第13話 過去

 次の日。決意がまだ身体の中で燃えているうちにぼくは如月朋子の家に向かった。彼女に渡したいものがあった。それはぼくが一番好きな飴だった。可愛い包装に苺やオレンジ、レモンの味。お母さんは一カ月に一度ぼくにこの雨を買ってくれる。一袋に十五個しか入っていない飴をぼくはいつも夜空の星を見上げるときに眺めていた。飴を舐めながら星を見ていると、なんだか自分の視界に甘い香りが広がっていく気がした。

 大好きな飴だった。だから彼女にあげようと思った。

 三階まで上ってインターホンを押す。数秒待って如月の声が聞こえた。ぼくが自分の名前を告げると如月はドアを開けた。

「どうしたの? 一人なの? 公園今は行けないよ」如月はラフなシャツと短パン姿だった。そして鼻からまた血を垂らしていた。

 心臓が引き締まる感覚。

「あの。これあげる。美味しいから」

 ぼくは飴が入った袋を差し出す。

 如月が目を丸くする。「わたしにくれるの?」

 ぼくは頷く。

 彼女はぼくと飴の袋を交互に見た後、「ありがとう」と笑った。「大切に食べるね」

「おい! さっさと扉閉めろ」背後から語気の強い男の声がする。「無駄に話すな」

 如月は肩越しに廊下の奥の様子を窺ったあとに、「また一緒に公園行こうね」と扉を閉めようとした。

 ぼくは思わず手を伸ばして扉を握った。このまま彼女を家を放っておいたら今までのぼくと変わらない。

 彼女はぼくがあげた飴をぎゅっと握りしめて訊ねる。

「どうしたの?」

 ぼくは扉を大きく開ける。

 戸惑っている如月を意に介さず、ぼくは言葉を吐いた。

「あの。もうやめてもらえますか?」

 男が奥で顔だけ出してぼくを見る。昆虫や鳥の目とも違う濁った眼だ。なにを考えて、なんで苛立ったような表情をしているんだろう。ぼくはじっと男を観察する。そして如月朋子を見る。彼女とぼくの世界を壊そうとするなんて間違っている。きっと間違っていることを知らないだろうから、伝える必要があるんだあの男の人に。

 男は立ち上がると威嚇するような足取りでこちらに近づいてきた。

 如月の肩が小刻みに震え始める。ぼくはそれを一瞥して男を見据える。

 手を触れれば届く距離に男は立った。

「ああ。なんだ。ときどきこいつを連れてく餓鬼か。用が済んだならさっさと帰れ」そう言って投げやりに手を払う。

 さっきの言葉を理解してくれなかったんだろうか。ぼくは息を吸い込んでもう一度丁寧に話す。

「もう怒るのもやめてください。殴るのもだめです。公園にも行かせてあげてください。外に立たせないでください」一度如月を見る。「鼻血は出たら痛いんです。だから、もうしないでください」

 男は最初呆けたような顔をした。その顔が徐々に歪んでいく。息が荒い。整えられていない髭に囲まれた唇が震えていく。顔が赤みを帯びていく。

「お前、ふざけるな!」男の言葉の途中で何かを察した如月が身体を動かそうとしたら、男はそれを意に介さずに拳を握ってぼくの顔面目掛けて振りぬいた。

 視界が突然歪んで変わる。天井を見上げたと思ったら、気づいたら地面を見ていた。遅れて痺れるような痛みが鼻の奥から顔に広がっていく。視界が滲む。身体を動かそうとするが固まっていて思うように動けない。

「餓鬼が、家に帰って寝てろ!」怒鳴り声が遠くの方から聞こえる。

 近くの扉が開いて誰かが出てきた。何かを男と言い合っている。世界から音が徐々に消えていく。震える手を動かして鼻に触れた。赤く滑り気のあるものが指につく。ぼくはかすかに笑った。

「ほら。やっぱり痛い」

 遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえる。視界の中で如月が心配そうな顔で何かを言っているが聞き取れない。視界が徐々に小さくなって、最後には黒で覆いつくされた。

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