第一章 -現在ー

第1話 現在

 瞼を開けたら太陽の光が視界を白く染めた。部屋で舞う埃が窓から差し込む光を反射していた。ゆっくりと瞬きを繰り返す。目が徐々に慣れてくるとところどころにシミがある天井が見えた。ぼーと木目の模様を眺めていたら少しずつ頭がすっきりしてくる。

 視線を動かす。木の柱に古びたタンス、自分が寝ている布団を見る。日に干したあとのような柔らかい匂いがした。右手を持ち上げて顔の前に持ってくる。

 掌を見た後、裏返して手の甲も見た。

 そこで、自分の中にある強烈な違和感を自覚した。

 なんだ。これは。

 思考がはっきりとしてきているのに、自分がなぜここにいるのかわからない。それどころか今がいつだか思い出せない。

 身体を起こす。自分の全身を見る。

 考える。必死に思い出そうとする。けれどもわからない。

「僕は、誰だ?」

 自分が何者かということもわからなかった。

 立ち上がる。半袖と短パンの自分の服を見る。自分の身体だという確信はもてるし、身体を動かすことに違和感もないのに、どうしても自分の名前と存在が思い出せない。

 昨日という概念は理解できるのに、自分が昨日どこにいて何をしたのかさっぱりわからない。それどころか二日前、三日前、どんなに日にちを遡ってもいっこうに記憶をつかむことができない。気温はそれほど高くないのにじっとりと全身が汗ばんできた。

「なんだよ、これ」

 四畳半ほどの部屋の中をぐるぐると回る。フローリングを踏むたびに震えるような軋む音が響く。

 ここは自分の部屋なのだろうか。それにしては物が少なすぎるし、何よりこの部屋には生活感がなかった。

 古びたタンスを開けてみると中にシャツや下着やら洋服が詰まっていたが、それ以外に物が存在していなかった。机もなければ本棚も、趣味と呼べるような雑貨も何一つない。

 民宿か、もしくは誰かの家の客室か、それとも他の何かの施設か。

 布団の脇には小さな瓶が置かれていた。その中には大量の薬が詰め込まれている。ビタミン剤かなにかだろうか。

 カーテンのない窓から外を見る。少し離れたところにある背の高い木々が視界を遮っていて遠くを見渡すことができないが、ここが住宅が所狭しと建ち並ぶ都会ではないことは理解できた。風が吹くと樹木が葉を揺らし、窓が少し震える。

 窓に映るおぼろげな自分の姿。

 目を凝らしてみるが鏡ではないので上手く映らない。

 顔を見れば何かを思い出すかもしれない。自分の顔を確認したくなり僕は洗面所を探そうと部屋を出ようとした。ドアノブに伸ばした手が外の気配に気づいて止まる。

 誰かいる。

 息を潜めてこちらの様子を窺っている気配がした。

 誰か他の人がいるのだろうか。同じ家にいるということは家族なのだろうか。そもそもここは僕の家なのだろうか。

 もし仮に今現在僕が犯罪に巻き込まれているとしたらどうだろう。

 誘拐。監禁。

 扉の向こうにいるのが僕をこの場所に拘束している犯人だとしたら。

 そうだとするなら今扉を開けるのは得策ではないだろう。むしろ、布団に戻り相手が扉の向こうから去ったあとに状況を確認したほうがいいんじゃないか。

 いや、そうだとするならこの部屋で自由に動き回れることに説明がつかない。窓にも鍵が掛けられていないし、窓から見える風景からここが一階であることはわかるから逃げようと思えば簡単に逃げられる。そしてこの室内にも危険な気配は感じられない。

 とするなら、扉の向こうにいる人物は顔見知りだろうか。それならなぜ向こうから扉を開けないんだ。まるで、こちらの出方を窺っているようだ。

 疑問が渦巻く。身体が緊張から解かれない。

 扉を開けることを躊躇していたら、ドアノブがゆっくりと回りだした。

 身体が固まる。心臓が大きく鼓動する。嫌な汗が背中を流れる。

 ドアノブが回る軋む音が鼓膜を撫でる。

 視線を動かすことができない。

 おずおずとしたように扉が引かれて開けられた。目の前に飛び込んできたのは予想してた強面の男ではなく、他人を害するなんてことが到底できなさそうな少女だった。少女の姿に驚きつつ、なぜか同時に懐かしさを覚える。僕は目の前の彼女のことを知っているのだろうか。

 何を言えばいいのかわからなくて黙っていたら、彼女も言うべき言葉を探しているのか口を開けたり閉じたりしている。

 肩より下に伸びる黒髪に、幼い印象を与える柔らかい顔立ち。白い肌に大きな瞳、薄いピンク色の唇。僕の肩ほどの身長で、ゆったりとしたシャツとスカートを着ている。可愛い。自分の名前はわからなくても彼女が異性の目を引く容姿をしていることは瞬時に理解した。

 彼女を見たら段々と気持ちが落ち着いてくる。自分以外の存在と出会うことでなにかしらの安心感を得られたのだろうか。

 彼女は僕のことを知っているのか。

「あの」僕が口を開くと彼女は大げさに驚いた。

「は、はい」緊張したのか直立の姿勢になっている。

「えっと、ここってどこですか?」

 まずは自分がいる場所の情報が知りたい。一番知りたい情報は自分が何者かだということだが、初対面の相手にいきなり自分は誰ですかと質問することがおかしいという認識は頭の中に残っていた。

