第四章【ポポル・ヴフの書】

第十二話『海妖イクチ』


 豪華客船の世界一周旅行も残り二日に近づいていた……船長は肩の凝りをほぐすように軽い運動をすると、海ホタルが輝く夜の海原をブリッジから眺め深呼吸をする。

 近くにいた一等航海士が、豪華客船の九頭竜船長に言った。

「あと二日で航海も終わりですね……娘さん、由良ちゃんでしたっけ? このまま何事もなく航海が終了すれば。由良ちゃんの誕生日には間に合いそうですね」

 船長の九頭竜タツミは少し厳しい表情に、もどると電子海図を眺めながら言った。

「港に入って着岸するまで油断は禁物だ……世界各国の海や空や陸に『機神』の目撃情報が増えてきているからな」

 最近になって、頻繁に目撃されるようになった。【機神天國】の『機神』──その姿は多種多様でだった。


 船長の九頭竜タツミは、妻の凪香〔なぎか〕と一緒に、船員たちと船会社の粋な計らいで、新婚旅行のやり直しをしていた。

(それにしても、由良もよく納得して世界一周に送り出してくれたものだ……小学校に上がったばかりで、おじいちゃんと二人きりでの広い屋敷は心細いだろうに)

 一人娘の九頭竜由良は、笑いながら玄関で手を振って、タツミと凪香を見送ってくれたのは数ヶ月前。

 

 一等航海士がタツミに言った。

「航行は我々と自動操縦に任せて、船員は車イスの奥方とディナーを楽しんできてください」

「そうか、悪いな……その言葉に甘えてブリッジは任せるコトにしよう」

 ブリッジを出たタツミは、車イスの妻が待つ船室に向かった。


 船室から凪香が座った車イスを押しながら、食堂に向かう通路でタツミが言った。

「すまないな、船長の立場上……他の乗客みたいに、一緒に船内イベントを楽しむコトが少ない旅行で」

 凪香は首を横に振る。

「気にしないでください、乗客と船員の命と航海の安全を守るのが、タツミさんの仕事ですから……楽しい世界一周の新婚旅行でした」

「凪香……」


 タツミと凪香は食堂で、一緒にいられる時間の最後のディナーを楽しみ。

 凪香の車イスを押して船室にもどる途中、船が少しだけ揺れる──タツミが言った。

「ブリッジに行く……悪いが船室には一人でもどってくれ」

 そう言い残してタツミは足早に、ブリッジへと向かった。 

 ブリッジに入ったタツミは航海士に訊ねる。

「どうした? 今の揺れはなんだ?」

 航海士が青ざめた顔で答える。

「ソナーに何か巨大な細長い陰影が……海中で船の下を旋回しています」

「いったいなんだ? 魚か?」

 豪華客船が大きく横揺れした直後に、今度は何かが船底を突き上げるような衝撃と揺れが起こる。

「なにが船の下に? あっ!?」

 ブリッジの窓から、海水を滴らせた銀色の怪物が、海中からカマ首を持ち上げたのをタツミは見た。

 深海サメのラプカが、頭を逆さにして白目を剥いたような不気味な頭部の怪物は、客船を跨いで反対側の海上からもう一つの同じ頭を出した。

(二匹の怪物? いや、機神か!!)

 航海士が言った。

「怪物は一体です、尻尾側にも同じ頭があるウミヘビ型の怪物です!」

 二つの頭の片方がグルッと頭の上下向きを変えると、もう一方の頭に噛みつくような形で連結して、グルグルと客船の上にアーチを作って動き出した。


 船を取り囲むリングのような形態で、客船の上を通過していく機神の体からは赤い液体が垂れて甲板に穴が開く──船のみを溶かす強力な溶解液だった。

 タツミは子供の頃に、妖怪の本で見た、海の妖怪の一体を思い出す。

「イクチ……海妖」

 それは、船の上を何日も跨いで通りすぎていく、ウミヘビのような妖怪だった。

 体から垂らす油で、船を沈めてしまう海の妖怪『イクチ』

 機神から妨害電波が出ているのか、外部への救援信号は遮断されている。


 機神からオーロラのような光りが、豪華客船に浴びせられる。

 幻想的だが奇怪な光景を乗組員屋や乗客たちは眺める。

 タツミが、ぼんやりと立っている一等航海士に指示した。

「乗客の安全を最優先に! 船内放送を!」

 指示された航海士は、不思議そうな顔でタツミを見て呟いた。

「あなた、誰ですか? ここはどこですか? わたしはなぜここに? わたしは誰ですか?」

 航海士の言葉に愕然とするタツミ。

(記憶が……消えている)

 一等航海士の両肩をつかみ揺するタツミ。

「しっかりしろ、君は航海士で……名前は、名前は? うわぁぁ」

 頭を押さえてブリッジから飛び出すタツミ。

(あの機神の光りが、人間の記憶を奪っているのか? 凪香、凪香)

 船内では機神の光りで記憶を奪われ何をしたらいいのか分からない、乗客や乗員が惚けた顔で通路に座り込んだり、立っていたりしていた。


 タツミは通路で、車イスから転がり落ちている凪香を発見して駆け寄る。

「凪香!」

 タツミから自分の名前を呼ばれた凪香は、他の乗客と同じ惚けた表情でタツミの顔を眺めて呟く。

「あなた誰ですか? ここはどこですか? わたしなぜここに? わたしは誰なんですか?」

「しっかりしろ! 凪香! わたしは……わたしは誰だ? ここで、わたしは何をしているんだ。君は誰なんだ?」

 見つめ合う凪香とタツミの目から涙がこぼれる。

「わからない……あなた誰?」

「誰なんだ? わたしは何をしているんだ?」

 互いの体を、ワケもわからず無意識に泣きながら、抱き締めるタツミと凪香。


 豪華客船は浸水で大きく右舷に傾き、数時間後に──記憶を失った者たちが、誰一人脱出するコトなく客船は海底へと沈んでいった。


 由良の両親が乗った豪華客船沈没のニュースがテレビから流れたのは、三日後の由良の誕生日の朝だった。

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