第106話 熟知

 「ただいま~」


 「あら、結衣。おかえりなさい」


 わたしが自宅の玄関のドアを開けると、エプロン姿のお母さんが出迎えてくれた。


 「今日も部活お疲れさま」


 「ほんとだよ~。毎日あんなに暑い中練習練習だから、もうへとへとだよ……」


 玄関に倒れこむようにして鞄を置く。すると、お母さんはしゃがんでわたしと目線の高さをそろえる。


 「そうね……。先輩の代まではそんなでもなかったんでしょ? どう、最近の部活は?」


 「お母さん、聞いてよ~。新しい部長がさ――」


 お母さんのその一言で火がついてしまったのか、わたしは最近の部活についても思いの丈をあれこれと休みなく話し続けた。


 「――それで、もうずっと動きっぱなしでさ――って、そうだ! それよりも、お母さん!」


 帰ったらすぐに言おうと思っていた重要なことを思い出す。 


 「そんなに慌てて……どうしたの?」


 「あ、あのね……。今度お友達と一緒に夏祭りに行くことになって」


 「へぇ~いいじゃない!」


 「そ、それでね……その……浴衣着ていきたいなって」


 「浴衣……?」


 「う、うん」


 「たしか……おばあちゃんが仕立ててくれたものならあったと思うけど……」


 お母さんは顎に指をつんつんと当てながら視線を上に向けていたけど、わたしに視線を戻したときには、どこか探るような表情をしていた。


 「あら……もしかして……彼氏さんでもできたのかしら?」


 「ええっ⁉ ど、ど、どうして……そう思うの?」


 わたしはまだ伊織のことを家族の誰にも話していないのに、どうしてお母さんはわかったの……?


 「だって……結衣はよくお祭りに行くけど、今まで一回も『浴衣着たい』なんて言ってこなかったじゃない」


 「そ、そうだっけ……?」


 たしかに、わたしは毎年必ず一回はお友達とどこかの夏祭りには足を運んでいる。

でも、よく思い出してみると、そのときの服装についてはそこまで考えることもなくて、たぶん毎回いつもの私服で行っていた……と思う。


 だから特に夏祭りだからといって、浴衣とかそういった特別な装いをしようとは思っていなかった。

 わたしですらあんまり意識したこともなかったのに、お母さんはしっかりと覚えていた。


 ということは、わたしが気にしないようなところまでお母さんは目を配っているのかもしれない。

 そう考えると、お母さんという存在はわたしから見たら雲の上のようなそんざいにすら見えてきてしまう。

 それくらい叶いそうもなく、手が届かないところにいるとすら思ってしまうわたしがいた。


 「そうね……浴衣はいつ着ていきたいの?」


 「え、えっと……たぶん今度の土曜日」


 「なるほど。それなら至急性はまだなさそうね――っておっといけない。ガス付けっぱなしなのをすっかり忘れてたみたい」


 キッチンの方からお湯が沸いたことを知らせてくれる、汽笛に似たやかんの音を聞いて「ハッ」としたのか、いつものお母さんの表情に戻る。


 「浴衣については探しておくから、結衣はお風呂にでも入って疲れでも取ってきなさい。話はまたお夕飯のときにでもじっくり聞いてあげるから」


 「う、うんわかった」


 お母さんはエプロンの紐を結び直すと、駆け足でキッチンに向かう。そのとき「結衣にもついに彼氏さんが――」という声が聞こえたような気がしたけど、それを空耳のせいにして、階段を上り始めた。


 お風呂から上がってさっぱりして、お夕飯のときにお母さんからさっきの話の続きを促されてひやひやして、そして今、ようやく自分の部屋に戻ってきた。


 お父さんからは「今まで何で言ってくれなかったんだ~」と言われてしまったけど、彼氏ができたなんて、恥ずかしくてそんな簡単に口にできるはずがないよ……。クラスでよく話す子にだって言えてないんだもん。


 でも、それを聞いたお父さんが「結衣に彼氏、結衣にも彼氏、あぁよかったよかったぁ」と涙ぐみながらそう言ってくれたのを見ると、何だか照れ臭いような、でもわたしに彼氏ができたことをこんなにも喜んでくれる人がこんなにも側にいたんだっていうことを実感することができたから、素直によかったなと思った。


 「――よし」


 さっきのお父さんの姿を見て勇気が出たのか、伊織にメッセージを送ろうとする私の指は、いつもにないくらいに落ち着いていた。


  [今度のお祭りなんだけど]


  数分の沈黙の後、わたしのメッセージに既読が付く。


  [お祭りの場所が俺の家の方なんだけど、結衣はこっちのお祭りに来たことある?]


  [最近はないけど、昔行ったことあると思う]


  [なら来れそう……?]


  [お祭りの時間にもよるんだけど……]


  [夕方の五時から夜の九時までってなってる]


  [ならだいじょうぶだと思う!]


  [よかった! じゃあ六時に駅前の広場に集合でいい?]


  [うん!]


  [りょーかい! 当日何かあった連絡してね!]


  [ありがとう! わたしすっごく楽しみ!]


  [俺も!]


 わたしはスタンプを送って携帯の画面を暗くする。


 「わたしと伊織の二人で……」


 思わず声が漏れてしまう。

 今まで、わたしと伊織が二人っきりで出かけることはほとんどなかった。いつもそこには佳奈と宮下くんもいて、四人で何かをしていた印象が強く残っている。


 でも、今度のお祭りは伊織と二人。

 決して四人でいることに不満とかはまったくなくて、人数が多い方が楽しいことももちろんたくさんあったけど、やっぱり二人きりで過ごすという時間もわたしは欲しいと思っていた。


 だから、今度の土曜日が楽しみで、緊張で……今からその日が待ちきれない。

 ベッドにダイブしてうずうずしていると、不意に部屋のドアがノックされる。


 「結衣~お母さんだけど、入るわよ」


 「は~い」


 ドアノブが動いてドアが開くと、そこには浴衣を手にしたお母さんが嬌笑を浮かべながら立っていた。

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