第二章 -過去ー

第2話 過去

 もしもいま記憶を消す薬が手元にあったなら、それを飲んですべて最初からやり直すことができるのだろうか。

 もう一度あの世界が色づくような感覚を味わうことができるのだろうか。

 自分の手のひらを見る。

 今はなにを見てもなにも感じない。

 あの子がいなくなってから、目に映るすべてのことに価値がなくなった。

「海は好きかい?」

 声をかけられて我に返る。

 運転席から白いポロシャツとクリーム色のチノパン姿の男の人が笑顔を向けてきた。

 ぼくは窓の外を見る。海がある。

「もうすぐ着くよ。歩いて海に行けるから、嫌いじゃなかったら夏になったらみんなで行くといいよ」

 ぼくは視線を男の人に戻す。

「ああ。みんなっていうのはこれから一緒に生活していく子たちのことだよ。みんな君と同じ中学二年生だ。元気で明るくて素直な子たちだからすぐに仲良くなれるさ」

 男の人は左手を伸ばしてぼくの頭を撫でる。

「ごめんな、こんなことになっちゃって。でも、きっと大丈夫さ」

 男の人が悲しそうな目になる。

 車がスピードを落とす。滑り込むようにわき道に入り、大きな一戸建ての前に停車した。脇には大きな桜の木が植わっていた。ピンク色の綺麗な花びらが風が吹く度になすすべもないように揺れた。

 ドアを開けて外に出ると粘り気のある空気が身体を包む。

「ここがこれから住む家だ」

 家に近づくと中からは人が活動している気配が漏れ出ている。すべてのことに現実味がない。なにをこれから見て、どんな記憶が生まれようがぼくにとってはもうどうだっていいことだ。