 すぐに答えてくれるものと思っていたのだが、予想に反して彼女は眉をひそめて斜め下を向く。

「わたしもわからないんです」

 彼女は幼さの残る声で言った。

「わからないっていうのは?」

「さっき起きたら、いきなりここにいて」彼女の声には動揺が滲んでいる。

「ここがどこかわからないんですか?」

 彼女の答えに僕も戸惑った。

 見たところここは古い一戸建てに見える。全体として色がくすんでいるところがあるし、吸い込む空気にはどこかカビ臭さがある。

 もしも客観的に今の状況を見るならどうだろうか。若い男女が別々の部屋で目覚める。家族で一緒に住んでいたのか、それとも友達同士で遠出してここに泊まったのか。もしくは見知らぬ者同士でルームシェアをしているのか。

「いや、そもそも」彼女はちょっと躊躇する仕草を見せて指で髪をいじった。「自分が誰だってことすら、なんか、よく、わからなくて」徐々に声がか細くなっていく。

 驚いた。彼女も記憶を失っているのか。

 どういうことなんだ。

 ここはどこで、なにが起こっているんだ。

「それはつまり、えっと、どこまでわからないんですか?」僕は詰まりながら、記憶が抜け落ちた脳を必死に動かした。

 どこまで。つまり僕は程度の確認をした。僕は自分が誰かわからない。自分の名前もどこで生まれたとか、どういう性格だったとか、家族構成はどうだったとか、自分に関係する記憶が誰かにフォルダ分けされて消去されたかのように頭の中に残っていない。けれど、それでいてここが一戸建てであること、身体を動かすためにはどうすればいいかとかはわかる。おそらく外に出てある程度の情報を得ればここがどこでどういう場所なのかも予想がつくはずだ。

 いや、それにしても頭がすっきりしない。考えるときに綺麗に思考が繋がっていかずに、ぶつ切りなっているコードをなんとか繋ぎ合わせて接続しているような違和感。眠気や疲れはない。頭は働いているのに重要ななにかが欠けてしまっている。

「それはなにを覚えているかってことですか?」

 彼女の問いに僕は首肯する。

 彼女はうつむいて眉をひそめる。

「なにもわからないんです」彼女は身体の前で不安そうに手を組み合わせた。「自分が誰か。ここがどこなのか」

 同じだ。どういうことなんだ。なんで記憶をなくした者同士がこんなところで向き合っているんだ。記憶障害がある人を集めているのだろうか。いやここは医療関係の施設には見えない。しかもそれなら誰かが僕らを管理していないとおかしい。

 だめだ。頭の中を誰かに無理やり乱雑に搔きまわされたかのように思考がまとまらない。

 思考の影響が身体に現れ、軽い目眩がした。

 とにかく自分の顔を見るんだ。

「ちょっとごめん」僕は彼女との会話を中断して洗面所に向かった。顔を見れば何かが変わる。そんな希望に動かされた。家の中でだいたいどの位置に洗面所が存在しているかも身体が覚えていてすぐに目的の場所は見つかった。

 自分の顔を鏡で見る。短髪、黒髪、二重だけどあまり大きくはない目。適度に日焼けした肌。手で頬に触れてみる。自分の顔だ。確信を持ってそう言える。安心感に似たものが身体に広がる。

 そうだ。僕はこういう顔をしていた。

 じゃあ数年前。もっと小さかった頃の自分の顔を思い出せるだろうか。鏡の中の自分を凝視して必死に思考を働かせるが、頭にはもやがかかったままで、なんの映像も浮かんでこない。かぶりを振って思考を中断する。

 視線を前に向ける。洗面台には女性ものと思われる洗顔剤が置かれている。鏡が扉になっていて開けると中には髭剃りやら封の開けられていない固形洗剤が並べられていた。必要最低限のものが置かれているだけで、やはり誰かがこの家で生活しているようには見えなかった。

