第9話

 一学期の終わり、アタシは貧血を起こして教室で倒れてしまったことがあった。


「麻衣ちゃん、だいじょうぶ?」


 一番にアタシに駆け寄ってきたのはやっぱり凛で、


「だいじょうぶ?」


「麻衣、だいじょうぶ?」


 他のクラスメイトたちも倒れたアタシのまわりに集まった。


 最後にyoshiがクラスメイトたちをかきわけて、アタシのそばにやってきた。


「どうしたの?」


 yoshiは凛に尋ねた。


「貧血起こしちゃったみたい。顔色、すごく悪いし」


 凛が答えた。


 後から凛から聞いたんだけど、そのときのアタシの顔は死んだ人みたいに真っ青で、唇も紫色をしてたみたい。


「だいじょうぶか? 麻衣」


 yoshiに声をかけられたアタシは、


「ほっといてよ」


 彼にそんな言葉を返してしまった。


 まだ美嘉たちにウリをさせられはじめたばかりの頃のことだった。


 前の晩のお客さんは、とても遅漏な人で、すごく長い時間アタシの中に入って腰を動かし続けた。


 その人は、自分はセックスが上手だと勘違いしていたみたいだったけれど、すごく下手で、アタシのあそこはちっとも濡れなかった。


 だからあそこが一晩たってもまだひりひりして痛かったし、アタシは毎日のように知らない男の人に抱かれて、ひどく疲れていた。


 貧血を起こしてしまったのは、ウリを始めてから何日か食事があんまり喉を通らない日が続いていて、睡眠もほとんどとれてなくなっていたからだと思う。


 だから、放っておいてほしかった。

 誰にも構われたくなかった。


 だから大好きなyoshiにも冷たい言葉をかけてしまった。


 だけど彼は、倒れていたアタシを「よいしょ」とお姫様だっこすると、「軽っ」と言った。


「やめてよ。放してよ。アタシならだいじょうぶだから」


 なんとか彼の腕から逃れようとしてアタシは脚をばたばたさせた。


 yoshiはそんなアタシに笑いかけて、


「お前、ちゃんと食ってるか?」


 と言った。


「こりゃ少し、麻衣を太らせなきゃいけないな。


 このyoshi様が今度、駅前の牛丼屋のスペシャル牛丼、おごってやるよ」


 まわりにいたクラスメイトたちがみんな笑った。

 凛も笑っていた。


 美嘉とメイはそんなアタシたちを教室の隅から無表情で眺めていた。


 yoshiの友達が笑いながら、


「見せつけてんじゃねーよー」


 と言って、昔の青春ドラマみたいにヒューヒューと言ったから、またみんながどっと笑った。


 そしたらyoshi、こう言ったよね。


「見せつけてんだよ」


 アタシ、そのときすごく嬉しかったんだ。


 yoshiがアタシを抱きかかえたまま保健室へと向かう廊下。


 ずっと続けばいいのに、ってアタシ、あのとき思ってたんだ。


 yoshiにはスペシャル牛丼おごってもらえないまま夏休みになっちゃったね。

 ごめんね。




 美嘉がレイプされた翌日、ナナセが警察に逮捕された。


「美嘉の部屋」を見ていたクラスメイトか、ネットアイドルに仕立てあげられていた美嘉のファンの誰かが、110番通報したらしかった。


 その日はバスケ部の地区予選の決勝の日で、yoshiはきっと精一杯ナナセの穴を埋めようとがんばろうとしたと思うんだけど、リバウンド王が不在の緑南高校バスケ部は決勝戦で敗退してしまった。


 美嘉の部屋をインターネットで中継していた「美嘉の部屋」のホームページも削除された。


 美嘉の部屋からはビデオカメラが仕込まれた"Chaco"という名前のくまのぬいぐるみが、美嘉の家の近くの空き家からはビデオカメラが撮影した映像をインターネットにリアルタイムにアップロードしていたパソコンが押収された。


 ナナセからは薬物反応で、なんとかっていうドラッグの陽性の反応結果が出た。


 ナナセは美嘉へのレイプだけじゃなく、学校裏サイトやプロフのアイコラの作成、美嘉の部屋の運営などといったストーカー行為をしていたことを自供したらしい。


 ドラッグは、横浜にいくらでもいる売人から買ったと話しているそうだ。


 アタシはそのことを、財布の中に大切にしまっていた、いつかアタシを買った安田という刑事さんの名刺に書かれていたケータイの番号に電話して聞いた。


 ナナセはたぶん、美嘉をレイプするためのお膳立てをしてもらうかわりに、万が一警察に捕まるようなことになったら全部自分がやったことだと言うように、凛と約束したのだ、とアタシは思った。


