第5話 現在

 風呂をわかして女子から順番に入っていく。

 ちぐはぐで不器用ながらも一日が終わりそうだった。何も思い出せなくてもお腹は減るし、時間は経過していく。

 自分の部屋に引きこもることに躊躇を覚えて、みんなリビングに集合していた。添島栞は先程部屋に置かれているのを見た本をソファーに座って読んでいた。記憶に関係する本。確かにどうにかして過去のことを思い出すことができるのなら、今のこの状況を変えることができる最善の策になるはずだ。

「あの、なにかわかった?」僕は近くに行って訊ねる。

 添島は視線をもたげるとわずかに躊躇するような様子を見せるが、身体を横にずらして僕が座れるスペースを空けた。そこに腰を下ろす。

「どうしたら僕たちは思い出せるのかな?」

「それは、なかなか難しい質問ですね」添島は考えるように一度目を閉じて開いた。「そもそも記憶ってどういうものだと思いますか?」

「よくはわからないけど、生まれてから今までどこでどういうことをしたっていう情報じゃないの?」

「そうですね。その認識は間違っていないと思います。記憶の分類法は様々な方法があるらしいですが、一つには感覚記憶、短期記憶、長期記憶で分類できるものがあるらしいです。短期記憶は海馬に、そして長期記憶は大脳皮質に保存されるみたいです」

 僕はそこで添島の話を遮った。「ごめん。ちょっとよくわからないや」

「すいません。えっと。なんて説明したらわかりやすいんでしょう」添島は眉間にしわを寄せて手を口元に持ってきた。「例えば、私たちはいま昨日までの記憶がありませんが、私が今手に持っているものが本、書籍であることは覚えていますよね?」

 僕は頷きを返す。

「さらに。この本を読むこともできます。文字を覚えているからです。食べ物のことも覚えていますし、日本語も喋れます。これらの情報は忘れていないということです」

「確かにそうだね。記憶の種類が違うってこと?」

「そうです。脳の構造、さらには記憶との関連性はまだ完全には解明されていませんが、私たちが忘れているのは陳述記憶と呼ばれるものの中のエピソード記憶と定義されているものです。簡単に言えばそれぞれの人間が経験した出来事を記憶しているというものですね。本来それらは海馬を通して思い出すことができるみたいなのですが、私たちの海馬がなにか障害が起きているのか、もしくは海馬と脳の他の部位を繋ぐ部分が切れているか、一時的に塞がれてしまっているのかもしれません」

「よくは、理解できないんだけど。じゃあつまり海馬がちゃんと動くか、もしくは繋ぐ部分が働き始めれば思い出せるってこと?」

「そうですね。あと長期記憶っていうのは自分の体験した感情が強い場合は、その記憶の定着率も強くなるようです。だから、もしも今のこの状態が脳が損傷したことではなくて、人為的に作られているものだとしたら、感情を高める何か、しかも過去の記憶と関係がある外的刺激が加わったら思い出す可能性があるかもしれないですけど」

「外的刺激、か」その言葉を何度も反芻する。

「ちなみに、例えば記憶は大きく二つに分類できて、意識できる記憶と意識できない記憶があるようです。記憶はその人の人格に大きく関わってくるようなので、私たち五人がみんな記憶がないのにそれぞれ性格が違うってことは意識できない記憶が残っているからなんでしょうね。さらに、それだけじゃなくて元々持っている遺伝的要因も関係あるようですね」添島は言った。

 誰に使用していない部屋の本棚にも沢山の人体、脳、記憶に関する本が並んでいた。

 今までに得た情報を基に推測すると、僕らは旗手茂という名前の人物にここに連れてこられた。これは間違いないだろう。この家には僕らの私物と言えるものが少なすぎる。生活臭がするものがほとんどないのだ。学生だとしたら学校に関係するものが置いてあるはずだし、趣味があればそれに関係するもの、さらに写真などが置いてあるはずだ。それながないという事実は僕らが他のどこかからこの場所に連れてこられたことを意味しているだろう。さらに、連れてこられたのもそう昔ではないはずだ。先ほどすべての部屋を見ていた時には思いつかなかったが、今ならわかる。

 なぜなら僕らの冬服が置いてなかった。暖かい場所で生活できる最低限の洋服。

 そして旗手茂は記憶に関する専門的な知識を得ていたはずだ。そして、もしかしたら幼い娘がいる。これは如月が起きた部屋の様子から推測できる。

 もしかして僕が起きた部屋にあった薬剤は本当に記憶が消える薬なのだろうか。その開発に、もしくはそれを購入したのが旗手茂。なら、どうしてその薬を飲むようにみんなに勧めている僕の映像があったのだろう。

 もしくは、旗手茂は記憶について研究していて、記憶に障害がある僕ら五人を連れてこの場所に来て、記憶を戻す手伝いをしていた。あの薬は、添島が言っていた海馬の働きを正常化させるものだということも考えられる。