 不意に忘れていた寝起き特有の不快感が襲ってきた。

 まずは寝てる間に溜まった汚れを落として、無理やりにでも頭を目覚めさせよう。

 使い捨ての安っぽい歯ブラシが大量に詰められていたので、その一本を取って歯を磨いた。

 顔を水で洗うが、さっぱりした気持ちが広がっても相変わらず記憶は戻ってこない。

 手を伸ばして鏡の中にいる自分に触れてみる。

「お前は、誰なんだ?」

 手についていた水が鏡に触れて涙のように流れた。

「えっと」

 背後から声がして振り返ると先ほど出会った彼女が何かを言いたそうに立っている。すぐに彼女の気持ちを悟った僕は鏡の前から離れた。

「どうぞ」

 彼女は軽く会釈して鏡で顔を確認する。一瞬驚いたように目を大きく見開くが、すぐに納得するように何度も頷き、僕と同じように手で顔に触れた。

「わたしだ」

 彼女も僕と同じように歯を磨いて顔を洗った。なんだか居心地が悪くなって、けれどもその場から立ち去ることもできずに、僕は辺りを見回した。

 洗面所の奥には小さな窓があり、そこから見える樹木は葉の色を茶に変えている。今は秋なのだろうか。

 同じ色のタオルやバスタオルが窓の下の棚に丁寧に積まれている。洗濯機の脇に置かれた洗剤は使われている痕跡があった。

 誰かの家にいるというよりは、ホテルや民宿にいるような感覚。

 彼女はタオルで顔を拭って、視線を鏡から移して僕を見た。僕もじっと見返す。

 幼さの残る顔に濡れた前髪が張り付いている。

 自分の姿を鏡で見たのと同じような感覚が広がる。抜け落ちていった記憶の中に何度も登場して、自分の顔よりも彼女の顔のほうが見慣れている気がする。けれど蘇ってくるのは漠然とした感覚だけで、形となる記憶は見つけられない。

 ずっと長い間一緒にいた気がする。

 そうだ。彼女と僕は近い関係にあったんだ。けれど近い関係というのが家族なのか、友達なのか、それとも異性の間のそれなのかさっぱり思い出せない。

 僕はそっと彼女に手を伸ばした。彼女に触れたらなにか思い出せる気がした。

 けれど彼女は僕の右手が近づいているのを察すると目を見開いた。慌てて手を引く。

「あっ、えっと」動揺で視線が揺れる。洗面所の奥にある小窓からケヤキが風に葉を揺らしたのが見えた。なにか言葉を発しなければ気まずい空気になると思い慌てて言葉を続ける。「庭にケヤキがあるんだね」

 彼女の頭の中で何かが割れた気がした。

「い、いや!」

 彼女はそう叫んだ。僕を見ながら徐々に血の気が失せていく。小刻みに震えだした身体を必死に押さえるように自分で自分を抱きしめ、彼女はその場でうずくまってしまった。

「ごめん!」

 慌てて両手を挙げて彼女と距離をとった。それでも彼女の震えはとまらない。

 どうすればいいかわからない。僕の行動が彼女を怖がらせたことはわかる。でも、どうすれば彼女を落ち着かせることができるのかわからない。

 僕が近づいたらきっとまた彼女を怖がらせることになる。かといってこのまま彼女の視界から消えて遠くに行くことも心配でできない。とるべき行動が思いつかずにおろおろしていたら怒りをはらんだ少女の声がとんできた。

「なにしてんのよ!」

 見るとそこには化粧の濃いギャルがいた。色が抜け落ちて白に近い金色となった髪と眉。濃い化粧。日焼けした肌。身体にぴったりとしたシャツとスキニージーンズの少女が怒りで床を踏み抜くんじゃないかという勢いで駆けてきた。

 怒りの形相でギャルは僕に怒鳴った。

「女の子の悲鳴が聞こえたんだけど、ここでいったいなにやってんの!?」

 ギャルは両手を挙げている僕を押し退けて洗面所に入った。怯える彼女を見て驚き、それから怒りと侮蔑の混じった視線を僕に刺した。

「なにしたの?」低い声。

 僕は首を横に振った。

「なにもしてないです」彼女が疑うような行為は何一つしていない。ただ手を伸ばしただけだ。彼女を怖がらせたことは悪かったと思っている。無造作に距離をつめすぎた。

 ギャルは震える彼女の手を取って包み込むように抱きしめる。

「だいじょーぶ。だいじょうぶだから」

 僕に向けた声音とは真逆で優しくて温かい。彼女はすがりつくようにギャルに身体を預ける。浅く速かった呼吸がしだいに落ち着いてきた。

 ギャルは彼女をゆっくりと立たせると、視線で僕をどけた。

「女に手出すとか、おまえ最低だな」

 この状況で何を言っても信じてはもらえないだろうと僕は反論を諦めた。

 でも、彼女を怖がらせる気なんて本当になかったんだ。

「なに?」

 ギャルが出てきた部屋から男が顔を出して訊ねた。この家には他にも人がいたんだ。そいつと目が合う。ぼさぼさの髪に黒縁眼鏡。気だるそうな声でそいつは僕を一瞥した後に顔を引っ込めた。

 ギャルは彼女を支えながら、僕に刺すような視線を向けながら部屋に入った。

 どうすることもできずにただ立ち尽くす。部屋から話し声が聞こえる。拳を強く握る。どういうことだよ。僕はなにもわからなかっただけだ。記憶がないんだからしょうがないじゃないか。知ってることがあるなら教えてよ。

 その時に、ぼさぼさの髪の男が部屋から出てきた。視線が合う。なにか身体に緊張感が走った。「とりあえず入りなよ」男の声に促されて、僕は強張った身体を引きずりながら部屋に足を踏み入れる。

 そこはダイニングのようだ。フローリングの床。そして中央におかれたテーブルに六脚の椅子。部屋の隅にはテレビが置かれていて、壁の一面は庭に通じる大きな窓だった。外には手入れの行き届いた庭が広がっている。草木や花が多いが、緑から茶へと変化している植物が多かった。

 景色を見ても感情は動かない。ただ、頭の中に情報が増えただけ。

 男が引いた椅子の音で我に返る。テーブルを囲む椅子にはもう一人、大人しそうな少女がいた。短い髪に緩めのウェーブをかけている。華奢な印象で無表情にテーブルの中央を見据えている。