「まだ、ウリ続けてるのか?」


 刑事さんはアタシに聞いた。


「うん、でももうしなくていいと思うから」


 アタシがそう言うと、そうか、よかったな、と彼は言った。


 たぶん刑事さんは美嘉がアタシにウリをさせていたことに気付いてたんだと思う。


 美嘉がアタシのクラスメイトだということくらい調べればすぐわかることだし、調べていなくてもアタシが電話をかけたことからわかっただろう。


 ナナセが、美嘉が友達にウリをさせていたと話したのかもしれない。


「表沙汰にならないようにしてやるから心配するな」


 刑事さんはそう言って電話を切った。


 美嘉は病院に入院した。


 赤ちゃんが産めない体になって、精神的にも立ち直れるかどうかわからないほどの傷を負って、病院に搬送されてからは抗精神病薬を投与されて眠り続けているらしかった。




 決勝戦の翌日の朝、アタシはyoshiに呼び出された。


「新しいバッシュ、いっしょに選んでほしいんだ」


 yoshiは電話でアタシにそう言った。


 電話がかかってきたとき、アタシはてっきり、一昨日美嘉がyoshiに告げたあのことを問い詰められると思って、覚悟を決めて電話に出たから、少し拍子抜けしてしまった。


 yoshiはきっとアタシを信じてくれているのだ。


 彼は逮捕されたナナセの話も、ナナセにレイプされた美嘉の話もしなかった。


 いつも通りのyoshiの電話に、アタシの胸が痛んだ。


 yoshiは試合に負けると気分を変えるためにバッシュを買い換えるのだと言う。


「そんなことしてたらお金すごいかかっちゃうんじゃない?」


 アタシがそう言うと、


「俺、滅多に負けないから」


 とyoshiは言って、アタシは彼がバスケの名選手だということを思い出した。


「滅多に負けないもんだから、負けるとめちゃくちゃ落ち込んじゃうんだよね」


 ため息をついた。


 アタシの彼はとてもかわいい人だった。




 アタシたちは駅前のショッピングモールの入り口で待ち合わせた。


 yoshiとデートなんてひさしぶりのことだったから、アタシは気合いを入れてお化粧をして、一番お気に入りのワンピースを着て、待ち合わせ場所に向かった。


 いつか買ったサマークラウドのワンピースにはあれから一度も袖を通していなかった。


 クローゼットの中にそのワンピースを見つけたとき、アタシは今度ハーちゃんが遊びに来たら、この間のことを謝ってこのワンピースをあげようと思った。


 yoshiはTシャツにハーフパンツ、使いふるしたバッシュを履いて、キャップを斜めにかぶっていた。


 Tシャツは、ガールズプリントのもので大きく「ディープラブ」と英語で書かれていた。


 yoshiは制服やユニフォームを着てるときはすごくかっこいいのに、私服の趣味がちょっと悪い。


 バッシュじゃなくて、服を選んであげたいとアタシは思った。




 スポーツ用品店に入って、


「どんなバッシュがいいの?」


 とアタシが聞くと、


「銀色のがいい」


 と、yoshiは言った。


 yoshiは私服の趣味がちょっと悪くて、それから銀色のものに目がない。


 スポーツバッグもケータイも自転車も全部銀色で、


「制服も銀色だったらいいのに」


 というのが彼の口癖だった。


 アタシは、それはそれで似合いそうだけど、それじゃまるで地球防衛軍だといつも思っていた。


「いいか、銀色だぞ。絶対銀色しかだめだからな」


