第10話
アタシは美嘉のお見舞いをしようと、駅の近くにある病院に来ていた。
病院の近くの花屋さんで、美嘉の好きな花を買おうとして、アタシは美嘉が好きな花なんて知らないと気付いた。
果物屋さんで美嘉の好きな果物を買おうとして、やっぱりアタシは美嘉の好きな果物なんて知らなかった。
結局アタシは手ぶらで病院にやって来てしまった。
「入院してるクラスメイトのお見舞いに来たんです。内藤美嘉っていうんですけど」
病院の入り口のそばにあった受付のお姉さんにそう言うと、美嘉は815号室に入院していると教えてくれた。
「エレベーターで八階まで上がって、もし病室がわからなかったらナースステーションで聞いてね」
アタシは、ありがとうございます、と頭を下げて、エレベーターに乗った。
入院患者がベッドごと入れるように作られた大きなエレベーターに、アタシはひとり乗った。
壁に各階の案内が書かれていた。
8階は、精神科病棟と書かれていた。
美嘉の病室は、ナースステーションで聞かなくてもすぐに見付かった。
病室は個室で、アタシが小さくノックすると、ドアが少しだけ開いて、美嘉のママらしき人が顔を出した。
「美嘉の、お友達?」
そう聞かれて、アタシは一瞬言葉に詰まったけれど、
「加藤麻衣って言います」
と、自己紹介した。
美嘉のママは、アタシのママとそんなに年も変わらない、まだ40代前後のはずなのに、随分疲れた顔をした、しわがれたおばさんだった。
内縁の妻は苦労が多いのかもしれないな、とアタシは思った。
美嘉が「ママが」「ママが」といつも語っていたママはとてもセレブなイメージで、アタシには目の前にいるおばさんと同じ人物だとは到底思えなかった。
美嘉のママはアタシを病室に招き入れてくれた。
美嘉はベッドの上で白い拘束具に縛り付けられて眠っていた。
「ごめんなさいね。この子今薬で眠ってるの」
驚いたでしょ。あんなことがあったから精神錯乱状態でね、目が覚めると悲鳴を上げながら、爪で体中を傷つけたりするのよ。
白い拘束具には転々と赤黒い血のようなものがついていた。
それは、美嘉が目を覚ましても自傷行為ができないように、彼女を縛り付けているのだと、美嘉のママは言った。
「麻衣ちゃんだったかしら」
美嘉のママはアタシの名前を呼び、
「少しの間、この子のそばにいてあげてもらってもいいかしら。おばさんね、ちょっと用事があって一時間くらい出かけるの」
そう言った。
「別に構いませんが……」
アタシは横目で美嘉を見た。
美嘉が目を覚ますのが少し怖かった。
「だいじょうぶ。しばらく目を覚まさないと思うから」
「わかりました。じゃあお母さんが戻ってらっしゃるまでアタシ、美嘉ちゃんのそばにいます」
「よろしくね」
美嘉のママは、無理矢理作った笑顔で笑って、病室を出ていった。
病室にはアタシと美嘉だけが残された。
美嘉の枕元には分厚いハードカバーの本があった。
手にとると、「聖書」と表紙に書かれていた。
凛が例の学校裏サイトに書き込んだのは、あながち嘘ばかりじゃなかったのだ。
それは確か町外れに小さな教会がある、誰も近づかないようにしている新興宗教の聖書だった。
美嘉のママはたぶん、当分帰ってこないだろうと、アタシは思った。
女の子は、自分の幸せと他人の幸せをすぐに比べたがる生き物だ。
他人の彼氏を見て、わたしはあんな男とは付き合わない、とか、あの子の家よりわたしの家の方がお金持ちだ、とか、そんなことばかり考えている生き物だ。
自分でも嫌な女の子だと思うけれど、アタシもそういう女の子のうちのひとりだった。
だからアタシは美嘉とふたりきりの病室で、バージンをレイプで、しかも一番嫌ってた男の子に奪われて、赤ちゃんの産めない体にされて、頭がおかしくなっちゃって、こんな病院で拘束具をつけられて薬で眠らされている美嘉と、そんな美嘉にずっとウリをさせられていて、大好きだった彼に裏切られてバスケ部員たちにクスリを打たれて輪姦されて、彼氏をメイにとられても、まだ正常でいられるアタシは、一体どっちが幸せなんだろうとぼんやりと考えていた。
