第28話 混沌の渦の中

 荊が話し終えた頃には、話し始める前の苦渋な空気が甘菓子だったのではと錯覚するほど雰囲気が一変していた。

 ここは地獄だ。


「あの色欲爺……ッ!!」


 憎悪の咆哮だった。

 大地を裂きそうな声を上げ、セルクはぎりぎりと拳を握る。怒りに震える手は行き場もなく自身を傷つけていた。

 爪が食い込んだ手のひらから、赤い血がぽたりぽたりと地面に落ちる。ぴしゃりと飛沫を上げて着地した。赤い跡は次第に繋がって大きくなっていく。


「領主という立場にありながら、何と傲慢なことか!! 人の命をなんだと思っている!! 悪鬼がっ!! 万死に値する!!」


 憤怒に顔を真っ赤に染めた女は修羅のようだ。

 もしも、たった今、目の前で彼女の背中の皮が剥げ、中から屈強で邪悪な化け物が飛び出してきても、荊は驚かない自信があった。人に体現できる怒りの度合いを越えている。


「そうですね。殺すだけじゃあ足りませんよね」


 荊はこくりと頷き、柔らかに同意を示した。

 死んで罪を償う。それだけでは足りない。転生という概念があったとして、その輪から外れ、一生に魂が業火に焼かれるだけでもきっと足りない。

 少なくとも、荊はそう考えていた。

 そして、自分がドルドを心底から嫌悪する感情にふと思考を止める。


 ――らしくない、んだろうなあ。


 荊にとって人の死は、酸素と同じだった。あって当然、無ければ死んでしまう。

 死に同情なんてするだけ無駄。悪人も善人も、誰しもがいつかは死ぬのだ。早いか、遅いか、速度の違いだけ。無。


 では、今、自分の身体の奥底から感じる熱はなんなのだろうか。

 自分に任せろ、と告げたのはどうしてなのか。自分が力になる、と手を取ったのは何になるのか。

 誰が死んでも、誰が泣いても、荊にとっては無関係であるのに。


 ――丸くなった、ね。


 ネロの言葉を思い出し、ふっと自らを嘲る。

 嫌だったのではない。むしろ、悪くなかった。

 悪魔使いとして夜ノ森家に仕えてきた今までの人生は何だったのだろうか、と疑問に思えてくる。

 それくらい、感じがした。


「セルクさん、手をかしてください」


 荊は自問自答を止めると、辛うじて変身をしていないセルクの手を取る。それから、彼女の手のひらにできた真新しい傷を指の腹で撫でた。

 心の中で貧欲の悪魔の名前を呼べば、傷跡はみるみると消えていった。


「傷ついた手じゃ、ドルド卿の横っ面を全力で殴れませんよ」


 荊はにこりと美しく微笑んだ。

 セルクはぴくりと肩を跳ねさせ、一瞬だけ呼吸を止める。時間にして僅かだったが、本能が死を覚悟して、身体が生きることを諦めたのだ。


 彼女はこの感覚を知っていた。

 以前、ペネロペが住む静寂の森で、ミミックドラゴンと対峙した時に体験したものだ。混じりけのない純粋な殺気。

 荊の言外に滲む真意にセルクは息を呑む。いつの間にか、この世を地獄にせんとばかりに燻ぶっていた怒りを見失っていた。手のひらの傷を未知の力で治されたこともすっ飛んでいる。


「セルクさん、教会に行きましょう」


 荊は屋敷に向かう騎士団よりも先に教会へと動きたかった。

 日常の歪みはすでに始まっている。異変を感じ始めている者がいてもおかしくはない。

 良くないことに、ドルドの屋敷は街の中心にある小丘の上。街のどこからでも見える。病院からでも氷の塔の影が見ようとすれば見えるのだ。

 これについては派手にした荊が悪いが、終わったことをとやかく言っても仕方がない。


 教会という単語で思い出したのか、セルクははっとして「カレン・ヘイルの件、調べたぞ」と硬い声を上げた。


 カレン・ヘイル。教会に通っていた少女であり、屋敷に保護された少女。

 荊は聞き慣れないファミリーネームに、セルクからの報告があることを察する。


「カレン・ヘイル。十八歳。家は住宅街にある。彼女の両親は数年前に流行り病で亡くなっていて、祖母と二人暮らしをしていた。しかし、その祖母も高齢で病気を患い、今年の春に亡くなっている。それとほぼ同時期から、カレンの消息は不明だ」