 yoshiはアタシに何度も念を押して、銀色、銀色と呟きながらバッシュを探した。


「あった!」


 銀色のバッシュを手にとるyoshiの腕に、注射針の痕のようなものがいくつもあることにアタシは気付いた。


 ナナセの体からはなんとかっていうクスリの陽性反応が出た。


 クスリをやってる人は、ひとつの色に執着を見せる傾向があると、推理ものの漫画か何かで前に読んだことがあった。


 アタシはまさかなと思って、首をぶんぶんと横に振った。


 yoshiがそんなことするわけがなかった。


 きっと蚊に刺された痕だ、とアタシは思い直した。


「ねぇ、聞いてる? 麻衣」


 yoshiにそう言われて、アタシはずっと話しかけられていたことに気付いた。


「ご、ごめん。ちょっと考え事してて」


 アタシがそう取り繕うと、yoshiは笑った。


「いいよ。美嘉ちゃんがあんなことになったばかりだもんな。

 俺もさ、ナナセが美嘉ちゃんにあんなことして、本当はこんなところでバッシュ選んでる場合じゃないってわかってるんだ。

 でも家で部屋にひとりでいたら何も手につかなくて、おかしなことばっかり考えちゃって……、なんかごめんな、俺の気晴らしに麻衣を付き合わせてる」


 yoshiはそう言った。


「ううん、いいの。アタシもおんなじだから」


 アタシは笑って、


「このバッシュ、気に入ったの?」


 yoshiが手にとっていた銀色のバッシュの、もう片方をアタシは手にとった。


「なっ。これ、すごくいいだろ。なんか未来人って感じだろ」


 yoshiはまるでこどもみたいにくるくると表情を変えてはしゃいで言ったけれど、アタシには「未来人て感じ」がよくわからなかった。


「確かに近未来的だとは思うけど……」


 アタシが言うと、


「だよな、だよな」


 yoshiはますますはしゃいで、その銀色のバッシュを履いて、まるでダンクでもするみたいにジャンプした。


 yoshiが長い腕を伸ばすとお店の天井におおきな手が届いた。




 バッシュを買った後、アタシたちはショッピングモールの中をぶらぶらして、家具屋さんに入った。


 ダイニングテーブルにyoshiを座らせて、


「はい、あなた。今日はアタシが腕によりをかけて作った、あなたの大好きなとりにくよ」


 ちょっとだけ夫婦ごっこをしたりした。


「とりにくって、料理じゃなくて素材じゃん。確かに俺好きだけど」


 yoshiは笑いながらそう言った。


 yoshiは脚がすごく長いから、座高が低くて座ったらすっごくちっちゃくなる。


 それがなんだかかわいくてしかたなくて、あたしはいつの間にか赤ちゃん言葉でyoshiに話しかけていて苦笑いされた。


 アタシたちは向かいあってテーブルを囲んで座った。


「うちさ」


 yoshiがまじめな顔をして、


「うち、父ちゃんいねぇじゃん」


 そう言った。


 yoshiの家は母子家庭だった。

 彼の両親は、彼が物心つく前に離婚していて、彼は父親の顔を知らない、と聞いていた。


「一応父ちゃんから、俺の養育費っていうの?

 それ、もらってるみたいなんだけど、母ちゃんさ、昼も夜もパートで毎日休みなしで働いて、俺を高校に通わせてくれてるんだ」


 だから早く母ちゃんに楽させてやりたいんだ、とyoshiは言った。


「でも俺、バスケくらいしか取り柄ないし、頭悪いしさ、だから今年の夏はだめだったけど、来年か再来年にはちゃんとバスケで結果残して、高校卒業したら実業団に入って……」