そしてアタシは、たぶんアタシの方が幸せだと思った。
少なくとも美嘉よりは不幸じゃないと思った。
そう思うと顔が笑顔に歪んだけれど、アタシの目からなぜだか涙がこぼれた。
美嘉のママが一時間が過ぎても戻らなかったらアタシは帰ろうと思っていた。
まるで童話のお姫様のように眠り続ける美嘉の隣に座って、アタシはずっと何のためにお見舞いに来たんだろうと考えていた。
美嘉のことが心配だったと言えばきっと嘘になる。
アタシはただ、アタシが美嘉より不幸じゃないということを確かめに来ただけだった。
だから美嘉の好きな花や果物を知らなくたって、適当に何か買ってくることくらい出来たはずなのに、アタシはそうしなかった。
アタシは嫌な女の子だ。
美嘉のママが病室を出ていってから、壁にかけられた時計がきっかり一時間、時を刻んだとき、帰ろうとしたアタシの耳にドアをノックする小さな音が聞こえた。
美嘉のママが戻ってきたのだと思った。
アタシは思ったより早かったな、と思った。
だけどアタシがドアを開けると、凛がそこにいて、
「麻衣ちゃん?」
アタシが美嘉の病室にいたことに驚かれた。
「なんだかすごく久しぶりな気がする」
アタシたちは、凛が持ってきた花束や果物が入ったカゴを美嘉の病室の小さなテーブルに置くと、エレベーターで病院の屋上へ向かった。
「そうだね、いつ以来だろう。元気にしてた? ツムギも元気?」
いろんなことが起こりすぎて、凛と最後に会ったのはいつだったか、アタシにはもう思い出せなかった。
ただ最後に電話した日のことだけは覚えていた。
美嘉がナナセにレイプされた日だった。
あの日、凛はアタシに、
「はじまるよ」
と、まるでこれから楽しいことでも起きるみたいにそう言った。
あの日以来、アタシは少し凛のことがわからなくなっていた。
凛はアタシの大切な友達だった。
だからアタシは、凛がウリをさせられてしまうことのないように、美嘉の言いなりになり続けた。
ウリをし続けた。
だけど、美嘉はあんな酷い目にあわなければいけないようなことをアタシや凛にしただろうか。
確かにしたかもしれない。
だけど美嘉はメイに操られていただけだった。
アタシがそのことに気付いたのは、まだつい最近のことだけれど。
凛はまだそのことにすら気付いていないだろうけれど。
「わたしね、美嘉ちゃんのお見舞いに来るの二回目なんだ」
病院の屋上の小さなベンチで、凛は空を見上げながら言った。
アタシも空を見上げると、空には今日も大きな夏の雲があった。
「麻衣ちゃんは今日がはじめて?」
凛にそう尋ねられて、アタシはうん、とだけ言った。
「じゃあ、びっくりしたでしょ? 美嘉ちゃんすごいことになってるもんね」
凛が前に一度お見舞いに来たときは、まだ美嘉は拘束具をつけられてはいなかったそうだ。
凛が病室を訪れたとき、ちょうど美嘉は投与された薬がきれて目を覚ましたところで、看護師の人たちが総出で美嘉を取り押さえる大騒ぎになったそうだ。
「ざまあみろっていうか。因果応報っていうのはこのことよね」
凛は笑いながらそう言った。
アタシは本当に凛がもうわからなくなっていた。
美嘉は赤ちゃんが産めない体になったり、精神科病棟の病室で拘束具をつけられて薬でずっと眠らされなければいけないほどのことを、アタシや凛にしただろうか。
きっとしてない。
「美嘉ちゃん、この先ちゃんと生きていけるのかな」
だけど凛は因果応報だと言った。
「美嘉ちゃん、あと何年くらいで自殺しちゃうかな」
舌足らずの甘い声で凛は言った。
凛の美嘉に対するそんな感情は、一体どこから来ているのかアタシにはどうしてもわからなかった。
だからアタシは、
「ねぇ、凛。どうしてナナセに、美嘉にあんなひどいことさせたの?」
聞かずにはいられなかった。
凛は青空の下で、一瞬きょとんとした、アタシの質問の意味がわからないという顔をした。
「麻衣ちゃんのことが大好きだからだよ」
凛はそう言った。
「わたしには麻衣ちゃんしかいないから」
凛はそう続けた。
「そんなことないでしょ」
アタシは言った。
