第92話 筋肉

 小道を抜けると――目の前には白い砂浜とライトブルーの大海原が広がっていた。

 俺たちも海の近くには住んでいて、最寄りの海水浴場に行くことは何回かはあった。


 でも、この海水浴場はとにかくきれいだった。

 砂もずっと白く、海だって遠目から見ただけでもクリアに見えた。海に入れば、その透明感にきっと驚くことだろう。


 俺たち四人は、そこから少し歩いたところに建てられている海の家に着いた。


 「ここでとりあえず着替えとかしちゃおっか」


 佳奈さんが指を指しながらそう尋ねてきた。


 「そうだね」「いいと思う」「賛成~」


 俺、近藤さん、達也からの返事をもらった佳奈さんは、「りょーかい」と言いながら、そこの管理人さんと話し始める。


 しばらくして佳奈さんからOKサインが出たのを見てから、半袖シャツをさらに肩までまくり上げ、日に焼けた黒々しい肌をしているおじさんにそれぞれお金を渡していく。


 それから、俺と達也、近藤さんと佳奈さんに分かれて、更衣室へと進んで行く。


 「なぁ、伊織……」


 「なんだよ」


 更衣室に入って水着を取ろうとしたところで、早くもTシャツを脱ぎ始めた達也が小さな声で俺を呼ぶ。


 「俺さ……この夏に向けて筋トレしてきたんだよ」


 「ほう……どうして?」


 「そりゃ当たり前だろ。この海でこの俺の美しい肉体美を女子たちに見せるため。そしてキャッキャウフフされたいからだ」


 「そ、そうか……」


 達也の行動原理の半分以上は今ので話が付けられるだろう。それくらい単純……いや不純な動機だった。


 「っていうか、夏に向けてって言ってたけど、どれくらい前から筋トレしてたの?」


 「ふふふ。聞いて驚くなよ伊織」


 「お、おう……」


 そう言われると、ちょっと身構えてしまう。なんだ……? もしかしたらピカピカした名前のジムにでも通い詰めて――


 「それは――期末試験が終わってからだ」


 達也は「どうだこの野郎」みたいに俺の返事を待っているみたいだったが、俺はどう返事をしていいかわからなかった。


 「た、達也……」


 「ん? 何だ? 恐れおののいたか?」


 「いや……なんかそれって付け焼刃だなって思って」


 「な、なっ……⁉」 


 俺の口から出たことが信じられなかったのか、それとも信じたくなかったのかは知らないけど、とにかく達也は目をおろおろとさせながら脱ぎかけのTシャツを両手で戻し始める。


 「え、も、もしかして、意味ない……?」


 急なテンションの変わりように思わず吹きそうになったが、達也の挙動不審ぶりを目にしてしまったら、これ以上言うのはかわいそうに思えてきて、何とかそれを飲み込んだ。


 「意味ないわけじゃないけど、さすがに数週間って短すぎないか?」


 「そ、そうなの?」


 「だって、よく考えて見ろよ。常日頃から鍛えてる筋肉と、夏場だけに焦点を当ててやった筋肉ってだいぶ見た目違うだろ。何て言うか、年季っていうの? そういうやつだよ」


 「で、でもさ。ぱっと見だとわからないんじゃね?」


 「どうだろうね。案外女の子ってそういうのわかるんじゃない?」


 だってそうだろう。そもそも付け焼刃的に付けた筋肉なんて、所詮一夜漬けでテストに臨むようなもので、どこかしらで綻びが出てしまうだろう。筋トレだって同じなんじゃないか? 


 「や、やっべ……。筋トレしてるだけで『俺できる奴じゃね?』とか思ってたかもしれない」


 「それは典型的な自己満足だな」


 「うっ……」


 達也はさっきまでの自信気なオーラはどこか消し飛んでしまい、その一夜漬けの身体にしっかりとTシャツを覆わせている。


 「で、でも。やらないよりかはいいんじゃないか? そのままのヒョロヒョロよりも、少しは鍛えましたっていうのが伝われば……」


 さすがに言い過ぎてしまったかもしれないと思った俺は、うなだれている達也に最後にそう付け加える。


 「だ、だよな……」


 少しは自信を取り戻したのか。顔を上げると、達也は一人で先にとぼとぼと歩き始めてしまった。


 「お、おい達也。待ってってば!」


 先を行く達也にそう言ったが、達也は俺の声が聞こえていないのか、それとも無視しているのか。こちらを振り向くことなく行ってしまった。


 これ以上言っても無駄だとわかった俺は、急いで着替えを済ませると、荷物をロッカーに詰めて更衣室を飛び出した。

 ――しかし。


 「――あっつ……」


 勢いよく飛び出して達也に追いつくことができたのは良かったものの、すぐにギンギラギンと存在感を主張する灼熱の日差しに襲われてしまった。


 慌てて出てきたからシャツなんて着ていないし、手に持ってもいない。強い日差しが直に皮膚に突き刺さってくる。暑いというか、むしろ痛いよ。


 数秒悩んで、やはり取りに行くべきだと判断。ビーチサンダルの上からでも焼けるように熱いと感じる砂の上を、接地面積を最小にしてダッシュする。


 更衣室に戻ると、ロッカーを開けてシャツを羽織り、達也のところに戻る。

 この一枚があるのとないのとでは全然違う。特にその後が。


 子どもの頃にバカみたいに海パン一丁で海岸を走り回って楽しかったが、日焼けがひどすぎて、その後の風呂で絶叫したんだっけ。断片的だが、そんな苦い記憶が蘇る。


 なんでそんなことを忘れていたんだ……。

 事の重大さに戦々恐々としていると、女子更衣室から近藤さんと佳奈さんが出てくるのが視界に入った――。

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