 そしてyoshiはもう一度、


「早く母ちゃんに楽させてやりたいんだ」


 そう言った。


 アタシはyoshiの手を握った。


「yoshiならできるよ、きっと」


 アタシたちは、まわりに他にお客さんやお店の人がいないことを確認して、キスをした。


 アタシはこのとき、yoshiのことが本当に好きだと思った。

 yoshiの夢を応援したい、yoshiの支えになってあげたい、アタシなんかでよかったらずっとyoshiのそばにいさせてほしい、と思ったんだ。




 ショッピングモールの中にあるファミレスでランチを食べた後、アタシたちは雑貨屋さんに入った。


「ねぇyoshi、何かyoshiとお揃いのものがほしいな」


 アタシはyoshiの細く長い腕に腕をからませて言った。


「持ってるじゃん。パンダの」


 yoshiは呆れたように言った。


 パンダの、というのは、アタシたちが学校指定の鞄につけている、アタシのはフツーのパンダの、yoshiのは白と黒が逆になったパンダの小さなぬいぐるみだった。


「だって今夏休みだし。学校の鞄なんて持ち歩かないでしょ」


 ケータイのストラップとか、ペアリングとか、ネックレスとか、何かそういうお互いにいつも身に付けていられるものがアタシはほしかった。


「じゃあ、これでいいじゃん」


 yoshiは雑貨屋さんのレジのすぐそばにあった、アルファベットを一文字ずつ買って繋げて作るストラップを指差した。


 yoshiとmai、お互いに相手の名前をアルファベットで繋げて、ケータイにつける。


 そういうことなのだと思った。


 なんだか嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいな、とアタシは思った。


 でもyoshiは、アタシたちのイニシャルのYとMの字だけを手にとった。


「それからOかな」


 と言って、今度はOの字を手にとった。


「O? なんで?」


とアタシが聞くと、


「yoshiは麻衣(mai)がおばさん(obasan)になっても愛してる、の略」


 とyoshiは顔を真っ赤にしながら言ったので、


「ばっかじゃないの?」


 アタシはおかしくて、笑いすぎてお腹が痛かった。


 おまけに並べてみたらYMOになったし、アタシの頭の中にはテクノミュージックが流れて、何か悪いキノコでも食べたみたいに笑った。


「いいよ。それにしよう」


 アタシは、それがyoshiからのプロポーズのように思えて、うれしかった。


 アタシたちは雑貨屋さんを出るとすぐに、ショッピングモールを行き交う人たちの邪魔にならないような場所に座りこんで、買ったばかりの小さな袋を開けた。


 YとMとOを一文字ずつ手にとって繋ぎあわせる。


「お前、意外と無器用だな」


 簡単に繋ぎあわせてケータイに吊したyoshiが、まだYとMを繋げられないでいたアタシに言った。


「違うよ、yoshiが器用なんだよ」


 yoshiはアタシの手から三文字のアルファベットをとった。


 そのとき、たった今まで何ともなかったはずのその手が震えていて、アタシのMの字が、彼の手からこぼれて落ちて床に転がった。


「悪い。ちょっと、トイレ、行ってくる」


 yoshiは転がったMの字には見向きもせずに、YとOの字をアタシに返した。


「う、うん、行ってらっしゃい」


 震える右手を左手で押さえながら、鞄をだきかかえてトイレに向かった。


 アタシはMの字を拾って、もう一度三文字を繋ぎあわせようと指先の格闘をはじめた。


 10分ほどして、


「なんだ。まだ出来てないのかよ」


 トイレから戻ってきたyoshiは、やっぱり無器用だ、と笑って、アタシの隣に腰を降ろした。


「長かったね。お腹痛いの?」


 アタシは聞いた。


「ああ、なんかわかんないけど試合に負けた次の日は必ず腹下しちゃうんだ」


 yoshiはそう言って、


「繊細なんだね、yoshiは」


 もう一度アタシの手から三文字のアルファベットを指でつまんだ。


「こうやって、ここはこう、ほら出来た」


 あっという間にストラップを作ってしまった。


「ケータイ貸して。どうせお前、この穴に紐通すのも苦手だろ」


 図星だった。


 あたしは素直にケータイをyoshiに差し出した。


「なぁ」


 yoshiがストラップの紐をアタシのケータイに通しながら言った。


 その腕の、いくつかある注射針の痕のようなものがひとつ、ついさっき刺したばかりのような血の滲んだ痕が増えているのが見えた。


「お前さ、俺に隠し事とかしてないよな?」


 どきりとした。


「ど、ど、どうしたの? 急に」


 アタシは、平静を装おうとして、余計に心を乱してしまった。


 一瞬で、喉がからからに渇いた。


 ワンピースの背中が一気に汗ばむのがわかった。


「一昨日さ、美嘉ちゃんから電話があったんだ。お前がさ、その、なんていうか」


 yoshiはとても言いづらそうにして、


「やっぱりいい。なんでもない」


 とてもきれいな両の瞳でアタシをまっすぐに見つめた。


 yoshiはやっぱり一昨日美嘉から聞かされた言葉を気にしていた。


 アタシを信じようとして、平静を装おってはいたけれど、繊細な彼は手が震えたりお腹を下したりするくらい、追い詰められていた。


