こっちはストレス溜まってんだよ! 何かで発散させなきゃいっぱいいっぱいなんだ!」

 見えているものが音をたてて崩れていくようだった。

 ぼくは時折ベランダに出て夜空を眺める。昔よく舐めていた飴はもうここにはない。月の光が家の中に差し込む。

 ぼくは耳をつぶって背後で交わされるお父さんとお母さんのののしり合いを聞いていた。

 現実は悪化する一方だった。

 借金の催促に玄関の扉を乱暴に打ちたたいて大声で罵る人が現れた。

 近所の人からも文句を言われた。

 お父さんもお母さんも衰弱しきって、顔を合わせても喧嘩をする力すら失っていった。

 そしてある時それは不意に訪れる。

 ぼくがいつものように部屋の隅にいたら絞り出すような息が聞こえた。呻くような、嘆くような、潰れたような今まで聞いたことがない呼吸音に身の毛がよだつ。

  でも、その絞り出すような声の主が助けを求めているように聞こえて、ぼくは震える足を懸命に動かして傍に寄っていった。

 台所から聞こえる。

 一歩一歩近づく。

 激しく乱れた息遣い。

 ぼくは目を見開いた。

 お父さんがお母さんに馬乗りになり、その首を絞めていた。お母さんの手が力を無くして床に落ちる。

 お父さんは首をよじってぼくを認めた。その眼は光を無くし、泥水に浸かったかのように濁っている。徐々にぼくに近づいてくる。ぼくはその場から一歩も動くことができない。

 お父さんが両手をぼくの首へと伸ばす。

 と、その時に突然扉を乱暴に開けようとする音が響いた。

「いるのはわかってんだよ! 今日こそ貸したお金返してもらいますよ」

 がちゃがちゃと鍵を弄る音。錠が回る。扉がゆっくりと開く。

 お父さんは慌ててベランダに出た。そしてぼくの顔を見ると申し訳なさそうにその身を五階から投げ出した。

 誰かが家に踏み入ってくる。

 外で何かが地面に叩きつけられて潰れる鈍い音がした。

 それから先のことはよく覚えていない。

 一人の男の人が、お金のことも他にぼくが必要としていることもすべて処理してくれたようだ。そしてその人は子供は一人で生きていけないからとぼくを新しい家に連れてきた。

 なぜそこまでしてくれるのかぼくにはわからなかったが、男の人は何度も何度もぼくに謝って親切にしてくれた。

 車に乗せられてどこかに向かう途中に考えていた。お父さんが言っていた薬はどこにあるんだろう。如月がいなくなったあの日からぼくの身体は空っぽだった。あの薬が完成していたらぼくも、如月も、お父さんもお母さんも幸せになれたのだろうか。

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