第12話 過去

 その日、如月たちが帰ったあとにすれ違いように帰宅したお父さんとお母さんは緊張感のある空気で話し合っていた。ぼくは寝る部屋の窓から暗闇が広がっていく景色を眺めながら、これからの決意を固める。それはぼくは生まれて初めて感じた感情だった。誰かのために。如月のために行動する。

 お父さんとお母さんの会話の中には、ステップファミリー、本当の父親ではない、再婚するつもりだったがこんな人とは思わなかったなど、その時のぼくには理解ができなくても口調から不穏な空気を感じられる言葉を交わしていた。

 夕食の時間になる。食欲はあまりなかった。重い空気がリビングを押さえつけているようだった。

「朋子ちゃんって子とは仲がいいのか」

 お父さんが唐突にぼくに訊ねた。その顔は優しく微笑んでいる。

 ぼくは曖昧に頷く。

「そうか。あの子もなかなか複雑な家庭環境みたいだな」

「ちょっとそんな言い方しなくても」お母さんがたしなめる。

「まあ、あれだ。お前も知っておいた方がいいかもしれないが、他人の家庭の事情にはなかなか口を出せないものだ」

 ぼくは黙って箸を置いた。お父さんの言葉はぼくを喜ばせるものではない。

「そんなことこの子に言ってもしょうがないでしょ」

「いや、こいつはまだ小学三年生だが、色んなことに気づき始めてるはずだ」

「そうだとしても」お母さんの続く言葉をお父さんは遮った。

「解決はなかなか難しい。これはな、いまのおれの仕事とも関係しているんだ。資料で見たことがある。単純な問題じゃない。様々な外的要因、さらに加害者が育った環境とか、ここをこうすれば問題がなくなるとか、そういうものじゃない。まあ、だからこそおれの研究所もそういう分野に力を入れ始めたってことだな」

「あなたの仕事の話はいまは関係ないでしょ」お母さんが優しい声音で言う。

「いや、そうとも言い切れないぞ。この研究が上手くいけば少なくとも負の連鎖を断ち切ることはできる」

 ぼくはお父さんをまっすぐ見る。

「お父さんの研究ってなに?」如月を助ける方法がなにかあるのだろうか。

「ん? 気になるのか? 珍しいなお前が質問してくるなんて」お父さんはぼくの頭をがしがしと撫でる。「今の研究のメインはアルツハイマー型認知症だよ。いま老人の人口比率はかなり高くなっている。老人が政治を動かし、老人が投票し、老人が一番利益が得るような社会をつくってるからな。当然老人の方々の心配は自分の身体や精神、つまり脳だ」

「そんな言い方ないでしょ」お母さんは呆れたようにお父さんを見ている。

「まあ、それはいいんだけど、要はアルツハイマー治療の研究に多くの資金が費やされてるってことだな。どうすればボケずにいられるのか。いつまでも記憶を忘れずに若者と同じように思考できるのか。脳に蓄積された情報をスムーズに取り出すためにはどうすればいいのか。脳の様々な部分の機能や関係性、メッセージ物質や、脳だけでなく腸や骨との関係も調べている。老化は不可逆性のものだ。けれど、それを人工的な薬で正常な機能の脳の働きを促進させることができるようになる」

 よくわからなかった。けれどぼくは真剣に聞き続けた。

「今はな。アルツハイマーの研究と関連して、政府の要請でPTSDの研究も立ち上がった。少人数のチームだし、実際実用化されるかは不明だが、人を苦しめる記憶を消して未来に向かって一歩を踏み出せる薬を開発している。悪い記憶を根こそぎなくすか、悪い記憶を思い出してもそれに感情が影響を受けないようにするか、まだいくつもの方法を選定しているレベルらしいけど、もう動物実験も行われている」

「そんなに難しい話をこの子にしてもあなたの自己満足になるだけよ」お母さんはぼくに優しい眼差しを送る。

 確かにあの頃のぼくには全く理解できない知識だった。

「まっ、ようはお前も何かを思い出そうとするときに考えるだろ? その時の身体の中には変化が起こっている。その変化を人為的に起こせれば年配者に役立って、人為的に起こさなくすれば忘れたい過去がある人に役立つってことだな」

「その薬ってどこにあるの?」

 ぼくの質問にお父さんは驚いた顔になる。

「なんだ? 飲みたいのか? 残念だけどまだ薬は完成してない。これから徐々に治験とかそういうのを挟んでいってからだろうな」

 その薬ができれば彼女を救えるのだろうか。

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