 僕は男の隣に腰を下ろした。

 髪がぼさぼさの男にギャルの女、やっと落ち着いてきたやわらかい印象の少女に、裕福な家庭で育ったような雰囲気の少女。僕を含めて五人。見た目だけだと共通点はないように思う。

 いや、ひとつあった。僕を含めて全員同年代に見える。そこにこの状況に対するヒントが隠されているのだろうか。

 今出会った三人には記憶があるのか。切り出す言葉が思いつかずに黙って周囲を見回していたらギャルが口を開いた。「全員に記憶がないんだって」

 そうか。驚きと言うより納得した。なんとなくそうではないかと思っていた。

「じゃあみんな名前もここがどこかもわからないんですか?」僕は全員を見回しながら訊いた。

「ああ、そうだよ」男が答えた。

 全員の年齢は近いように思う。中学の後半か高校の前半くらいだろうか。

「それで、僕たちは」

「なんにも覚えてなくて、なにも感じてないのか?」

 男が僕の言葉を遮って告げる。その声は記憶がないと言う割にはなにか暗い感情が宿っていた。自然と身体が強張るのを感じる。

「どういう意味?」絞り出すように訊ねる。

 男はじっと僕を見る。「いや、なんでもない」そして視線を下に落とした。

 長い沈黙が空気を重くする。居心地が悪い。僕もテーブルの上をただ見る。記憶がない。不安だ。けれど、同じ状況の同年代の子がいると少しは安心できるかと思ったのに、ただただこの場から離れたかった。呼吸をすることすら何かの拍子に怒られるんじゃないか。そんな緊張感が漂っていた。

 僕のせいなのだろうか。僕が彼女を怖がらせてしまったから、みんなの警戒心が強まってしまったんだろうか。

 ギャルがわざとらしく大きくため息を吐く。

「やばいでしょ。誰も何もわからないって」

 一泊置いて空気がまた固まらないように声を発する人物がいた。

「何かしら、記憶が消えるようなことを私たちが一緒にしてしまったんでしょうか?」大人しそうな髪にウェーブがかかった子が答える。

「それってなに? 例えば全員で記憶がなくなるほどお酒を飲んだとか?」

 二人の会話が続く。

「お酒」大人しそうな子は少し首を傾げる。「私たちがお酒を飲める年齢なのかはわかりませんが、見たところそういった物も置いてなさそうですけど」そう言って視線を巡らせる。「お酒の缶とか瓶とか置いてないですし」

「それじゃあみんな同時に頭でも打ったとか?」呆れたようにギャルが小さく笑う。「それこそやばいでしょ」

「もしくは、元々記憶に障害がある人たちが集められた可能性もあるかもしれません」

「集めれた? それなら集めた人がここにいなきゃおかしいでしょ? 集めただけで、そのあとは放置してるってこと? というか、記憶に障害があるって意味わかんないし」

「すいません」大人しそうな子が肩をすぼめる。「思いついたことをただ言ってしまいました」

 ギャルが顔をしかめる。「いや、ごめん。あたしも怒ってるわけじゃないんだけど」

 また誰も言葉を発せられない時間が続く。

 外から風が木の葉を揺らす音だけが奇妙なほどに大きく聞こえる。

 僕は恐る恐る全員の様子を窺う。頭に靄がかかった感覚が身体を支配している。

 何が起こってるんだ。異常なことが起こっているのはわかる。一見すると普通の民家なのに、その中に記憶が消えている五人。誰もその理由を知らず、説明してくれる人もいない。

「警察に行こう」ギャルが立ち上がっていった。「ここでじっとしてたってしょうがない」

 誰も反応しない。言葉の意味は理解しても、自分たちが警察を呼ばなければいけない状況にいるという実感がない。危険な状況にいるとも思えないし、これからなにか危険なことが起こるとも感じられない。

「警察に言ってなんて説明するの?」僕は重い口を開いた。ギャルが僕を睨む。途端に心臓の辺りが締められるように痛くなる。

「ち、違うの」幼い印象の残る彼女がゆっくりと呼吸をしながら言った。「ごめんなさい。あの。なにもされてない。ただ、朝起きて出会っただけ。それなのに、急にわたしが」彼女は口元をそっと押さえる。「自分でもわかんないんだけど、急に怖くて不安になって」顔色はさっきよりだいぶ落ち着いているが、まだ少し生気が戻っていないし、汗をかいたのか前髪が少し額に張り付いていた。「なにもされてないの。ごめんなさい」そう言って僕とギャルに頭を下げた。

 ギャルは怪訝な顔をつくるが、小さく息を吐いた後にまだ警戒心の残る顔を僕に向ける。

「そういうことなら、あたしも言い過ぎたよ。ごめん」

「いや、大丈夫。わかってもらえたら」小さく頷きながら僕は返す。

 ギャルは長く息を吐いた。「別に警察じゃなくたっていい。病院だって、消防署だって。とにかく誰かに連絡しなきゃ始まらないでしょ。説明ったって、この状況をそのまま言うしかないでしょ」

