第11話 過去

 ある日、如月のお母さんが如月を連れてぼくの家に来たことがあった。お母さんはぼくと如月を部屋の隅で遊ばせて時々声を震わせながらなにかを話し合っている。

「鼻血出てるよ」

 最初に会った時と同じように如月の真っ赤な血が鼻から口元に垂れていたのでぼくはティッシュを差し出した。

「ありがと」如月は笑って鼻をかむ。

 ぼくは視線をちらりと如月のお母さんに向けた後に訊ねる。

「大丈夫?」

 如月は肩をすぼめて両膝を抱く力を強めた。

「大丈夫だよ」

 如月のお母さんが時折感情を高めて声を大きくし、それをぼくのお母さんがなだめているのがわかる。

 大丈夫。この言葉にはどんな意味があるのか。如月は大丈夫だと言った。大丈夫と言われたらそれでいいのだろうか。

 本当は気づいていた。あの公園で彼女が三階のベランダからこっちをいつも見ている時から、ぼくはその違和感を受け取っていた。如月が鼻血を出して家の外に出されている時。時々殴られたような痣があったとき。

 それを自分の目で見ていて、感じていたはずなのに、ぼくは如月に何も言うことができなかった。

 彼女の大丈夫という言葉がぼくを不安にさせる。けれどその心の動きはこれまでにぼくが感じていた逃げて、遠ざけたい感覚とは違っていた。

 最初に出会った時を思い出す。虚ろな瞳で焦点の定まらない視線で遠くを見ていた。彼女には世界がどんな風に見えていたのだろう。自分を拒絶して、苦しめるものに見えていたんじゃないだろうか。居場所がなく、どこにいても疎外されている気分だったんじゃないだろうか。

 そうだ。だからこそ。ぼくはその気持ちを持っていた如月のそばにいたいと思ったんだ。

 気づいていた。お母さんに連れられて如月の家に行くときに、時折廊下の奥からこちらを蔑むような視線を送ってくる男がいたことを。そしてその男と彼女が一緒に住んでいることも。

 知っていても言わなかったのはなぜだ。ぼくは、せっかく手に入れた如月との世界を誰かに壊されるのを、その危険があることを知りたくなかったからだ。自分の見たいものだけを見ていたかった。

「夏休みももうすぐ終わるね」如月がぽつりと言った。

「うん。そうだね」心の奥底でなにかが騒いでいる。

「これからだんだんと涼しくなるのかな」

「そうかもね」

「そしたら秋になって、そしたら冬になるね」

「うん」

「そしたらさ、もしかしたら今年は雪が降るかもしれないね」

「そうかもね」

「そしたらさ。一番高い場所に行って、雪がどこから降ってくるか見てみたいよね」

「うん」自分の声が震えていることに気づいた。

 他愛のない内容の会話だ。けどぼくは絶対にその時間も守らなければと思った。彼女が見たい世界を見せてあげたい。

 たとえ自分がどんな犠牲を払ったとしても。

 ぼくは如月の手をそっと握りしめた。如月が顔を上げる。その表情には力がなかった。

「大丈夫だよ」そう告げた。それは簡単な気持ちで言った言葉ではない。ぼくの覚悟だ。大丈夫。「ぼくが必ず守るから」

 如月は項垂れたあと、小さく、けれど強く頷いた。握りしめた手から如月の温度が伝わってくる。

「絶対守るから。約束だから。忘れないでね」

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