 ひょっとしたら昨日試合に負けてしまったのだって、ナナセがいなかったからだけじゃなくて、アタシのせいでyoshiが実力を出せなかったからかもしれなかった。


 信じてくれていたけど、聞かずにはいられなかったんだと思う。


 隠し事なんてしてないよ。

 そう言って笑ってあげることができたら、どんなに楽だったろう。


 本当にyoshiに隠し事なんて何ひとつなかったら、どんなに幸せだっただろう。


 だけどアタシにはyoshiに隠し事があって、yoshiをこれ以上騙していくことなんてできなかった。


 返事の代わりに涙が流れた。


「ごめん……ごめんなさい」


 涙が止まらなくて、アタシはそう言うのがやっとだった。


「yoshi、アタシ……アタシね」


「聞きたくない」


 yoshiは言った。


「お前の口からお前が何してたか聞いたら、俺頭おかしくなっちゃうよ」


 yoshiは優しく、アタシを抱き締めてくれた。


「アタシ、もうしないから。yoshiを裏切るような真似、もう絶対しないから」


 泣きじゃくるアタシの頭をyoshiは優しく撫でてくれた。


 アタシが泣きやむまでずっと、yoshiはアタシの頭を撫でてくれた。


「先輩たちがさ……」


 今夜、バスケ部敗退の残念会をやろうって。麻衣も連れておいでって言ってくれてるんだ、yoshiは続けた。


 アタシはどうして自分が誘われてるかわからなくて、ぽかんとした。


「麻衣はうちの部のマネージャーみたいなもんだろ」


 yoshiはアタシの頭をくしゃくしゃっとして、八重歯を覗かせて笑った。


「うん。行く」


 アタシはyoshiに抱きついた。


 アタシたちは、ショッピングモールを手を繋いで歩いた。


 このときアタシは、このまま前みたいなフツーの女の子に戻れるような気がしてたんだ。




 yoshiはなぜアタシがウリをしていたのか聞かなかった。


 アタシはほっとしていた。


 聞かれたらアタシは、yoshiに頼まれてナナセに美嘉のケータイ番号を教えたせいで、ウリをさせられることになったと言わなくちゃいけなくなる。


 そしたらyoshiはきっと自分を責めるだろう。


 ナナセのこと、美嘉のこと、そしてアタシのことでyoshiはもう十分すぎるくらい傷付いていた。


 アタシはもうこれ以上yoshiを傷つけたくなかった。




「残念会ってどこでやるの」


「んー、部室」


 アタシはてっきり、育ち盛りの運動部の男の子たちだから、焼き肉でもするのかと思っていた。


「引退する先輩もいるからさ、最後はやっぱり部室でってことになったんだ」


 アタシはバスケ部の部室に入ったことはなかった。


 練習はいつも体育館だけれど、きっと体育館だけじゃなくて、部室にもいろんな思い出があるんだとアタシは思った。


 ケンカしたり、仲直りしたり、友情を深めあったり。


 部活に入ってないアタシにはわからないようなことが、きっといっぱいあるんだと思った。


「アタシも何か部活に入ろうかな」


 yoshiはもう「マネージャーになれば?」とは言ってくれなかった。


 ショッピングモールのスーパーでyoshiとアタシは残念会の食材を買った。


 やきそばの麺やキムチ鍋の素、それからお肉、yoshiは次々と食材をカゴに放り込んだ。


「お鍋なんて部室でできるの?」


 と尋ねると、お鍋もガスコンロもホットプレートも、調理器具はみんな、きっと今頃先輩たちが家庭科室から調達してる頃だと言った。


 楽しそうだな、とアタシは思った。


「麻衣って料理できたっけ?」


 そう尋ねられて、


「うん、少しね」


 とアタシは返事をしたけれど、アタシは学校の家庭科の授業以外で包丁を握ったことがなかった。


「それは楽しみだ」


 とyoshiは笑って、アタシは苦笑いした。




 ショッピングモールから学校まで、アタシは一学期のようにyoshiの銀色の自転車の後ろに乗せてもらった。


 yoshiははじめてアタシを後ろに乗せてくれたときより少し背が伸びていた。


 体に腕をまわすと、はじめてアタシを後ろに乗せてくれたときよりがっしりしているように感じた。


 男の人の背中だった。


 アタシはその背中にずっと頬をくっつけていた。


 ずっとこうしていられたらいいのに、とアタシは思った。


 yoshiのことが大好きだった。


 だからアタシはもうyoshiを裏切らない。




 バスケ部の部室は、部室棟の二階にあった。


 yoshiは自転車を部室棟のすぐそばに停めると、


「俺、自転車、駐輪場に置いてくるからさ。先に部室行ってて。先輩たちもういると思うから」


 カゴから食材のたくさん入ったスーパーの袋を持ち上げてアタシに渡した。


「うん、わかった」


 アタシはそう返事をして、部室棟の階段を登った。


 野球部、サッカー部、ラグビー部、テニス部、部室棟には当たり前だけどいろんな部の部室が並んでいて、アタシはバスケ部の部室のドアをコンコンとノックした。


「入ってまーす」


 と中から聞き覚えのある先輩の声がして、みんながどっと笑う声が漏れていた。


「こ、こんにちは」


 アタシはドアを開けて部室の中に入った。


 そして目の前に広がる光景に愕然とした。


 部室の中には十人くらいの先輩たちがいて、彼らは皆、ライターの火であぶった筒状にしたアルミホイルで何かを吸っていたり、お互いに注射器で腕に何かを注射していたりした。