 なぜだろう。言われたことは正しいことのように思えるし、他に解決策があるようにも思えないのに、見ず知らずの人にこの状況を伝えることはためらわれた。ただ、他に方法がないように思える。

「警察に今の状況を伝えても怒られないよきっと」幼い印象の残る彼女は言った。「だってわたしたちはなにか悪いことをしたわけじゃないし」そこで彼女ははっとした顔になる。「あの、記憶がないから。きっと悪いことはしてないだろうってことだけど」そこで急に焦ったように早口になる。「でもでも、仮に悪いことをしちゃってたならなおさら警察には言った方がいいと思う」

「まあ、そうだよね」僕も納得する。

「ただ」と彼女は僕の言葉を挟んで言葉を続ける。「なにか思い出せそうな気もするの。さっきも頭の中に一瞬だけだけどなにかの映像が映った気がして」彼女の声は尻すぼみに小さくなる。「多分。だけど」

 少し間を置いてギャルが口を開く。

「記憶がないのは一時的な可能性もあるってことか」

 しばらく誰も言葉を発しない。どうすればいいのか、どうしたほうがいいのかもわからない。自分がどうしたいのかすらわからないのだから。

「じゃあ、とりあえず明日警察に行くのはどうかな?」僕はみんなの反応を見ながら言った。「もしかしたら寝て起きたら記憶が戻ってるかもしれないし、もしかしたらこうしているうちにだんだんと思い出せるかもしれない。もしも思い出せなかったら明日警察でも病院でも、とにかく話してみるのはどうかな」

 自分の提案を通したかったわけではない。けれどこれ以上この空気の中にいることが耐えられなかった。この場をなんとか終わらせたかった。

 息苦しい時間が続く。

「まっ、それでいいんじゃない」ギャルが言った。「今日行ったって、明日行ったってそんなには変わらないと思うし」

 大人しそうな女の子も、僕が傷つけてしまった女の子も頷いた。

 黒縁眼鏡の男がぼそぼそと言葉を吐いた後に、「それでいいなら、どうぞ」と投げやりな口調で言った。

 僕にしか聞こえなかったかもしれない。けれど、確かに男は「全員が善人なら明日でもいいんだろうけど」と呟いていた。

 違和感。そして依然として残るぎこちなさ。

 僕らはそれから最小限の会話だけをした。キッチンには冷蔵庫の中を含めて食材が保管されていたので、それぞれが勝手に食事をとる。

 時間が流れる速さが遅い。僕は黙ってカップラーメンを手に取り、誰とも視線が合わないように窓の外を眺めながら食事をした。麺をすする音すら空気を不必要に震わせているように感じて、なるだけ気配を消して箸を動かした。

 ふと視界の中にある違和感に気づく。あれはなんだ。目を細める。庭へと続く窓の一部が割れていた。ちょうど鍵の近くに何かをぶつけられて砕けた跡がある。サランラップとセロテープで補修されているが、それはまるで外から無理やり中に侵入するために壊されたように見えた。顔をしかめる。

 台風で石でも飛んできたのだろうか。でも、そうとは思えない感覚が自分の中に残っている。

 やはりこの家には、そして僕たちには何か秘密が隠されている気がする。けれど頭を捻ってもその答えを見つけることはできない。

 日が傾く。家の中に差し込む光が色を変えていく。

 突然鈍い音が響く。見るとギャルがテーブルを叩きつけて立ち上がっていた。

「誰かこの中で記憶が戻った人はいるの?」ギャルは視線を移しながら苛立ったように言った。僕は目線が合わないように下を向く。ギャルの声が続く。「じゃあ、記憶が戻りそうな感覚があるやつはいるのかよ」

 誰も答えない。

 何も思い出せない。自分の名前も、昨日までどこでどうやって生きてきたのかも。何かを見ても、それが何なのかの知識は残っていても、それと関係する記憶がない。どうやってその単語を覚えたのかしら理解できない。なぜ僕はカップラーメンがカップラーメンであることは知っているのに、それを食べた記憶も、それを見た記憶も頭の中に存在しないんだ。

「こんなの。一度寝たってそれで記憶が戻るとは思えない。こんなヤバい状態なら、明日起きたらまた記憶が消えてるかもしれないよね」ギャルの語気が強まる。「今から警察に電話する。この家に来てもらう。誰か異論がある人はいる?」

 有無を言わせぬ口調にみんな押し黙る。

 ギャルはそれを無言の肯定と受け取ったのか、リビングから出ていこうとした。

 と、それまで黙っていた黒縁眼鏡で髪がぼさぼさの男がゆっくりと口を開いた。

「ちょっと待って」

 ギャルが振り向く。

「なに? 文句でもあるわけ?」攻撃的な姿勢は変わらない。

「いや。警察に行きたいなら行けばいいと思うし、救急車を呼びたいならそうすればいい。帰りたい人がいるならこの家から出ていけばいいだけだ。けど、その前に全員に見てもらいたい映像があるんだ」

