第196話 残された時間

 あれやこれやとあったものの、ついに卒業式の日を迎えた。

 朝学校に着くと、校門の周りには濃紺のスーツに身を包んだおじさんおばさんが大勢待機していた。


 その間を縫って歩くようにやって来る三年生には、赤い造花が手渡されていて、それを次々に胸ポケットの辺りに付けていく。その様子が、もういつもの平日の学校の人は一線を画しているということを感じさせる。


 在校生は軽くホームルームをしてから、すぐに体育館へと向かう。

 その頃には保護者の方々の入場もほとんど済んでいるが、その人たちの小さな会話が、ざわざわとした、式典が始まる前の独特の雰囲気を醸し出していた。


 そしてそれから数分が経ったところで、司会進行の場所に大柄の先生が立ち、マイクの電源を入れる。体育館全体に「キン」としたハウリングが鳴り響いたことで、徐々に会場のざわめきが収まっていく。


 「――卒業生入場」


 そのアナウンスとともに、吹奏楽部の演奏が始まると、保護者席からの大きな拍手が沸き起こる。

 俺たち在校生もそれに合わせて手を打ち鳴らしていく。

 この日のためにしっかりと準備してきたであろう着物にしっかりと身を包んだ担任の先生を先頭に、登校時にもらった花のバッチを胸に付けた卒業生たちがゆっくりと入場してくる。


 きっと彼ら彼女らも、一年前の卒業式では、俺たちが今座っているところから卒業する先輩たちを見ていたのだろう。

 そして、時は流れていき、今日、自分たちが今度はその赤いシートの上を歩くことになった。

 目の前を通り過ぎていく先輩たちは、この瞬間をどのような心持で歩いているのだろうか。


 ――楽し気に笑みを浮かべながら、後輩たちに視線を飛ばしている人。


 ――大勢の人たちの視線を受けて、少し恥ずかしさが表情に出てしまい、俯きがちに足元を見ている人。


 ――後輩たちに視線を送るでもなく、ただ悠然と自分が歩くことの許された赤い道を闊歩している人。


 俺が今座っている席からだと、本当に色々な先輩たちの表情を見ることができる。

 途中、見覚えのある顔が近づいてきた。体育祭で関わりのあった桑田団長と、その後ろには竹下先輩。


 桑田団長はもうそれはそれは落ち着きのない子どものように顔をあっちこっち向けてにこにことしている。しかし、さすがにこの厳粛な雰囲気で、「うぉぉぉぉお‼ みんなぁぁぁぁあ、今日は俺たちの卒業式なのによく集まってくれたぁぁぁぁあ‼」とは言えずにいる。