「やあ、麻衣ちゃんだっけ?」


 と、先ほどの声の先輩が塞がっていない手をひらひらさせながらアタシに言った。


 yoshiの腕にはたくさんの注射針の痕があって、デートの途中で手が震えだして、トイレに行くと言ってしばらく戻ってこなかった。


 戻ってきたとき、yoshiの手の震えはおさまっていた。


 yoshiは銀色が大好きで、身に付けるもの全部銀色にしたがっていた。


 美嘉をレイプして逮捕されたナナセの体からは、クスリの陽性反応が出た。


 クスリをやっている人の中には特定の色に執着をする人がいる。


 アタシの頭の中ではいろいろなことが思い出されて、それらはアタシが一番知りたくなかったことに結びつこうとしていた。


 だけどアタシは目の前に広がる光景がまだ信じられなくて、ただ目を奪われていた。


 どれくらいそうしていたかわからない。


 アタシの後ろでがちゃりと音がした。


 振り返るとyoshiがドアを開けて立っていた。


「よぉ、yoshi、簡単にやらせてくれるヤリマンの女連れてくるって言ってたけど、この子か?」


 先輩はyoshiにそう言った。


「あはははは、自分の彼女連れてくるかフツー。ありえねー」


 別の先輩がおかしそうにわらった。


「別に、彼女じゃないです、こんな女」


 アタシの背中でyoshiはそう言って、耳を疑ったアタシの背中を突き飛ばした。


 部室の真ん中に倒れこんだアタシは、何がなんだかわからなくて救いを求めるように顔をyoshiに向けた。


「彼女じゃないです」


 yoshiはもう一度そう言った。


「俺、外で見張ってますから、先輩たちはその女で好きなだけ遊んでてください」


 アタシはもう一度耳を疑った。


 何かの冗談だと思いたかった。


 だけど、yoshiが部室を出た途端、先輩たちはアタシのワンピースを力任せに引き裂いて、アタシはそれが冗談でもなんでもないと気付いた。




 そのワンピースは、アタシの一番のお気に入りだった。


 yoshiとのはじめてのデートのために、ハーちゃんに選んでもらったワンピースだった。


 ハーちゃんが、アタシにはじめて彼氏ができたことをとても喜んでくれて、買ってくれたワンピースだった。


 yoshiが顔を真っ赤にしてかわいいねって誉めてくれたワンピースだった。


 アタシの大切な宝物だった。


 今日だって、またあのyoshiの照れ臭そうな顔が見たくて着てきたんだ。


 バスケ部の先輩たちに引き裂かれるために着てきたわけじゃなかった。


「すげーな。なぁ見てみろよ、おい。小ぶりだけどいいおっぱいしてるぜ」


「ほんとだ。乳首すっげーきれいなピンク色してる。

 あそこもきれいなのかなー」


 アタシは脚をつかまれて、広げられた。


「あははっ。めちゃくちゃガキっぽいパンツはいてるよ」


「yoshiの趣味なんじゃないのー」


 信じられなかったのはyoshiだけじゃなかった。


 この先輩たちもとてもいい人たちだったはずだった。


 優しくて、面倒見がよくて、かっこよくて、バスケ部の先輩たちは学校中の女の子たちの憧れだった。


「いやっ、やめて。こないで」


 そんな人たちがクスリをやっていて、今はあたしを輪姦(まわ)そうとしていた。


 アタシは何度もyoshiの名前を呼んだ。

 yoshiはドアの向こうにいて、アタシが呼んだらきっと助けてきてくれるはずだった。


 だけど何度呼んでも助けにきてはくれなかった。


 yoshiはいっしょに選んだ銀色のバッシュで、ドン、ドンとドアを蹴るだけだった。


 まるでアタシが名前を呼ぶことさえいけないことのように。


「まだわかんないの? お前、yoshiに捨てられたんだよ」


 先輩がアタシの胸に顔をうずめて言った。


「こういうの乳臭いっていうのかな。ミルクみたいなすっげーいいにおいがする」


 桜川先輩というバスケ部のキャプテンだった。


「あいつ、新しい彼女、できたみたいだしねー」


 唐沢という先輩が言った。


「嘘。そんなはずない」


 だって、アタシとyoshiは今日、キスだってしたし、お揃いのストラップだって買ったばかりだった。


 アタシがそう言うと、