だって凛にはツムギがいる。
「うん。でもお兄ちゃんはお兄ちゃんだから。
わたし、友達って麻衣ちゃんしかいないから」
凛は言った。
「わたしね、体はちっちゃいし、気も弱いし、ちっちゃい頃からお兄ちゃんとしか遊んだことなかったから、自分でもちょっとオタクっぽいなって思うし、小学校のときからね、ずっといじめられてたんだ。お兄ちゃんだけがわたしの味方だったのに、パパとママが離婚したせいでお兄ちゃんとも離ればなれになっちゃって」
凛は遠くに見える遊園地の観覧車を見ていた。
「中学の時にね、生まれてはじめて友達が出来たんだ。
その頃にはもう、わたしとお兄ちゃん、ただの兄妹じゃなくなってた」
凛はツムギと中学生のときからセックスしてる。
「わたしね、はじめて友達ができて、嬉しくて舞い上がっちゃって、わたしのこと全部知ってもらおうと思って、わたしがお兄ちゃんのことが大好きなこと話したんだ。
お兄ちゃんとエッチしてること話したんだ。
そしたらね、その友達、わたしのことをまるで汚いものを見るような目をして見たの。
その日からわたしのこと気持ち悪がって、それまでみたいにおしゃべりしてくれたり遊んでくれたりしてくれなくなったの」
友達じゃなくなっちゃったの。
寂しそうにそう言った。
「だからわたし、麻衣ちゃんに話したときもね、ひょっとしたらまた気持ち悪がられるかもって思ったんだ」
それは、アタシがyoshiと付き合いはじめたばかりの頃だった。
アタシは凛に、凛は好きな男の子いないの? って聞いた。
あのとき凛は、小さく肩を震わせながら、誰もいない放課後の教室でアタシだけに秘密を打ち明けてくれた。
「だけど麻衣ちゃんは、わたしのこと受け入れてくれたよね」
アタシたちはその日、ただの友達から、秘密を共有する友達になった。
フツーの女の子はやっぱりその中学のときの友達みたいに気持ち悪いと思うのかもしれない。
けれどアタシは女の子ばかりの三人姉妹の次女で、家に男の人って言ったら、いつも肩身が狭そうにしてるパパと、それから犬のマインくらいしかいなかった。
だからアタシには、お兄ちゃんとか弟とか、同世代の異性がひとつ屋根の下にいることがどういうことなのかまったく想像できなかった。
そういう家庭の子はみんな、お兄ちゃんや弟を異性として見ていないって言う。
お兄ちゃんや弟の前で下着姿で平気で過ごしたりしてるって。
それがアタシにはまるで理解できなかった。
そういうものかな、とは思えなかった。
同世代の異性が同じ家に住んでいて、そのお兄ちゃんだか弟だかがすっごくかっこよかったら、好きになっちゃうかもしれない、好きになってもおかしくないなってアタシは思ってた。
だから凛に秘密を打ち明けられたとき、
「だよね」
と思った。
そういうこともあるよねって。
アタシにとってそれは、ただそれだけのことだった。
だけど凛にとってはそれがとても重要なことだった。
「麻衣ちゃんとお兄ちゃんと三人で何度かアキバで遊んだりしたよね。
あのときね、わたしね、麻衣ちゃんといると、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃないような気がしたの。
彼氏だって気がしてたんだ」
凛はアタシにアキバで見せたのと同じ笑顔でそう言った。
「麻衣ちゃんといるときは、わたしは自分が彼氏がいるフツーの女の子に思えたんだ。
お兄ちゃんを好きだって気持ちを我慢しなくてもいいんだって思えたんだ。
わたしにとってお兄ちゃんはとってもとっても大事な存在だから、そんな風に思わせてくれる麻衣ちゃんのことも大事にしたいって思ったんだ」
だから凛は、アタシを守るためならどんなことだってしようと思った、と言った。
アタシを傷つけてばかりの美嘉がどうしても許せなかったと。
だからナナセを利用して、美嘉にあんなことをしたのだと。
アタシには何も言えなかった。
ただ凛の話すことを聞いていることしかできなかった。
「さっきね、わたし美嘉ちゃんのこと因果応報って言ったじゃない?」