 まぁ、黙っていてもその季節外れの熱い雰囲気は相変わらずのようだ。うん、暑い。この人の周りだけクーラーか扇風機くれませんか? と言いたくなってしまう。

 そんなことを考えていたからだろうか。なぜか桑田団長とばっちり目が合ってしまった。


 桑田団長はニコッとほほ笑むと、小さく手を振ってきた。

 なんかちょっと乙女チックな一面を垣間見たようで、さっきとは違って俺の背中に悪寒が走った。ちょっと気温差あり過ぎませんかね……。


 だが、桑田団長が過ぎていっても、俺の悪寒は絶賛継続中だった。なぜなら、入場してから早い段階で俺を見つけたと思われる竹下先輩の視線をずっと浴びていたからだ。


 あのときと同じ、ニイっと口角を上げてこちらに視線を送り続ける。

 ここに座っているから、早かれ遅かれこうなるかもしれないとは思っていたが、それでも、頭の中で考えるのと、実際に受けるのとでは全然違う。天と地の差ほどだった。


 しかし、俺も竹下先輩を見つけてしまった手前、ここで視線を逸らすのはどこか竹下先輩に屈してしまったようで、どこか納得がいかない。

 だから、俺は拳をギュッと握りしめ、竹下先輩から目を離さないようにして、最後は軽く会釈をしてその場をしのいだ。

 卒業式も序盤も序盤ではあったが、だいぶ疲れてしまった……。


 「――ただいまより、〇年度神奈川県立桜浜高校、卒業証書授与式を開式いたします」


 卒業生が全員入場したところで、さっきの大柄の先生が穏やかな声で話し始める。

 国歌を歌い、各クラスの代表者が卒業証書を受け取る――そんな月並みな式次第を、ただ粛々と行っていく。


 校長の話、そして来賓の方がの祝電やらに式が進んで行くと、在校生はもちろん、卒業生の一部に「眠気スイッチ」が押されてしまう。

 しかし、ウトウトで音を立ててしまわないよう全神経を注ぎ込む。

 おかげで、お偉いさんたちの話なんて一ミリも入ってこなかったし、何なら来賓紹介も聞いていなかったから、「え、今はなしてるの誰」ってなったし。


 ねむねむタイムから覚めたのは、在校生の送辞が終わったのだろうか、卒業生の答辞が始まろうとした頃だった。

 壇上にはすらっとした細身の眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。

 あ、あの人ってもしかして――松山先輩⁉

 遠目からだからしっかりとは顔を見ることはできないが、あの眼鏡のテカリ具合は多分あの人で間違いないだろう。


 松山先輩はゆったりとステージにのぼり、体育館の端から端までを見渡していく。そして、手に持っていた答辞の原稿を丁重に開くと、すっと息を吸う。


 「――温かい日差しに照らされ、満開の桜の花びらに囲まれた、今日。この良き日に、私たちのために卒業式を挙行してくださり、心より感謝申し上げます」


 時候の挨拶を交え、丁寧にお辞儀をする松山先輩。

 卒業式で、しかもこんなに大勢の前でスピーチをするというのに、彼には緊張という感覚がないのかというくらいに落ち着いた出だしに見える。


 「また、先生方をはじめ、ご来賓、ご父兄の皆さまにご臨席いただく中で卒業できることを、卒業生を代表し、厚く御礼申し上げます。思い起こせば、三年前。高校生活に対する期待と不安に胸を膨らませながら、この桜浜高校の門をたたきました――」


 松山先輩は、入学してからの一つ一つの行事を漏らすことなく拾い上げ、そのときに感じたことを、席に座っている卒業生の分まで語り始めた。終始笑顔で、その出来事たちを懐かしむかのように。


 「――ここでの別れは辛くもありますが、この桜浜高校の卒業生として、胸を張って精一杯羽ばたいていきます。最後になりましたが今後の桜浜高校の素晴らしい発展を祈念して、卒業生の答辞とさせていただきます」


 拍手が起きることなく静寂に包まれる体育館に、松山先輩の足音だけが響き渡る。

 そして、松山先輩が席に着いたところで、完全に音が消える。


 俺はその間、息をするのを忘れてしまうかと思うくらいの衝撃を受けていた。

 名前を呼ばれてから、壇上に上がるまで。

 周りを見渡してからゆっくりとした口調でしゃべり始めるまで。

 思い出を振り返っているときの清々しさ。

 深々と礼をして、きれいなフォームで席に戻るまで。

 その全ての立ち居振る舞いに、俺は上級生の「格の違い」というものをまじまじと感じていた。 


 一年後、答辞を述べるかどうかは別として、俺にはこんなに堂々と何かをすることができるようになるのだろうか。

 たしかに、この一年で、自分の人生が180度変わったといっても過言ではないくらいの経験をしてきた。

 実際にそうであるのは間違いないのだが、それでも、今の話を聞いて、そう思わない方がおかしいとすら思えてくる。


 ――あと一年。

 高校生として残された時間はもうそれしか残っていない。

 それまでに何ができるのか。そして何をしなければならないのか。


 松山先輩の姿が見えなくなってからも、俺はその明確な答えのない疑問に向かって思いを馳せていた――。

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