 全員にと言いながらその視線は僕に向けられていた。

「映像ってなに?」ギャルが戻ってきて男に詰め寄る。

 男はギャルを一瞥した後にテーブルの上にタブレットを置いた。「さっき見つけて中を見たんだ」

 ギャルはひったくるように奪った。

「どれ?」

「ひとりで見るなよ」男が言って手を伸ばすが、ギャルは聞き耳を持たずにタブレットを胸に近づけて操作を続ける。

「なによこれ」ギャルがじっと画面を見る。その目が見開いていく。

「動画を再生してくれ」男が促そうとする。

 少しの間を置いた後、呟くようにギャルが言った。「全員の名前が書いてある」

 その言葉に一泊の間を置いた後僕らの身体は反応した。

 全員がギャルのそばに集まる。ギャルはタブレットをテーブルに置いた。見ると僕ら五人が映し出されていた。今の姿とそんなに変わらない、最近撮った写真に見える。

 心臓が高鳴っていく。僕の。僕らの写真だ。

 どこか一戸建ての庭で撮られた写真。僕らは横一列に並んでいて、笑顔でこちらを見ている。いや、その中で黒縁眼鏡の男だけは不満そうに斜め下を向いている。

 それぞれの顔からタブレットで線が引かれ、その先にそれぞれ名前が書かれていた。僕はいち早く自分の名前を確認する。

 森谷健一。

 思い出すと言うよりも、新しい情報として僕の身体に染み込んでいく。

 そして、黒縁眼鏡で髪がぼさぼさの男の名前は竜崎拓也。

 僕が手を伸ばして怯えてしまった子は如月朋子。

 ギャルの子が石黒菜月。

 最後に物静かでお嬢様風情の子は添島栞だった。

 僕は全員の名前を確認した後に視線をもたげる。当たり前だけど全員に名前があった。それぞれが自分の名前を噛みしめているように見える。

「これ、どこにあったの?」ギャルの石黒菜月が黒縁眼鏡の竜崎拓也に訊く。

「そこのテレビラックの中にあった」竜崎は答える。

「もう一個の動画にはなにが映ってるの」そう言って石黒は人差し指をタブレットの上に載せた。

 大きな声が室内に響く。

「だから、絶対に大丈夫だって! 僕を信じてよ」

 聞き覚えのある声になぜか緊張感が走る。みんなの視線が僕に移る。

「この薬を飲めば絶対にみんなが幸せになれる。疑いとか、そういう過去が終わるんだ! これが僕らを傷つけるなんて、不幸にするなんてことは絶対にありえない。だから、みんな一緒に飲もう! 毎日飲んだっていいくらいだ。誰の言葉を信じればいいかは明白じゃないか」深く息を吸い込むことができない。汗が背中に滲む。「とにかく。今からみんなでこの薬を飲もう! 絶対に大丈夫だ」

 僕は視界の端でタブレットの画面を見た。

 僕の顔だ。

 森谷健一が不気味なほどの確信に満ちた笑顔で、大声で石黒たちに語っていた。

「この薬ってなんだよ」石黒が僕に質問する。

「知らない。わからないよ」首を振って答える。「薬なんて、そんな」あっ、とそこで言葉が漏れた。今朝起きた時の映像が頭に浮かぶ。そうだ僕の部屋に。

「なに?」石黒が近づいてくる。

「いや。起きた時に部屋になにかあったんだ」

 取ってきてと言われて、僕は一度部屋に戻ったあとに瓶を手にみんなの前に立った。

「どういうこと? もしかして、その薬とあたしたちの記憶がないことが関係してるってこと?」石黒の言葉は鋭さを増していく。

「少し見させていただいてもいいですか?」お嬢様のような雰囲気の添島栞がそう言ったので僕は手渡した。「三百粒ほど入っているみたいですね。形状を見ただけではどんな効果があるかわかりませんね。瓶にも説明書きもなにも貼られていないですし」

「わたしたちはこの薬を飲んだから記憶がなくなったのかな」僕が怯えさせてしまった如月朋子が眉間にしわを寄せる。

「いや。ちょっと待ってよ」僕は慌てて彼女たちの予想を中断させる。「そもそもこの中に入っているのが記憶を失わせる薬だなんて、そんな突拍子もないことがあるわけないよ。だいたい記憶がなくなるなら、それを僕がみんなに飲むように勧める理由がない」冗談じゃない。僕がこの状況の犯人なわけないじゃないか。

「全部忘れる薬なのかはわからないけど」石黒は口を開く。「何かしらの薬で副作用で昔のことが、名前も思い出せなくなったのかもしれないだろ」

「ありえないよ」言葉を絞り出す。「どうしてみんなの記憶が消えるものを、消えるかもしれないものをみんなに飲ませなきゃいけないのさ。だいたい、毎日飲んでもいいくらいって」言葉に詰まる。自分を弁護しようと思っても映像を撮った時のことを思い出せない。