そう言われて、アタシはようやく「うん」と言葉を返した。
「わたしも美嘉ちゃんにあんなことしたバチがあたっちゃったみたいなんだ」
そして、凛はもうひとつアタシに秘密を打ち明けた。
「生理こないの。
わたし、たぶん、お兄ちゃんの赤ちゃん妊娠してる」
凛はもう一ヶ月、生理が遅れているそうだった。
「お兄ちゃんの赤ちゃんだから、わたし産みたいって思ってるんだ」
でも怖くて確かめられない、と凛はアタシに泣きそうな顔で言った。
だからアタシと凛は病院の近くの薬局で、妊娠検査薬を買うことにした。
「これがいい」
チェックワンファストという名前の、体温計みたいな形をした検査薬を凛は手にとった。
それは二本入りのものだった。
Gショックみたいに正確、とハーちゃんに言われてるアタシも、もう二日も生理が遅れていたから、
「アタシも調べたいから」
そう言って、千円ずつお金を出してあって、アタシたちはそれを買った。
もらったおつりを半分ずつ分けようとすると、凛は思いつめた顔をして、麻衣ちゃんがとっておいてと言った。
アタシたちは病院に戻ると、障害を持つ人とか赤ちゃんがいるお母さんとかが使う大きな個室のトイレに入って、買ったばかりの妊娠検査薬を一本ずつわけあった。
「なんだかパピコみたいだね」
と凛が笑った。
「ほんとだね」
アタシも笑った。
「こんなのでどうやって調べるのかな」
アタシは箱の中に入っていた説明書を取り出した。
「キャップをはずして、この蛍光ペンの先っぽっていうか、リトマス紙の束みたいなところにおしっこをかければいいみたい」
検査薬には丸い穴がふたつあった。
「一個は検査が終了したら縦に赤い線が入って、もう一個にも赤い線が入ったら妊娠してるみたい」
アタシは簡単にそう説明した。
アタシたちは順番に便座に座って、検査薬の先におしっこをかけた。
「あの……」
先に検査を済ませた凛が、アタシがおしっこをするのをじっと見ていたので、
「そんなに見られてたら出るものも出ないんですけど」
便座に座るアタシの目の前にちょこんと座って、じっとアタシのあそこを見つめる凛に言った。
「でもわたし、人がおしっこするとこ一度見てみたくて」
「見なくていいってば。臭いよ」
アタシたちは笑いながら検査をした。
アタシの検査薬は丸がひとつだけ赤い線が入った。
凛のには、ふたつとも赤い線が入っていた。
その翌日、アタシはメイにメールで呼び出された。
メイからもらったサマークラウドの秋物の新作は全部、ワンピースといっしょにこの間ハーちゃんにあげていた。
アタシは汚されたり、破られたりしても別にかまわない中学生のときに着ていた服で待ち合わせ場所の駅に向かった。
電車でやってくるメイは、もう先に着いていて、
「何その服」
と、開口一番にアタシに言った。
もっとちゃんとおしゃれな格好してきなさいよ。
「別にいいでしょ。もうお客さんとるわけじゃないんだし」
アタシはそんな嫌味を言うと、メイは不思議そうな顔をした。
「誰がもうお客さんとらないなんて言ったの?」
本当に不思議そうな顔でアタシに聞いた。
「だって、もう、美嘉はあんなだし……。アタシが美嘉のケータイ番号勝手にナナセに教えたのがいけなくて……」
アタシがウリをさせられていたのは、その罰ゲームのはずだった。
だからもう、みんな終わったことのはずだった。
「ふうん。じゃあ、他に理由ができたらまたウリしてくれるんだ?」
アタシはそのとき、大きな思い違いをしていたことに気付いた。
美嘉があんなことになって、アタシはもうウリをしなくてよくなったと思っていた。
だけど、美嘉を操ってアタシにウリをさせていたのはメイで、彼女は美嘉という将棋かチェスの駒をひとつなくしただけで、アタシの目の前で平気な顔をして笑っていた。
何も終わってなんかなかった。
「今度はさ、麻衣には凛のためにちょっとがんばってもらおうかなって、あたし思ってるんだ」
――妊娠しちゃったんだってね、あの子。
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