第26話 告白
「…………っ!」
屋上に一歩踏み入れたところで、俺は言葉を失った。
五月も中旬に差し掛かろうかというこの日。
五月にしては気温が高いほうで、夕方の四時半になっても、一日直射日光にさらされたせいだろうか。屋上の床に敷き詰められたアスファルトが未だに熱気を帯びているのが、上履きからも感じられる。
アスファルトの床には新緑の葉があちこちに散乱していて、風が吹けばどこかへ飛んでいきそうなほど儚く見える。
太陽は水平線に向かって沈み始め、横から照らしてくるオレンジ色の淡い光は、昼間のそれとはまた別の意味でまぶしさを覚え、思わず目を細めてしまう。
そして、すでに太陽の周りはもう夜の暗闇へと変わりつつあった。
そんな黄昏時に醸し出される大空の鮮やかなグラデーションは、見る者すべての心を奪い去り、何度見てもこの景色に飽きることのない虜にしてしまいそうだった。
視線を下げて正面を向くと、俺は一人の少女――近藤さんの姿を視界に捉えた。
近藤さんは屋上一帯に張り巡らされたフェンスを掴みながら寄り掛かっていた。
後ろ姿であったため、これはあくまでも想像の範疇になってしまうが――きっと彼女は、沈み始めている太陽と、それを包み込もうとしている水平線を、その透き通った瞳で眺めているのだろう。
遠目から見ても、近藤さんとこの幻想的ともいえる空間は絶妙にマッチしていて、まるでひとつの完成された絵画のようにも見える。
「……………」
俺は自分の身体が動かせないでいた。
目の前に広がる絵画ような光景に、俺という存在が入っていいのだろうか――そこに大きな抵抗を覚えてしまい、その先の一歩を踏み出すのがどうしても憚られてしまっていた。
ここまで来て、俺は何をしているんだ……!
――この先に立ち入ってはならないのだ、という抵抗感。
――それでも彼女のもとに行きたい、という切望感。
これらの相反する感情が俺の中で渦巻く。
………………。
………。
数秒の小考の後、俺の中で覚悟が決まった。
俺は夕日に照らされる少女――近藤さんの方に、そしてこの絵画の中へ、その一歩を踏み出す覚悟が。
一歩、また一歩。俺は前に進み始める。
屋上に入る前に深呼吸で整えたはずなのに、今では心臓がリミットが外れた暴走列車のように、激しく脈打っていた。
しかし、その一方で、その歩みは自分の鼓動の早さと反比例するかのようにゆっくりとしたものだった。
それでも確実に俺は前に前にその足を踏み出していく。
そして、徐々に二人の距離が縮まっていく。
別に近藤さんを驚かそうとしているわけでもないのに、俺の歩みは抜き足差し足みたいになってしまう。
しかし、それでもなお、スタスタと上履きがアスファルトに響く音が屋外であるこの場所で聞こえるということは、それだけ周囲に音がないということの証左でもある。
そして、俺と近藤さんの距離が3mくらいになったとき、俺はその場に立ち止まって、恐る恐る口を開く。
「――こ、近藤さん」
俺はあまりの緊張で口の中がパサパサになってしまっていたが、近藤さんはそんな俺の声に気づいてくれたようで、ゆっくりとこちらを振り返る。
ダークブラウンの髪が夕日に照らされ、そのサラサラ感や艶といったものが、いつも以上に際立って見えた。
夕日が逆光になっているせいで、表情の細かいところまでを読み取ることは難しいはずだった。
しかし、なぜだろう。表情は見えないはずなのに。俺は近藤さんの頬が赤く上気していて、彼女も緊張しているのだと気づく。
「た、高岡くん……」
そう言って、近藤さんはゆっくりと距離を詰める。
俺と近藤さんとの距離、およそ1m。
普段の教室ならば、この距離感はいつも通りといえるのだが。しかし、今は誰もいない広々とした屋上にいる。
だから、ここでの二人の距離感がうまくつかめないでいた。
俺はこの鼓動の高鳴りが近藤さんに聞こえてしまわないだろうか、ということを心配することに意識が行き過ぎてしまったため、かえって鼓動が大きくなってしまった。なんと本末転倒な……。
そんなこんなで、どうしようかどうしようか、自分のことばかり悩んでいると、
「今日は、高岡くんに大事なお話をしようと思ったんだけど……直接誘うのが恥ずかしくて……。あの、迷惑じゃ……なかった?」
近藤さんが両手で口元を隠し、上目遣いでこちらを見つめてながら小さな声で話しかけてくる。
自分の思考に埋もれかけていた俺は、一瞬で引き戻される。
「ぜ、ぜ、ぜ、全然そんなことないよ……」
俺は、近藤さんという天使のような女の子が目の前にいること、そしてこの幻想的な空間に二人っきりというシチュエーションがシナジー効果を生み出し、心臓が張り裂けそうなほど大きく跳ね上がる。
「そう……ならよかった……」
俺が見てもはっきりとわかるくらいに、近藤さんは大きく肩をなでおろす。
………………………。
………………………。
しばらくお互いが無言で見つめ合う。
そこで俺は改めて思う――近藤さんの瞳は美しいと。小さな顔がかわいらしいと。そのミディアムロブの髪の毛がサラサラで、ふんわりとしていて、思わず触れたくなってしまうと。
つまり、俺はその間、ずっと近藤さんにくぎ付けになっていたのだ。
そして、今まで無風だったこの屋上にひと際強い風が吹き、目の前の近藤さんの髪が大きく揺らぎ、お互いの視線が一瞬途切れた。その瞬間、
「――そ、それで……近藤さん。その……大事な話って?」
俺はこの雰囲気に耐え切れず、このタイミングで沈黙を破ると、そのままいきなりストレートに本題に突入する。
「え、あっ……そうだった……」
近藤さんは、思い出したかのようにハッとした顔をしたかと思うと、すぐにかあっと頬を赤らめ、口をもごもごさせながら視線をあちこちに向ける。
「こ、近藤さん……?」
俺はその様子に思わず声が出てしまった。
「――っ! ご、ごめんね……わたし……変、だったよね……」
「え、いや……その……………」
そんなことないよ! なんて言えればきっと紳士なんだろう。
しかし、あいにく俺は紳士とは程遠い、ただの高校生なんですよね。それも陰の方の。
だから、俺は近藤さんに対してどんな言葉をかけてあげるのがベストなのかすらわからず、俺自身もテンパってしまい、口ごもってしまう。
近藤さんはその後もそわそわしていたが、しばらくして、ようやく話す覚悟がついたのだろうか。大きく深呼吸を一つして俺の目をその透き通るような瞳で見ると、
「じ、実はね……わたし……わたしは……」
「う、うん………」
近藤さんはそこで言葉を区切ると、いったん目を閉じる。そして、また深呼吸をしてからその目をゆっくりと開く。
近藤さんは、ちょうど屋上に吹き込んできた、今度はゆったりとした南風に乗せるかのように、そのやさしさのこもった声音で包み込んで、俺と近藤さんの関係を大きく変えることになる決定的な言葉を口にする。
「――高岡くんのことが……ずっと前から……好き……でした」
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