 自分に向けられる視線が痛い。なんだよ。どうしてこんなことになったんだよ」

「とりあえず、この薬と映像を持って警察に行けばいいだろ」石黒が言う。「どんな薬なのかはその時に判明する」

「待ってよ。絶対になにか勘違い、誤解してるって」

 僕の意見に誰も同意しない。沈黙が痛い。すると、如月朋子が何かに気づいたように口を開いた。

「もしかしたら、逆の可能性もあるよ」

「逆って?」石黒が訊ねる。

「わからないけど、記憶を消す薬じゃなくて、忘れてたものを思い出させる薬なのかも」

「どういうこと?」石黒は質問を重ねる。

「だって、毎日飲んでもいい。みんなが幸せになれるってあんなに力強く言うなら」如月は僕を一瞥して続ける。「今のこの状況を解決させる薬だって可能性もあるよね」

 みんなが如月の言葉を噛みしめる。

「そ、そうだよ。それが何の錠剤かなんてわからないよ」僕は如月の言葉にすがるように言った。

「ただの栄養剤の可能性もありますしね」添島が小さく呟く。

 再び誰もなにも喋れない時間が流れる。

「それで、どうする」竜崎がみんなを眺めながら訊ねる。

「記憶が消える薬じゃないって言うなら、さっきの映像でみんなが幸せになれるって主張してたあんたが今日飲んでみなよ」石黒が僕を見る。「あたしたちはあんたのことを知らない。信じられないけど。あんたはあんたのことを信じられるでしょ?」

 視線が僕に集中する。添島が薬剤の入った瓶を僕に握らせる。

 飲んでやろうかという気になってくる。飲めばみんなが納得して、それでこの状況が解決できるならそれでもいいと思った。まさか死ぬような薬ではないだろうし。

「でも、万が一わたしたちが記憶に障害がある人たちで、その薬を飲んでないから毎日記憶がリセットされちゃうんだったら、飲まないことで明日全部また忘れてる可能性もあるよ」如月は一言一言考えながら言った。

 その言葉に石黒の表情が変わる。

「それじゃあ、万が一あんただけが記憶が残った場合、あたしたちに何されるかわかったもんじゃない」

 苦虫を嚙み潰したような顔で僕を睨む。

 不確定要素が多すぎて、なにが正しい選択になるのかは誰にもわからない。

「もういい」石黒はリビングから出ていく。

「どこいくんだよ?」竜崎が訊く。

「警察に連絡する。それが一番早いでしょ?」石黒は肩越しに振り返って答える。

 焦る。この状況をつくった責任を負わされるのだろうか。何も覚えてないんだ。僕のせいなわけがない。警察だってわかってくれる。そう自分に言い聞かせるが目線が定まらない。無意識に手が身体の至る所に触れる。

 如月朋子が石黒と僕を交互に見るが、なにか打開策を言うことはできない。

 石黒はそのまま玄関の近くに置かれていた固定電話を手に取る。どこかに電話をかける気配がする。

 相手の声は聞こえないが、石黒が自分の名前、そして記憶がないこと、さらにそれが誰かのせいによるものだということを伝えていた。

 心臓の鼓動が早まる。

 聞こえてくる石黒の声がなぜか徐々に焦りを帯びてきた。

「だから! 悪戯なわけないでしょ!? あたしたちは記憶がなくて……え? いや、だからそれも覚えてなくて」

 なにを話しているんだろう。

 しばらくすると不機嫌そうな顔で石黒が戻ってきた。

 如月が近づく。「警察がここにくるの?」

 石黒は舌打ちして椅子にどかりと腰を下ろした。「来ないって」

「え? なんで?」僕は訊く。

 石黒は髪をくしゃくしゃと掻いた。「知るか。何度も同じ電話で悪戯電話するなって言われた」

 どういうことだ。悪戯電話。記憶がなくなる前に何度も電話していたんだろうか。悪戯ってことは、僕たちの今の状態はそこまで真剣に考えるべきものじゃなくて、もっと軽いものだったのだろうか。

 沈黙が流れる。次にどうするべきか、なにを言えばいいか全員が悩んでいたら如月朋子がその静寂を破った。

「わかった。わたしが飲んでみるよ」

 視線が如月に集まる。

「だって、わたしが飲んでみればこの薬がどんな効果があるのかわかるんでしょ? もしも記憶が残ってたらみんなにそのこと知らせるし、もしもわたしが忘れちゃってたらみんなが助けてくれるでしょ?」そう如月は小さく笑った。

「いやいや」石黒が立ち上がる。「それは危ないよ。あいつに飲ませればいいじゃん」そう僕を指さす。

「でも、一人飲めば大丈夫でしょ?」如月と僕の視線が合う。

「わかったよ。僕が飲む。それでいいでしょ」

 僕の言葉に石黒が不機嫌そうに頷く。

「わたしも一緒に飲むから、それなら、ほら、二人と三人でちょうどいいでしょ」如月は先に僕と自分を指出した後に、石黒たちに指先を向けた。

 石黒が頭をぐしゃぐしゃと何度も両手で掻く。

「ああ。もう。それでいいよ。明日になれば色々とわかる」石黒は立ち上がって部屋へと帰ってしまった。

「どうすればいいのかわからないのですが、明日が今日よりもよくなっているといいです」添島もリビングを出ていこうとする。「それと薬は効果がわからないので、最低の一錠にしておいたほうがいいと思います。それでは、今日はとても疲れたので先に休みます」そう深々として階段を昇って行った。

