第17話 紐解いて過去

「荊さん……」

「はい」

「手を、繋いでも、いいですか?」


 荊は手袋を外し、一も二もなくアイリスの手を取った。細く小さな冷たい手。緊張からか少し湿っていて、わずかに震えている。


 アイリスはゆっくりと深呼吸をした。吐き出す息は揺れていて、空気を吸い込むとすっかり乾いた喉からかさついた音がする。


「その……、これから話す私のことは、内緒にして欲しいんです」

「それはもちろん」


 そのために、こうして二人きりで話しているのだから。


 アイリスは静かに語り始めた。


「荊さんには馴染みがないと思いますが、この世界では“イアル教”という宗教が種族を越えて世界的に浸透しているんです」

「イアル教?」

「はい。よく見かける教会はほとんどこの宗教のものです」


 荊は「ああ」と頷いた。活動拠点になっている首都エリオスでも教会を見たことがある。疑惑はさておきルマにも教会があるという話だ。

 しかし、急に宗教の話を持ち出してなんだというのか。荊は続く言葉を待った。


「それで、教徒の子どもたちは五歳の誕生日に特別な洗礼の儀式を受けるのですが――、そこで稀に“イアルの寵愛”を受ける子供がいるんです。寵愛を受けた者は“福音”という奇跡を起こす力を使えるようになります」


 寵愛、福音、奇跡。無神論者の荊にはさっぱりの内容である。

 しかし、心当たりはあった。

 荊は思わずにアイリスの手を握る力を強くした。

 福音という名の奇跡。それを聞いて荊の頭に浮かぶのは、彼女が彼の命を握る首輪を外してくれたあの時だ。


「俺のこと助けてくれた力……? アイリスは福音が使えるの?」

「……はい。でも、私は出来損ないなので。奇跡といっても、いつでもどこでも世の中とすべてを幸せにするようなものでなくて、命の危機にあるものを助けるくらいしか――」

「十分だろ」


 何を言っているのか、と荊はアイリスの言葉尻を遮る。

 自分の命を助けてくれた力が出来損ないなら、そうでない福音はどんな奇跡を起こすというのか。

 驚く青年にアイリスはふるふると首を振った。


「ちゃんとした寵愛を受けた者なら、命の危機に陥る前に守ることができます。私のは下手したら手遅れになってしまうこともありますから……」


 アイリスの視線がだんだんと下がっていく。


「私が守れる命はお花くらいです。人どころか、動物の命だって守れません。命が死にかけて、ようやく役に立てる」


 アイリスは恥ずかしそうに笑った。褒められて喜びに笑うのではなく、力不足で情けないのを誤魔化すような笑いだ。


 突拍子もない話であるが、荊はすんなりとその話を受け入れていた。魔法も呪いもあるのなら、意識的に奇跡を起こす力があっても不思議ではない。

 彼女の力出が来損ないだとしても、命を助けることができる力には変わりないというのに。その力を誇示しないあたりも、実にアイリスらしいと言えた。


「福音が使えることは、ルマの協会の神父様、お屋敷の方々が知ってます。ユンちゃんには詳しく説明してないので、彼女は不思議な力があるとしか」

「確かに。ユンちゃんがそんな風なこと言ってた」

「はい。基本的に福音が使える人間は敬虔けいけんなイアル教徒なのですが、私は信仰を捨てたので、人には言わないようにしてるんです」


 荊は彼女の判断を妥当なものだと思った。自分だってそうする。奇跡を起こす力なんて軽々しく口にするものではない。戦う力を持たないなら余計にそうだろう。


「お屋敷から声がかかったのは突然でした。福音を持つ者は人攫いに狙われやすいから、屋敷で保護したいと。私はこの国の生まれではないし、福音のことは内緒にしていたので驚きました。どこから漏れたんだろうって」

「急にそう言われたの? 屋敷と関わりもないのに?」

「はい。それで、保護を断ることと、福音のことを秘密にしてもらうために屋敷に行きました。ですが、話は聞いてもらえず、結婚するか死神の生贄になるか選ぶように言われて……」

「横暴な話だな」

「それで、生贄になることを選んだんです」


 この続きを荊は知っている。

 ここまででも十分に不幸な女の子の物語であるが、この後も彼女は不幸の道を転がり落ちていく。海賊に襲われ、暴漢に攫われ、死神に見初められる。


「私は昔から不運なところがあって……。それでも、いつかは幸せになれるんだって信じて生きてきました。でも、その時はもう駄目かもって思ったんです。もしかしたら、死んでしまうのかなって」

「アイリス……」

「ですが、心優しい死神様に命を助けていただきました」


 きゅっと弱々しい力が、荊の指先を握る。

 目を細め、潤んだ瞳で笑った少女は「ありがとうございます」と何度もしたお礼の言葉を飽きずに口にした。


「荊さんは私の心も助けてくれた」


 荊は感慨無量だった。

 汚れた手でも人を救えた、と今更ながらに実感したのだ。温かな気持ちはアイリスの手から身体の隅々に伝達していくようで、荊はむず痒そうに唇を震わせた。頬も熱を持ち始め淡く色付いたが、それを隠すための手はアイリスに捕らえられている。