「石黒菜月」

 彼女はそう言ってぼくの前に胸を反らせて立った。

 髪を金色に近い色に染めてきつめの目つきをしている少女。

 偉そうな態度だ。同じ中学生のくせになんで上から目線なんだ。それにこの年で髪を染めている。

 その子のことをじっと見る、ぼくを連れてきた男の人が近づいてくる。

「今日から一緒に生活する子だ。みんな同い年の中学二年生。仲良くできるといいな」

 その人はぼくにそう微笑みかけて頭をくしゃくしゃと撫でると、さっきこの一戸建ての玄関でぼくらを迎えてくれたおじさんとおばさんと会話を始めた。

 ぼくは周囲を見回す。元々住んでたような小さな団地じゃなくて、部屋がいくつもあってきれいで大きな家だった。

「握手するか?」

 彼女が差し出した手を見る。その視線をすぐに他に移した。

「なんだ? 握手って言葉知らないの?」

 石黒は呆れたように笑った。ぼくは石黒に視線を戻す。石黒は顔をしかめる。

「なんだよ? 怒ってんの?」

 ぼくが黙っていると、

「勝手にしなよ」と石黒は離れていった。

 ぼくはその場でじっと立ち続ける。。

 冷たいフローリングが足の裏だけ身体を冷やす。ここにはぼくに触れられることを拒むような机やら棚が並んでいるだけだった。

「ええ、父親がギャンブル依存症になり、無理心中を図り、あの子だけがなんとか一命をとりとめました」

 奥の部屋から男の人の声が漏れて聞こえる。

 自分のことが説明されているはずなのに、遠くの世界の話を聞いているようだった。

 お父さん。お母さん。

 なんであんなことになったんだろう。

 これからどうなるんだろう。まあ、どうでもいいか。

「おい。お前」

 石黒が離れたところから言葉を投げてきた。

「自分の名前も言えずに、ずっと同じ場所に立ってて、きも」呆れるような声。

「ちょっと、なっちゃんそれは言いすぎじゃない?」わきからもう一人本を胸に抱えている少女が言った。

「栞ちゃんは黙ってて」

 その言葉に栞と呼ばれた子は少し困ったような表情になる。その子はぼくの方に近づいて自己紹介した。

「添島栞です。大丈夫?」

 ぼくはなにも言わない。

「あの。おじさんとおばさんがこれから一緒に住むって言ってました。だから仲良くするんだよって。あっちで一緒に座る?」

 ぼくと一緒に座りたいんだろうか。なんでこんなことを言うのだろう。

「いや。いいよ」仲良くする必要があるとは思えない。

「おい。なんだよそれ。さっきから名前全然言わないし、お前はこれからここで世話になる身なんだから挨拶するのは人として当然だろ」

 石黒は近づいてきてぼくの腕をつかんだ。

「おい! 訊いてんの?」

 ぼくは嫌悪感を覚えて腕を振り払おうとしたら手が石黒の顔にあたった。乾いた音が空気を震わせる。

 石黒が驚いたように目を見開き、自分の頬に触れて痛みを確認したあと、ぼくを睨みつけた。

「なにすんだよ!」

 石黒の鋭い視線をぼくは真正面から受ける。反応しないでいると石黒が振りかぶってぼくの顔面を殴った。

 尻餅をつく。鼻からぬめっとした温かいものが垂れてきた。

 大人たちが慌ててぼくらの間に入る。

 石黒は今にも泣きそうな顔になっている。

「ふざけんな。こっちだって別にあんたがここで生活すること喜んじゃいないんだ。せっかく歓迎の空気をつくってやったのに」

 見開かれた目でぼくをじっと睨んできた。ぼくは呆れた顔になる。

「それはそっちの都合でしょ」

 ぼくの言葉に石黒は掴みかかろうとしてきたが、男の人に止められた。

「もう。いったいなにがあったの?」

 この一戸建ての主人であろうおばさんが訊ねてきた。石黒はいまも敵意を剥き出しにして、拘束が解かれたらつかみかかろうとしていた。

「今日来た男の子の手が最初になっちゃんに当たって、そのあとなっちゃんが男の子を殴っていました」

 淡々とした、けれども緊張からか震えた声が聞こえた。添島栞が申し訳なさそうに顔を伏せる。

「ごめんなさい。どうしたらいいかわからなくて」

「栞ちゃんはいいのよ。教えてくれてありがとう」

 おばさんはそう微笑んだ。

「じゃあ、とにかく仲直りしましょ。ほら二人とも手を出して握手して」

 おばさんはかがみ込んでぼくと石黒の肩に手を置いて言った。

 石黒は鼻をすすりながら手を伸ばす。

 ぼくは自分の鼻に触れた。赤い血が指に着く。ああ、鼻血だ。昔の記憶が頭に浮かぶ。

 しゃくりあげるような音がする。視線を上げるとさっきまでぼくを睨んでいたはずの石黒が、目から涙をこぼした。

「もう勝手にしろよ」

 石黒はそう言い残すと家の奥に消えた。空気が張りつめている。

「ほら、みんな大丈夫よ」

 おばさんは両手を合わせてあと、優しい声でそう言ってみんなを見回した。

 なんでみんな泣いているのだろう。なにが悔しくて、なにが悲しかったんだ。

 ぼくは石黒が消えていった方を観察する。

 と、視界に陰が入る。見るとさっきぼくを出迎えたおじさんが立っていた。怒られるのだろうか。ぶたれるのだろうか。

 そう思ってじっとおじさんの手の行方を視線で追いかけた。

 するとおじさんの大きな手が伸びてきた。

 けれど予想に反して、おじさんはぼくの頭を優しく撫でた。

「大丈夫。大丈夫だからな。何も心配しなくていいんだ」

 おじさんは目に涙を溜めていた。

「大丈夫。大丈夫だ」

 優しく、何度も何度もぼくの頭を撫でた。

 なぜ大人はぼくの頭を撫でたがるのだろう。

 深いため息をついたら、自分の視界に入ったものに目を見開いた。

 なんで、ここにいるんだ。

 体中の血がいきなり強く流れ始めた。心臓が強く鼓動を繰り返す。

 彼女は怯えたように辺りの様子を窺いながら奥の階段から降りてきた。

「あの、みんなどうしたの?」

「大丈夫。みんなちょっとびっくりしちゃっただけだから」おばさんは優しくそう言った。

 彼女は順番に視線を巡らせたあと最後にぼくを見た。

「新しく一緒に住む?」彼女は口元に手を当てて考える仕草をする。それからとたとたとぼくの方に歩いてきて、手に何かを握らせてきた。

「これね。あげる」彼女は笑った。「新しい子が来たらあげようと思ってたんだ」

 ぼくは手を開く。可愛らしく包装されている飴玉だ。

「お腹が減ったら幸せになれないっていうもんね。わたしこのお菓子大好きなんだ。他のどんなものを嫌いになっても、これだけはずっと好きな気がする。うん」

 優しい声が可哀想なほど室内に響く。

「あ、あの」ぼくは声を出した。「覚えてる?」

 如月は困ったような表情になる。

「えっと、はじめまして、だよね」

 身体を流れる血液が冷たくなる。

「はじめまして。わたし、如月朋子だよ」そう彼女は無邪気に笑った。

 そんな。信じたくなかった。怖くて足が震えそうになった。ぼくはまたなにもできなかったんだ。彼女を守ることさえも。

 そして信じられないほどの怒りが身体のそこから湧き上がってきた。

 なんだよ。そういうことか。

 あの薬のせいだ。

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