 竜崎は何も言わずに出ていく。

 二人だけ残された。

 如月が部屋に入ろうとした。僕はそれを呼び止める。如月は小首を傾げた。

「どうしたの?」

「あの、朝のことはごめん。その、洗面所でさ」

 もしかしたら明日になればお互い忘れてしまうかもしれない。けど、だからこそいま謝っておきたかった。如月が納得するように笑った。

「こっちこそ驚かせちゃってごめんね。よくわかんないんだけど、なんか、すっごい怖くなっちゃったんだよね」

 如月はなにかを思い出すように小さく身体を震わせた。

「考えても考えてもなんであんなに怖かったのかわからないんだ」

 もしかしたら過去の記憶を消したことと関係があるのだろうか。僕らが過去を忘れてしまったのは、思い出したくない消してしまいたい過去があるからなのだろうか。

 記憶を消したとしても身体に何かが残っているのかもしれない。なにかの感情が、恐怖が身体の奥底にこびりついているのかもしれない。

「まあ、大丈夫大丈夫。明日には忘れてるかもしれないし」あははと如月は笑った。如月は瓶から薬を一錠取り出し、それを躊躇せずに飲み込んで、それじゃあまたねと如月は去っていった。

 僕はひとり考える。明日記憶をなくすことになったとしても如月はまた男の人が伸ばした手を怖がるんじゃないだろうか。それなら、その情報を僕は覚えておきたい。そうすれば記憶をなくしたあとでも如月の嫌がる行動をとることはないだろう。

 そう思い至って僕はなにかメモを取れるものを探した。そこでふと気づく。

「あれ? そういえばタブレットがなくなっている」

 さっきまでは確かにここにあったはずなのに。誰かが部屋に持って行ってしまったんだろうか。持って行ったとしたらなんのために。思考を巡らせてみるが思い出せない。

 と、視界の隅でマジックペンを見つけた。とにかく今は如月のことをメモに残しておこう。ペンと薬の入った瓶を持って朝目が覚めた部屋に戻った。

 さて、どこに書こうか。

 壁とか床に書こうか。いや、それだと気づけない危険がある。それなら身体のどこかに書くのがいいかもしれない。他の人に見られたら訝しがられるかもしれないから、僕だけが見えるところ、そう思って僕はシャツをめくって自分の腹部を見た。

 息が止まりそうになった。

 誰かに直に心臓を握られたような感覚。

 そこにはマジックでいくつもの文字が書かれていた。なんだ。誰が書いたんだ。いや、きっと僕が書いたのだ。その文字は自分自身で読めるように逆さになっている。でも、この文字の意味はどういうことなんだ。

 ケヤキの木の下。

 血の臭い。

 誰かが操作している。

 犯人は誰だ。

 殴り書きのようにそれらの文字が乱暴に書かれている。身体中の血が激流のように暴れた。

 どういうことだ。なにを伝えたいんだ。ケヤキの木の下になにがあるんだ。

 そこで今朝の如月とのことを思い出す。彼女は僕が近づいたのを見て怯えたのかと思った。けれども、もしかしたら僕が発したケヤキという言葉に反応したんじゃないだろうか。なにか繋がりがあるのかもしれない。

 みんなにこのことを伝えなければ。誰かの記憶がまたなくなる前に言わなければ。そう思った部屋から出ようとするがドアノブを掴む手が止まる。

 誰かが操作している。

 この言葉が身体の動きを止めた。誰か。もしかしたら僕たち五人の中の誰かは、今のこの状況を作り出してるのだろうか。そうだとしたら誰が。

 そこでふと思い至る。さっき石黒が警察に電話をかけたと言った。けれど本当に警察に電話をしたのだろうか。悪戯電話だとは思われたとしても、確認のために家に来たりしないのだろうか。そんなに簡単にこちらの電話を軽視したりするだろうか。もしかして、電話をかけたふりをしていた可能性はないか。

 添島だってそうだ。薬を一錠飲むといいと言った。あれはこの薬がどんな効果があって、どんな分量で飲めばいいかわかってたからじゃないのか。

 竜崎だって、ずっと僕らのことを観察しているようだったし、ところどころで僕らを誘導しようとしていなかったか。

 誰もかれもが怪しく思える。

 けど、その中で、如月朋子だけは信じられる気がした。彼女は記憶を失っていたはずだ。彼女になら今のこの状況を伝えられる。

 そう思って部屋を出ようとしたら、急に向こう側から扉が開けられた。

 驚きで身体が固まる。

「な、なに?」

 そいつは僕の問いに答えない。視線を僕の身体に這わせて何かに気づいたように床に置かれていた瓶を手に取った。僕の肩を突き飛ばして倒れさせ、そのまま馬乗りになって無理やり僕の口の中に錠剤を押し込んだ。

「や、やめ」抵抗しようとするが、無理やり水を飲まされて飲み込まされた。

 なんだよ。どういうことだよ。お前がこの状態を作り出していたのか。なんでそんなことをするんだ。僕がなにをしたっていうんだ。

 徐々に意識がまどろんできた。思考が急速に働きを停止していく。

 いったい過去に何があったんだ。

 男は僕の意識が薄れているのを確認した後、手を僕の口から離して僕の身体の上に硬いものを置いた。なにかを言っている。けれど音が脳にまで届かない。

 男はマジックで僕の腕になにかを書いた。なにも抵抗できない。

 焦燥感も意識が薄れていくにつれて一緒に溶けてなくなった。

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