「嘘じゃねーよー。

 なあ、yoshi。新しい彼女できたんだよなー」


 唐沢はドアの向こうにいるyoshiにも聞こえるように言った。


 yoshiからの返事はなかった。


「なぁなぁ、この子、ケータイに変なストラップつけてるぜ。Y、M、Oだって。ははは、なんでいまどきYMOなんだよ」


 だって、そのストラップは、




――yoshiは麻衣(mai)をおばさん(obasan)になっても愛してるの略。




 yoshiからのプロポーズの言葉だと思ったのに。


「どうせyoshiとお揃いのストラップだろ。かわいそうだからとってやりな」


 アタシはなんとかしてケータイを取り返そうとしたけれど、アタシの新しい宝物になったばかりのストラップは、簡単に引き千切られてしまった。


 ストラップはばらばらになって、床に転がった。


 アタシをはがいじめにしているのはふたりだけじゃなかった。


 椎名先輩も、貞次先輩も、蓮先輩も、血走った目をとろんとさせて、アタシが抵抗できないように腕や脚を押さえ付けていた。


「メイって子だよ」


 桜川の言葉にアタシは耳を疑った。


「知ってるだろ、夏目メイ。

 yoshiと同じクラスの子らしいから、お前とも同じクラスだろ」


「昨日、告白されたんだってさー。

 だからお前とはもう別れるんだってさー」


 唐沢はアタシの腕をとって言った。


「嘘でしょ、yoshi。ねぇ、yoshi、yoshiったら」


 メイがyoshiのこと好きだったなんて、アタシ知らなかった。


「お前、ちょっとうるさいよ。唐沢、早くこいつ静かにさせろよ」


「わかってるって。

 麻衣ちゃん、ちょっとチクッてするけど、すっげー気持ちよくなっからさ、ちょっと我慢な」


 唐沢は注射器を手にしていた。


 天井に向けられた針からぴゅぴゅっと液体が飛んだ。


 クスリだった。


「いや、いやー」


 アタシは叫んだ。


 桜川がそんなアタシの顔を殴った。


「だからうるせーっつってんだろ。せっかくのムードが台無しじゃねーか」


 そう言った。


「はははっ。何だよ、それ。どんなムードだよ」


 唐沢がアタシの腕に注射針を刺した。


 笑う唐沢の顔がぐにゃりと歪んで、アタシの意識は遠のいていった。



「やっべ、白眼剥いてる」


「お前なぁ、クスリの量間違えたんじゃないのか? 死んだりしないだろうな」


「ま、いいんじゃない? 下手に騒がれたら誰か来るかもしれないし」



 薄れゆく意識の中で、アタシはそんな声を聞いた。




 その翌日、新聞に大きく緑南高校の不祥事が報じられた。


「スポーツの名門、神奈川県立緑南高校バスケットボール部員、覚醒剤所持で逮捕」


 とあった。


 記事には、


「同校の女子生徒に性的暴行をし8日に逮捕されたバスケットボール部員(=ナナセのことだ)から、覚醒剤の陽性反応が検出されたため、入手経路を事情聴取していたところ、部の先輩からもらったと自供したため警察の捜査が同校バスケットボール部に入った」


 と書かれていた。


「部室からは大量の覚醒剤が押収され、警察は部員全員を任意同行し事情を聞き、部員全員から陽性反応が検出されたため逮捕した」


 とあった。


 yoshiも逮捕された。


 夏休み中にも関わらず、学校は緊急記者会見を開き、ワイドショーでその映像が生中継された。


 校長先生や教頭先生、バスケ部の顧問の先生が、この度はお騒がせして大変すみませんと頭を下げていた。


 記者会見は学校の多目的ホールで行われていて、棗先生もかりだされていたらしく、一瞬だけテレビに映っていた。


 学校はバスケ部を廃部とすることにし、バスケ部員全員を退学処分することにした。


 yoshiも退学処分された。


「麻衣の彼、バスケ部じゃなかった?」


 いっしょにテレビを見ていたハーちゃんが慌てふためいてアタシにそう聞いた。


「ううん、違うよ」


 だけどアタシにはもう、関係のない話だった。




 体中に走る痛みにアタシがバスケ部の部室で目を覚ましたとき、アタシの顔にはたぶん何人分もの精液がかかっていて、それはまぶたや睫毛の上にもかかっていて、とても目を開けることができなかった。


