第四章 -過去ー

第8話 過去

 ぼくが如月朋子に出会ったのは、あの忌々しい薬のことを知る何年も前のことだった。

 団地に住んでいたぼくは兄弟がいなかったので、お母さんはぼくの手を取って公園に連れて行ってくれた。小学校に上がる前、幼稚園の頃のぼくはとにかくそれが苦痛でしかたがなかった。お母さんがぼくに望むことは周りの子と元気に走り回り、服を泥だらけに汚し、いつも笑顔で溢れていることだった。けれどぼくにとって他者との交流は不安や苦痛を与えるものだった。

 いつからそうなったのか、なんのせいでそうなったのかわからないが、ぼくは他人の言葉や反応に恐怖を持っていた。自分の言動が他者の感情に影響を与えることも、他者の言動によって自分の感情が動くことも不安だったのだ。

 だからお母さんに公園に連れていかれた時も、いつも隅の方で小石を拾ったり、蟻の行列を眺めたり、みんなが鬼ごっこをしたりするのを黙って遠巻きに眺めていた。

 お母さんは「ほら、みんなと一緒に遊んできな」と言ってもぼくは首を大きく振って決して動かなかった。お母さんのぼくに聞かせるための大きなため息の音を聞くたびに、だから部屋に居させて欲しかったのにと心の中で抗議した。

 最初は誘ってくれた子たちも、徐々にぼくのことを意に介さず遊ぶようになった。ぼくにとってはそれは嬉しいことで、遠巻きにみんなが遊んでいるにも見る分にはみんなのことが好きだった。

 そんなぼくが興味を抱いたのは、いつも公園の近くの棟の三階の窓からこちらを眺めている少女だった。その子はベランダに出て、柵を両手でつかんで、いつも感情のこもっていない瞳で公園を眺めていた。その存在がぼくを引きつけた。

 なんで公園に来ないんだろう。もしかしてぼくと同じで眺めていることが好きな子なのだろうか。彼女はじっと公園を眺めていて、それはぼくがお母さんに連れられて公園から帰る時も続いている。部屋に入るように言われないんだろうか。それからいつもお母さんに公園に連れられた時は、彼女の姿をじっと眺めていた。

 夏のある日、お母さんに連れられて買い物から帰っているときにふと視線をその子が住んでいる向けた。すると、彼女が玄関扉背を預けて立っているのが見えた。外に出ていることに驚いて、遠目からでもわかる違和感に身体のなかで疼くものがあった。なにかが変だ。子供ながらに感じたその奇妙さはお母さんの手に引っ張られて自分の家に帰ったあとも身体の中に残り続けた。お母さんが掃除をして洗濯物を取り込んでいる間も彼女の姿が頭から離れない。

 ぼくはその衝動に身体を動かされて、お母さんの目を盗んで外に出た。心臓がどきどきした。いつもはお母さんと一緒に降りる階段を一人で降りて、小走りで彼女の号棟に向かう。時折すれ違う大人が視線を向けてくるが、ぼくは彼女ことで意識が埋め尽くされていた。会ってどうしようとか、なにかを話そうかなんてそんなことは考えてない。ただ、会わなければ、そういう切迫感に似たものに襲われていた。

 階段を上る。一人で上る階段は大変ですぐに息が切れる。蝉の音が急き立てるように響いている。

 ぼくが二階の踊り場から三階を見上げると、彼女は顔を横に向けて目を丸くした。地べたに蹲って、玄関に寄りかかっている彼女の鼻からは赤い血が垂れていた。

 一歩一歩段差を上って彼女に近づいていく。ぼくはしゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。

「鼻血出てるよ」そう告げる。

 彼女はゆっくりと手を鼻に持ってきて指で拭い、それを見た。

「ほんとだ」

 彼女はそこで表情を綻ばせた。

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