第95話 理性と本能

 「――えっ? 近藤さん、今何て……」


 俺は反射的にそう問い返していた。


 「だ、だから……。ひ、日焼け止め……一緒に塗っても……いいよ」


 「おっ……⁉」


 う、嘘だろ……⁉ いや――嘘ではないか。この耳で、近藤さんの口から二回も同じ言葉を聞けばそれが真実なのであろう。

 ならば、これは夢か?

 そう思って頬をつねってみるが、熱感のある感触と続いてやってくる痛覚に、それが現実に起きていることだと理解する。


 「ほ、本当にいいの……?」


 「う、うん……」


 「近藤さんは恥ずかしくない……? ちなみに俺はめちゃくちゃ恥ずかしいけど」


 「は、恥ずかしくないわけないじゃん……」


 「そ、それならなんで……」


 「――し、だから……」


 「えっ?」


 近藤さんの声が周りの音にかき消されてしまってよく聞こえない。


 「彼氏。わたしは高岡くんの彼氏だから……」


 「そ、それってどういう……」


 「だって佳奈とか宮下くんだってわたしたちと同じように付き合ってて……。なのに、わたしたちが同じことができないって思っちゃって……。なんかそっちも恥ずかしいなって思っちゃって」


 「そうだったんだ……」


 彼氏と彼女。それは付き合っている男女に等しく呼ばれる間柄であり、そういう意味では誰もが同じと見なされる。それに優劣はない、と。近藤さんはきっとそう言いたいのだろう。


 近藤さんの言葉を聞いて、俺が何とも思わないわけがないじゃないか。本当はとっても恥ずかしいのにもかかわらず、近藤さんはここまで勇気を出して話してくれた。それをないがしろにするほど俺は廃ってはいない。


 「じゃあ俺も……近藤さんのお言葉に甘えようかな」


 「た、高岡くん……。じゃ、じゃあお願いします」


 近藤さんはビニールシートを広げると、そこにうつ伏せになる。


 「えぇと、じゃあ塗っていくね」


 俺は生を受けてから一度も、他人に日焼け止めを塗るなんていうことは一切してこなかった。自分に塗るのであれば、適当に塗ったり多少塗りこぼしがあったりしても、それは自分に返ってくるものだから、あんまり気にはしていなかった。


 しかし、今回ばかりはそうはいかない。

 他人に塗るのだし、それに何といっても女の子の肌に塗らなくてはいけない。

 万が一塗りこぼしなんかがあってしまったら、せっかく毎日丁寧に手入れしているであろうそのきめ細やかな肌を紫外線で傷付けてしまうことになる。

 それだけは何としても避けなければならないことだ。


 俺は気持ち多めにクリームを手に取ると、近藤さんの左右の肩甲骨の中間あたりに手を当てる。


 「あっ……」


 急に塗ってしまったからか、近藤さんは少し肩をビクンと跳ね上げ、声を漏らす。


 「ご、ごめんっ!」


 「あ、いや……そうじゃなくて、少しびっくりしちゃっただけで」


 「そ、そうなんだ……」


 あぁびっくりした……。いきなりあんなに甘い声を出されてしまったら、変なことをしてしまったのかと勘違いしてしまうぞ……。


 「じゃ、じゃあ……次行くよ」


 「うん」


 今度はスカイブルーをしたフリルビキニの背中の紐の下あたりに手を下ろす。


 「っ……」


 近藤さんはまたもビクッと身体をくねらせる。

 や、やめて! それはちょっと俺には耐性がないのです効果抜群です……。


 しかし、ここに来て今さら「できません」とは言えない。最後までやり切るんだ高岡伊織。

 理性の歯車が暴走を始め、油断すればこのまま理性が本能に飲み込まれてしまいそうになってしまうが、俺はどうにか抑えようと必死で耐える。

 だが、近藤さんはそんな俺の葛藤をぶち抜いてくるような一言を放ってきた。


 「前もお願いできる……?」


 「ぶふぁおっ!」


 俺はどこか遠くに飛ばされるような、そんな感覚を覚えた。

 待て待て待て待て……。


 「こ、近藤さん……。『前も』ってことは、その……」


 それじゃあめちゃくちゃ至近距離で近藤さんと向き合うことになるんじゃないのか。それもお互いが水着を着ている状態で。


 いつの日か、床に落としたペンを拾ってFace to Faceになったときがあったが、そのときとは似て非なる状況である。


 「う、うん……前もお願い」


 「わ、わかった……」


 近藤さんのお願いとあらばそうしたいのだが、こんなことをしてしまったら……。

 心臓が100mを全力疾走した後のように大きく脈打つ。

 でも俺はその右手にクリームをつけ、ゆっくりと、恐る恐る近藤さんの胸元に近づけていく。

 そして鎖骨の少し下に手を当てると、


 「んっ……」


 近藤さんが我慢するような、声にならない声を漏らす。

 さっきうつ伏せになって聞こえいたときと大きく違うのは――その距離。


 今俺と近藤さんは正面を向き合っていて、ほとんど近藤さんの胸元に顔をうずめてしまいそうなほどの距離感にある。

 それに加えて、近藤さんは少し俯きながら声を漏らすから、その吐息が直に俺の耳にかかる。


 ヤバい、ヤバすぎる!

 理性が完全に機能不全を起こし、停止する。

 理性と本能の均衡を今まで何とか必死で保ってきていたが、この一瞬の隙をついて本能が一気にこみ上げ、どんどんと優勢になっていく。


 それを意地でも阻止しようと必死に全身に力を込める。

 鼻の奥の血管が切れたような気がする。ツーンと、頭頂部を意図でつられているような鈍い痛みも感じる。


 「――お、終わったよ……」


 「あ、ありがとう高岡くん」 


 ようやく緊張と動揺から解放された俺は、その場に倒れこむ。

 男女で日焼け止めを塗り合いっこするなんて、うれしくないはずがないと思っていた。


 たしかに近藤さんに「塗って」と言われてうれしかった。でも、現実はその甘い言葉と吐息で俺は何度も悩殺されかけてしまった。

 俺の理性と本能の戦いはこれからも続きそうだ――。

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