 精液は鼻の中にも入っていて、アタシは口だけで呼吸した。


 その口の中にも精液がいっぱいで、あたしはその生臭いにおいに耐えられずに何度ももどした。


 体中が重たかった。


 胸にも、お腹にも、全身に精液がかかっているのがわかった。


 中出し、されていた。


 アタシは手探りで引き裂かれたワンピースを探して、顔や体を拭いた。鼻もかんだ。


 ようやく目が開けられるようになると、窓の外は真っ暗で、部室にはもう誰もいなかった。


 yoshiもいなかった。


 部室の明かりをつけると、壁にかけられた丸い時計が真夜中を示していた。


 一番お気に入りの宝物だったワンピースが、もう宝物とは呼べないものになっていて、アタシはハーちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 アタシは確か部室棟にはシャワー室があったことを思い出して、裸のまま部室を出た。


 部室のドアの外にもやっぱりyoshiはいなかった。


 シャワー室の鍵は、誰かが鍵をかけわすれたのか、不用心にも開いていた。


 体中にかけられていた精液はほとんどワンピースで拭いていたけれど、体にお湯がかかると拭き取りきれてなかった精液が、お湯がかかる前はドロリとしていたのにヌルヌルしたものに変わった。


 それはとても気持ちが悪かった。


 アタシは石鹸で何度も体中を洗った。


 髪についた精液がなかなかとれなかった。


 精液のにおいは何度体をあらってもとれなかった。


 アタシは泣きながら体を洗った。


 シャワーを出しっぱなしにして、小さな個室の中でかがんで膝を両腕で抱きしめるようにして、溢れる涙が止まるまで声を出して泣き続けた。




 濡れた体のまま裸でシャワー室を出ると、そこにメイがいた。


 腕にクスリを打たれて気を失って輪姦される前に、アタシはバスケ部の部員たちから、yoshiには新しい彼女がいる、それがメイだと聞かされた。


 アタシは、その小さく笑みを浮かべた顔を見るのも嫌だった。


 けれど、合ってしまった目をそらすのも嫌だった。

 目をそらしてしまったら、負けてしまうと思った。


 だからアタシは真っ直ぐ、メイの顔を睨みつけた。


 メイはそんなアタシにタオルを投げつけた。


「そんな怖い顔しないでよ。yoshiに頼まれて、着替え持ってきてあげたんだから」


 メイはそう言って、アタシにサマークラウドの紙袋を差し出した。


「秋物の新作。まだ夏だけどね。下着とか靴下とか靴も買っておいてあげたから」


 あんたBカップでよかったよね?


 アタシはその紙袋を受け取る気にはならなかった。


 メイは差し出した紙袋から手を放して、部室棟の土で汚れたコンクリートの床の上に袋は落ちた。


「あんたにはいっぱいお金稼いでもらったからさ、そのお礼だよ」


 メイは紙袋をアタシに蹴って寄越した。


「裸で家まで帰る気? この辺、暑いから頭がおかしくなっちゃった変質者もいるみたいだし、またレイプされちゃうよ?」


 メイは笑ってそう言った。


「良かったね、目が覚めて。バスケ部のバカがクスリの量間違えたんだってね。

 あんたが目を覚まさなくなったってyoshiが電話してきたときは、また友達がひとり減っちゃうかもって、あたし心配したんだけど」


 また友達がひとり減る?

 また、というのは、わたしは二人目で、一人目は美嘉のことだ。


「人の男とっておいて友達面しないでよ」


「美嘉さ、もう駄目みたいね。今日お見舞い行ったんだけど、ずっと薬で眠らされてた」


 メイはアタシの言葉に答える代わりにそんなことを言った。


「ナナセをけしかけて、美嘉にあんなことさせたのあんたと凛でしょ。

 あたしが『美嘉の部屋』のこと知らないとでも思った?」


 知らないと思っていた。気付かれていないと思ってた。


 だけどあの日、アタシを抱かなかったまだ若い作家から、美嘉を操ってアタシにウリをさせていたのはたぶんメイだと言われて、アタシはまさかと思った。


 だけどナナセと入れ違いに「美嘉の部屋」に現れたメイを見て、メイが美嘉に何かを囁きかけて、美嘉がyoshiにアタシがウリをしてたことを電話で話したとき、アタシは理解した。


 彼の言う通りだったと。


「美嘉は何にも知らないみたいだったけどね。

 ナナセにあそこまでやらせるなんて、あんたたちよっぽど美嘉が憎かったんだね」


 メイは言葉とは裏腹に楽しそうに笑いながらそう言った。


 そして、


「まだ夏休みは終わってないよ、麻衣」


 メイは言った。



「楽しい夏休みにしようね」



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