「家族以外に親戚は?」

「ない。祖母の死で孤独になった。家の中は家具や服なんかはそのままで、突然に姿を消したような状態だ。家に帰ってきている様子はない」


 おおよそ荊の想像の通りだった。

 首肯し、話の続きを待つ。


「ただ、近所の者たちは彼女が屋敷に保護されたことは知っていたが、本人から直接聞いた者は一人もいなかった」

「じゃあ、どこから?」

「辿り辿った答えは、教会で神父から聞いた、だ」


 荊は胸中で呆れた。もはや、反応を示すことも面倒に思える。

 お門違いだとしても、どうして気付かなかったのか、とセルクを責めたい気持ちまであった。疑わしきはすべて滅してしまえばいいものを、と。


 荊はただでさえ、教会に対して不快と不審を抱いている。これ以上の余罪が見つかっては、嫌悪で腹がはちきれそうだった。


「ペネロペはどうします? 一緒に連れて行きますか?」

「あの引っ込み思案を一人で置いてはいけないだろう。目を離した隙に屋敷に乗り込まれてもかなわんしな」


 ペネロペは祖父を呪い殺した呪術師を探している。それは復讐の炎に急かされてだ。目を離した隙に、とは十分にあり得る話で、荊はセルクの案に賛同した。


「少し待て。ドルド卿のことを報告するついでに連れてくる。もう呪具の解析も終わってるだろう」

「はい」


 セルクは小走りで病院の中へと消えていった。


 荊はぼんやりと空を見上げる。澄み渡った青い空、風に流される薄い雲、乾燥し始めた肌寒い空気。こちらの心情など関係なしに、秋晴れの良い天気だった。

 荊はふうと重苦しく息を吐き出す。無意識に出た疲労である。


 ――この事件の辿り着く先が分からない。




 教会は病院から歩いてすぐのところにあった。

 街の中心にあるドルドの屋敷からは商店街と住宅街を越えた先にあるので、徒歩ならばそれなりに距離がある。


「ここが教会ですか」


 荊は目の前にある建物をしげしげと見やった。

 教会と聞いてなんとなしに古ぼけた年季の入った建物を想像していたが、そこにあるのは小奇麗な建物である。建物自体は大きくはないが、ルマの街の住民の数からすれば、ここは広すぎるぐらいだ。


 曇りのない白塗りの外壁、光を浴びて輝く太陽のような形をした像。掃除の手が行き届いている、というよりは、新しく作り変えている、という印象を受ける。


 しかし、無神論者の荊には教会など縁もゆかりもない場所だ。彼にはこの建物が正しい姿であるのかは分からなかった。

 ペネロペも荊と似た程度の認識のようで、ステンドグラスを見上げながら「初めて来た」と小さく独り言を呟いていた。


 きょろきょろと物珍しそうな荊とペネロペにセルクは「教会に来たことがないのか?」と驚いた。

 二人は速やかに肯定する。


「まさか、イアル教を知らないなんて言い出さないだろうな。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」

「大雑把には知ってます」

「僕は、知らない」


 振るわない回答にセルクは呆れた。

 世界は広大だ。たくさんの国があり、たくさんの人と魔人が生きている。言語や文化は土地で細々と変わるものだ。しかし、世界基準で共通認識されていることもある。その一つがイアル教という世界宗教だった。

 荊もペネロペも世間知らずなきらいがあるが、それにしても限度がある、とセルクは閉口する。


「セルクさんは教会によく来るんですか?」

警邏けいらにはな」

「お祈りには?」

「私は神には祈らん」


 荊の疑問をばっさりと切り捨てたセルクは「行くぞ」と鋭い足取りで先を進んでいく。

 その背中に荊が「それなら、俺たちとさして変わらないじゃないですか」と声をかけたが、彼女は振り返りはしなかった。


 荊はすぐにセルクの後を追わずに、隣に立つペネロペの前に立ち塞がった。

 少女がきょとりと見上げてくる瞳の色を見て、荊は言いようもない不安を覚える。のっそりと絡みつく悪い予感。腐った腕で抱きすくめられているような感覚。


「ペネロペ。羽と顔を隠して。できれば、教会の人の前では声も出さないように。君まで目をつけられたら困る」

「う、うん」


 荊はペネロペにローブを着直させた。人目を惹く鮮やかな羽が隠れるようにだ。フードをかぶせて顔を見えなくさせると、緊張した視線が荊に向いている。

 荊はペネロペの手を握り、セルクの後を追った。

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