 荊が嬉しそうに、気恥しそうにしているのを見て、アイリスも同じように破顔する。


「これで私とお屋敷とのお話は終わりです」

「……話してくれてありがとう」

「私もできることは何でもやります。絶対にナターシャちゃんを助けましょう」


 アイリスがナターシャに向ける想いはひとしおだろう。ナターシャは生贄を選ばなかったアイリスの未来の姿であるかもしれないのだから。

 自分が不幸を背負っていればよかった、などとアイリスに後悔させないためにも、彼女の害になるものすべてを滅し、ナターシャを救わねば、と荊は胸中で静かに誓いを立てた。


「そういえば、ユンちゃんに屋敷が女の子を保護するの珍しくないって聞いたけど、アイリスは他に保護された人で知り合いはいる?」


 しばらく考えて、アイリスは「一人」と答えた。


「カレンさんという年上のお姉さんです」

「その子は身寄りがあった?」

「詳しくは分かりません。ただ、おばあ様の病気が治るように教会に祈りを捧げに来ていました」


 荊の中で疑念は確信に変わろうとしていた。

 ルマの街の教会の神父、彼はいよいよもって信用できない。ナターシャもカレンも教会に通っていたというなら尚更。そこでドルドの屋敷に招かれる保護対象を選定してたのではないか、と。




 話の終わりを待っていたかのようなタイミングで、小屋のある方から草が踏み荒らされるが聞こえてくる。

 ばたばたとうるさい足音は狩りには向かないもので、姿を見なくても荊は誰のものか判別がついた。


「い、いい荊!」


 森から飛び出してきたのは荊の予想通りにペネロペだったが、彼女が勢いのままに突っ込んできたことは予想外だった。

 ペネロペは荊の首に腕、腰に足を回してがしりと抱きつく。荊とアイリスの繋がっていた手も自然と解ける。


「うお――、ペネロペ? どうしたの?」

「う、うう」

「ネロにいじめられた?」


 すすり泣く少女の背中をあやすように叩き、荊は努めて優しい声色で尋ねた。

 ネロにペネロペの世話を押し付けたのは荊である。これは防げた事件かもしれない。


「いじめてないし! ソイツはおどおどして話にもならないし!」


 荊の問いかけに答えたのは遅れてやってきたネロだった。しゃーと威嚇するように毛を逆立て「荊のせいだからね!」と怒りをあらわにしている。

 荊は失敗したな、と反省していた。これならば、片言でしか会話できなくても、良好な関係のツクヨミにペネロペを任せるべきだったかもしれない、と。


「ごめんね、ペネロペ」

「ボクにも謝って!」

「ネロ、いろいろ任せてごめん。いつも助かってるよ」


 ぐずるペネロペをあやし、癇癪を起こすネロをなだめる姿は保父のようである。

 ネロはとても怒っていますよという態度でいたが、実際にはそこまでへそを曲げていなかったらしい。謝罪が聞けると手のひらを返したように「許ーす」と笑っていた。


「……ペネロペ?」


 ペネロペは荊に飛びついてから、ぴくりともしていない。こちらの機嫌は直らないのか。心なしか背中の羽も元気がない。どうにか顔を覗きこもうとしても、少女の顔はぺたりと荊の肩くっついたままだ。

 何度呼びかけても返事はない。代わりに、耳を澄ますとすよすよと健やかな寝息が聞こえてきた。


「寝てる」

「ふふ、器用ですね」

「今日はいろいろあったからなあ」


 ペネロペの腕と足の力は強く、茨が彼女を支える腕を離しても地に落ちる様子はない。


「戻ろうか。ペネロペのこととか、今日あったことの続きを話すよ」


 荊は仕方がなさそうに笑い、ペネロペを抱えたままで帰り道を歩き始める。その後ろにアイリスが続き、ネロが隣に並んだ。

 アイリスはじっとす先を行く背中を見つめた。荊は子供を抱えるのにも慣れた手付きである。

 内気な少女がすっかり心を開いて懐いている様子に、アイリスはひっそりと下唇を噛んだ。悔しいのではない。

 ネロはそれを目敏めざとく見つけると、にやにやと笑う。


「アイリス、あの鳥女に荊を取られてヤキモチしてるでしょー?」

「や、妬いてません!」

「別にそんなことしなくても、アイリスは荊の特別だよ」


 からかう口調に反して、言葉はアイリスの背を押すようなものだった。


「荊、年下の世話するのはもともと好きだけど、昔はもっと冷たかったんだ。仕事のせいもあるけど、大事なものは作らないようにってしてたから余計にね」


 ネロは既に闇の向こうに消えてしまった背中を見つめる。一番近いところにいる荊の人となりはよく知っていると自負していたが、最近の彼はネロの知らない顔をすることがあった。


「ああやって、この子は困ってるから助けようっていうのは、アイリスに感化されたんだと思う」


 ネロはしんみりと言葉を紡ぐ。のろのろとする彼らしくない足取りを見て、アイリスは閃いたように「あ!」と朗らかな声を上げた。


「ネロくん、荊さんのこと取られて、ヤキモチ妬いてますね?」

「そっ、そんなわけないだろ!!」


 小さな猫の大きな叫びは夜の森にこだました。

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