 頭をくしゃくしゃと掻いた。

 だめだ。答えを出すには情報が少なすぎる。やはりどこか病院でも警察でも行って状況を説明した方がいいのではないだろうか。

「お風呂どうぞ」

 思考を遮られた。

 塗れた髪をバスタオルで拭いながら如月が立っていた。頬が上気して赤くよけいに肌の白さを目立たせていた。

「ああ。うん。ありがとう」

 僕は慌てて視線を落とした。

「わかりました」添島が風呂場に向かう。

 添島が出てきたあと竜崎が、「最後でいい」と言ったので僕が入ることにした。

 脱衣所の扉を閉じてそこに背中を預ける。

 竜崎のことを考える。同年代ぐらいの同性。もっと距離が近くなってもいいはずなのに、いまだに竜崎とはまもとに会話できていない。それどころか竜崎が誰かと話しているのを見たこともなかった。いつも訊かれたことに対して最低限の返答をするだけで、大きな壁をつくっていた。

「記憶がなくて、他人だけじゃなくて自分のこともわからなかったら警戒するのも当然か」

 ため息をついて服を脱ぐ。

 鏡に映った自分の姿を見て身体が固まった。

 目を見開く。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、浅く薄い息しか吐くことができない。

 心臓が膨らんでいくように体中が脈打っている。

 ゆっくりと手を動かして自分の腹部に触れた。

 そこにマジックで殴り書きされたような文字があった。鏡に映された文字はひっくり返って読めなかったので、下を見て文字を読む。

 ケヤキの木の下。

 血の臭い。

 誰かが操作している。

 犯人は誰だ。

 高ぶった感情を押し込められたかのような文字の羅列。

 呼吸が浅く、速くなっていく。

 どういうことだ。読みとった文字から連想されることは残酷で危険で、とてもじゃないが現実味がないものだった。

 犯人。血。もしかして記憶を失う前にこの場所でなにか起こったのか。

 心臓が強く脈打つ。

 みんなにこのことを伝えなければと脱衣所から出ようとした。

 けれど扉を開ける手を止めた。

 誰かが操作。犯人。

 その言葉の意味を考える。

 僕はあの四人のことをよく知らない。もしかして、犯人はあの四人の中にいるんじゃないのか。犯人というものが具体的に何を指しているかはわからない。けれど、悪意を持った人物があの中にいる可能性がある。

 だからこそ、僕は他の人が見れないようにシャツで隠れた場所に文字を残したんじゃないのか。

 落ち着け。

 呼吸を意識的に遅くする。

 とにかく頭の中を整理しよう。

 服を脱いで折りたたみ、僕は風呂に入った。

 身体を洗っても文字を消す。

 さて、どういうことなのだろう。

 この文字を書いたのは僕自身だろう。それは文字が書かれた方向から推測できる。そして、自分の身体に書いたということは、記憶をなくしたあとも忘れてはいけないと考えたのだろう。つまり、この文字を書いたときの僕はその記憶がなくなることを想定していたことになる。さらに服で隠れる場所だったということから、それが他の人の目につかないように気をつけられていたことがわかる。

 その他の人とは誰を指しているのだろう。この家の中にいる四人なのか。それともその他の人物なのか。まだ出会ってないが旗手茂なのだろうか。けれどこの家にその人はいない。いないなら文字を隠す必要もなくなる。

 湯船に浸かって身体を温める。

 もしもこの中に。この四人の中にそのひどいことをした人物がいるなら、そしてその人がこの状況を作り出しているなら。なら僕がみんなに飲むように促したあの映像はなんだ。脅されて撮られたのだろうか。もしくは全く関係がない映像をこの場で見たから、あたかも記憶が消えたことと関係していると勘違いしてしまったのだろうか。

 疑問が身体の中で暴れまわる。

 そして一つのことに思い至る。

 朝目が覚めた時に腕に書かれていた文字。

 如月朋子。

 もしかしてこれは、犯人を見つけた記憶がなくなるまえの僕からのメッセージなんじゃないだろうか。

 そうだとすると如月が犯人なのか。

 あんなに優しそうで、他人の悪口すら言えそうにない子なのに、それがなにか残虐なことをしでかしたというのだろうか。

 僕は頭を掻いた。

 だめだ。考えても考えても思い出せない。

 とにかく周りの人に気づかれないようにケヤキの木の下を探ってみよう。なにか手がかりがあるはずだ。全員でこの一戸建ての中を調べたときに、庭は見なかった。ケヤキの木というのはおそらく洗面所から見えるあの木のことを指しているのだろう。

 そこで思い出す。如月と庭に出た時に覚えた異臭。

 そこにいったい何があるんだ。

 目を瞑って必死に思い出そうとする。

 恐怖と不安が胸の奥で渦巻くが、肝心の記憶は蘇ってこない。

 くそっ。なんでなにも思い出せないんだ。

 苛立ちで強くお湯を叩いた。

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